■第四夜:乙女からの勅書
「「トラーオ? トラーオではないのかッ?!」」
まったく同じ叫びが、他方から同時に上がった。
ひとりはバートン。
ひとりはノーマン。
全身を重甲冑に包みフェイスガードを降ろしたままの彼の正体を、バートンとノーマンが即座に言い当てたのは、彼らがトラーオという少年のことを片時も忘れずにいたからだ。
かつてカテル病院騎士団に属していた騎士見習いの少年は、過酷過ぎる運命の悪戯によって、いまや“聖泉の使徒”の囚われとなっていた。
しかし、いま眼前にあるその姿はどうだ。
ジゼルの背後に跪き、まるで彼女を守護するかのように控えている。
それは囚われているというより……心からの忠誠を誓った忠実な騎士の振る舞いであった。
「トラーオ!」
「無事だったか!」
呼びかけ続けるふたりの声に、絶白の騎士が小さく身じろぎした。
捨て去った過去の自分に触れられた──その微かな痛みに震えるように。
「こら、わたしの騎士さま、ダメ。メッ、ですよ。貴方はわたしだけの騎士さまなんだから。勝手をしてはいけないの」
トラーオと呼びかけられ微かな動揺を見せた騎士を、ジゼルが情感たっぷりにたしなめた。
絶白の騎士が、呼びかけに上げかけた頭を垂れる。
それきり彼は身じろぎひとつしなくなった。
ただ固く閉ざされたフェイスガードの奥で、赤い瞳だけが爛々と光るのが垣間見えるのみ。
「そう良いコね、アナタは。わたしを裏切ってひとりにしたどこかの放蕩者……元聖騎士さまとは大違い」
「なにをしに来た。ことと次第によっては、ただでは済まないぞ」
アシュレとてトラーオのことは、バートンとノーマン両名から聞いている。
しかしいまは、エクストラム法王庁の切り札とでも言うべき聖騎士、それも最悪最狂の“聖泉の使徒”が、ここに現れた事情を聞き出すことが最優先だった。
なにしろそれはこの場所の存在が、エクストラム法王庁に露見したことを示すのだから。
対応を誤ればかつての帰属先との全面対決が、即座にあり得た。
油断も間違いも許されない。
戦隊を代表して詰め寄るアシュレに、ジゼルは笑みを広げた。
敵意はない、とばかりに両手を開いて見せる。
それは彼女の女性としての証をあらわにすることでもあったが、アシュレは動ずることなくジゼルを睨みつけた。
「おお、こわいこわい。その瞳、まるで敵を見るような目。どうしてそんなに恐ろしい視線をわたくしに向けるのです、アシュレダウ? ご安心くださいな。わたくしはなにも、ここに無謀な戦を仕掛けに参ったわけではありません。それよりこれはむしろ貴方のためになるはずのことです」
「ボクの?」
「貴方がたの、と言うのが正確でしょうか? たいへんに重要なお知らせを持って参りました。ヴィルジネス一世聖下からの詔勅です」
「ッ?!」
ヴィルジネス一世の詔勅。
つまり現法王の勅命という単語の登場に、その場にいた戦隊の全員が息を呑んだ。
ことのほか衝撃を受けたのは、ほかならぬアシュレである。
それは彼が元聖騎士であったからだけではない。
アシュレは史上初となる乙女法王:ヴィルジネス一世のことを、良く知っていた。
ヴェルジネス一世、その本名をレダマリア・クルス。
アシュレの幼なじみにして、前法王:マジェスト六世の姪。
ジゼルとともに、かつては同じ毛布を奪い合うようにして眠った仲だ。
アシュレがワールズ・エンデ世界の秘密を巡る長い長い冒険行に身を投じるきっかけとなった事件──夜魔の姫による聖遺物の強奪──にあって、時の法王:マジェスト六世から聖遺物奪還の任を帯び、人外魔境と化した隣国:イグナーシュへと向かうことが決まったあの日、祝福と聖印を授けてくれた女性でもある。
数奇な運命が引き起こした数ヶ月に渡る逃避行の後、彼女の戴冠とともに自らの祖父とも慕ったマジェストの死をアシュレが知ったのは、遠くアラムの地であった。
そしてレダマリアが……ヴィルジネス一世となった彼女が第十二回十字軍を発動したという知らせも。
十字軍の詔勅。
