■第三夜:聖泉の魔女
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だが──“再誕の聖母”が居座る空中庭園:ガルフシュバリエへの侵攻作戦に向け動き始めた戦隊が、その手を止めなければならぬ事件が起きたのは、数日後のことだった。
アシュレたちが生み出したばかりの疑似生命体:ファッジたちとともに、肉体のリハビリテーションを兼ねた農作業にいそしんでいたときのことだ。
若き騎士には、これが最期の戦いになるかもしれない、という予感があった。
ひとたびこの空中庭園を飛び立ち、“再誕の聖母”と対峙したならば、もはや自分は二度とここへ帰ってくることはできないのではないか。
彼女──“再誕の聖母”:イリスベルダを討つためには自らの命を投げ出さなければならないのではないか。
いつか海の邪神を救ったように、己自身を回路にして自らの《魂》を燃やし尽くさねばならぬのではないか。
差し違える、いやそれ以上の覚悟が必要なのだということを、アシュレの騎士としての肉体が察知していたのだ。
そうでなければ、あのヒトのカタチをした“生ける理想郷”を、この世から葬り去ることはできない。
そしてそんな本能の訴えがアシュレを、あるいはノーマンやバートンといった男たちを、土いじりに向かわせていたのかもしれなかった。
これは、圧倒的な虚構の存在=“生ける理想郷”に立ち向かうにあたり、郷土、故郷、祖国といったこれまで自分たちを成り立たせてきたものに対する実存を、その手触りを、彼らの肉体が自然に求めた末のことだろう。
しかしその日、異変は起こった。
最初に異変を察知したのは蛇の姫:マーヤだった。
彼女は宮殿の前面に位置する大噴水と、そこから張り巡らされた上水道全域を自らの居場所に定め、滞在を許されていた。
まあ許すもなにも、アシュレたち戦隊が安全で清潔な上水を潤沢に、それこそ蕩尽というレベルで使えるのは彼女のおかげであり、また汚泥の騎士たちからも絶大な人気を誇るマーヤの存在は、すでに戦隊にとってなくてはならないものになっていたわけだが。
長きに渡る幽閉生活と自由を奪い続けてきた枷によって、陸上ではうまくカラダを動かすことのできないマーヤは、日々の大半を水のなかで過ごすのが常であった。
またこれも同じく虜