イクス教世界の全諸侯に、異教徒と人外の者どもを駆逐するための軍勢に参画するよう命じる、それは聖務禁止を上回る法王庁最大の強権の発動だ。
いったいなにが彼女をして、そうさせたのか。
本当にそれはレダマリアの意志なのか。
何者かによる強要ではないか。
アシュレはその疑念を、いまだに捨てきれない。
たとえば彼女の側近として仕える男のなかに買血奴:ブラドベリ・ボーンの名を、アシュレは聞き及んでいる。
ブラドベリは、アシュレが《閉鎖回廊》から人類圏に奪還したイグナーシュ領に、新たに設けられた教区へと赴任した枢機卿だ。
ヴェルジネス一世が法王の三重冠を戴く際に任命された、幾人かの枢機卿のうちのひとり。
枢機卿の任命は、新しく立った法王が自らの権勢を堅固にするため行う法王庁の慣例と言ってよかったが、バートンも、そしてその報告を受けたアシュレも、これをヴェルジネス一世自身の意志によるものとは見ていなかった。
そもそも前任者の法王:マジェストからして、親族主義と呼ばれるこの慣例に良い感情は持っていなかったようで、自らが法王の座についたときでさえ、新たに枢機卿に任じたのはレダマリアひとりだけだった。
通常この新規枢機卿の任命は五、六名、多い場合だと二十名という記録があるから、老齢の自分を補佐するという名目ではあっても、もともと教区の実務をほぼ専属の秘書官としてずっと手伝ってくれていた姪ひとりを選んだマジェストは、実に高潔な人物だとしか言えない。
それに比べブラドベリは、そもそもの司教位を金で買ったとさえ言われていた男である。
裏社会との癒着も疑われ、上位者への服従を義務とする教理を盾に常に高圧的な態度で特権を振りかざし、祝福を授けるという名目で若い女性信徒に行き過ぎた奉仕を強要したり、教えを説くと理屈をつけては自らの寝所に少年少女を侍らせているという信じがたい噂さえあった。
そういう人物が、こともあろうに枢機卿の座についた。
しかもイグナーシュの大司教としてである。
ブラドベリのこれまでの所業から、この赴任は国土の再建や困窮する人々の手助けをするためではなく、ヒトを買うためだと人々は口々に囁き交した。
聖務を隠れ蓑にした人身売買がためではないのか、と。
もちろんイクス教圏には奴隷制度は名目上存在しないが、借金のカタに女子供が娼館に売り飛ばされていることは、公然の秘密であった時代だ。
事実、ブラドベリは次々に女子供を己が僧院へと送っていた。
もちろんそれは民衆が考えるような、わかりやすい現実世界の暗部への媒介ではない。
もっと後ろ暗い世界への誘い。
《閉鎖回廊》に接した人間のなかには、稀にだが《スピンドル》の開花を見る者がある。
貴族でも富農でもない、底辺の貧しい暮らしを余儀なくされる人たち。
戦火とそれに続いた祖国の《閉鎖回廊》堕ちによって行き場を失った難民たち。
そういった、これまで《スピンドルの血の継承》とは無縁とされてきた人々のなかに、ときに奇跡が播種される。
それは人外魔境である《閉鎖回廊》を生き抜いた人々に、神が与える祝福と希望と捉えられてきた。
聖人たちが潜り抜けてきた試練と、それによって得られた奇跡と同等のものであると、そう解釈されてきたのだ。
だが、ブラドベリはそうやって《スピンドル》の種を宿した人々をはした金で買い、己が僧院で調教を施して、法王庁へと送りつけ貴族たちに道具として斡旋している──つまり《スピンドル能力者》の母体や種として秘密裏に仕立て上げているというのだ。
《スピンドル能力者》を産むため、孕ませるためだけの道具として。
人材発掘だと言えば聞こえはいいが、これは要するに人間を使った養殖であり、《スピンドルのちから》は神から授かったものであるというイクスの教えに、真っ向から反するものだ。
それ以前に、奴隷制度などよりはるかに後ろ暗い秘密を抱えた人間の売り買いを、こともあろうに聖職者が公然と行っているということになる。
ことの真偽はいまはまだ完全には明らかにはされてはいないが、そうとしか思えぬ活動が旧イグナーシュ領で、また法王庁で活発化しつつあることを、現地にいたバートンが数回に渡り確認しすでにアシュレに伝えてくれていた。
そのほかにも法王を補佐する枢機卿団内部の急進的過ぎる刷新や、異端審問官たちの大幅な権限拡大など、幼なじみであるレダマリアを知るアシュレからすれば、到底信じがたい決定が短期間のうちにいくつもなされていた。
その際たるものが十字軍の発動だ。
十字軍──この命を受けた者は、なにをおいてもまず法王の下へ馳せ参じなければならない。
だがその代わりにこの勅命に従う限り、また異教徒と人類外の存在に対するあらゆる戦闘行為に対し、加えてそれに伴う戦後の略奪行為において、いかなる手段も正当化する無制限の許しを法王は「事前に」与える。
そこに司法という概念は介在しない。
法王の勅命を頂く戦闘者こそ、法であるという理屈。
つまりこれは敵勢力の殲滅と絶滅を許す命令なのだ。
誤解を恐れず言葉にすれば、極めて原理的かつ先鋭的・狂信的な内容だとアシュレですら思う。
敬虔なイクス教徒であったレダマリアであるから、公然と己が信教の教理を批判することはなかったが──気持ちは同じだとアシュレは信じていた。
その彼女が、十字軍を立ち上げてしまった。
これはレダマリアに対し、なんらかの強制が周囲から為された結果であると、アシュレは睨んでいた。
たとえば先に語ったブラドベリ新枢機卿がその筆頭だ。
だとすればそのような連中に取り囲まれ、いまもレダは決して本意ではない決断を迫られているのではないか?
そう考え続けてきたアシュレにとって、ジゼルの言葉はまさに急所に射込まれた一刺し、魔弾の一撃に等しかった。
詔勅とはつまり勅命のことであり、たとえば帝国であれば皇帝自らの言葉ということになる。
そこにどのような言葉が綴られているのかわからないが、すくなくともそれは第一級の公的文章ということになる。
レダマリアとしてではなく、法王の言葉として記録に留められるものだということだ。
そうである以上、これは彼女自身の責任ということでもある。
公人としての法王が、聖エクストラム派イクス教徒を代表して神の代理人たる法王が、アシュレたち戦隊に向けて宛てた言葉だ。
彼女自身の内心がどうあろうと、公式の発言、記述であるという事実からは逃れられない。
十字軍の発動を直に聞いたわけでも、公文章で確認したわけでもないアシュレからすれば、それを聞いて良いものか、目を通してよいものか躊躇するのは当然といえば当然の代物であった。
たとえばここで宣戦布告がなされていた場合、アシュレは公然とエクストラム法王庁と法王本人──レダマリアと敵対することになってしまう。
「レダ……いやヴィルジネス一世聖下が」
我知らず恐懼にも似た戦慄に、アシュレは襲われていた。
これから告げられる詔勅如何では、もう後戻りできぬ場所に自分は立つのだという確信があった。
しかしそんなアシュレの葛藤を、“聖泉の使徒”はまったく斟酌した様子もなく淡々と続けるのだ。
「わたくしが勝手に言葉を改竄したと疑われぬよう、口頭ではなく、ここに書簡のカタチで携えました」
ジゼルが瞳を伏せると、にわかに水面が沸き立ち、重厚なビロード布にくるまれ厳重な封がなされた木箱が現れた。
それが水でできた小さな二頭の馬の背に乗せられ、手元まで運ばれてくる。
馬たちはすぐそばまでくるとゆっくりと姿を変え、伸びゆく樹木の姿を取って、書簡をアシュレの手のなかへと届けた。
聖瓶:ハールートは大瀑布で敵を打ち倒すばかりではなく、このように細やかで精密な水流の操作を可能にする。
まさに聖泉の神器という名がふさわしい品であった。
アシュレは木箱の封を解き、そのなかに収められていた良質の羊皮紙の巻物を手に取ると、封蝋を崩して目を通した。
代々の法王が右手に受け継ぐ神の代理人の証。
“光臨者の指輪”。
それを使った捺印が目に飛び込んでくる。
ぶるっ、ぶるりっ、と読み進むほどにアシュレの肉体は震えた。
その内容に。
敵対の言葉など、どこにもなかった。
ひとことで言えば、それは窮状を訴える嘆願だったのである。




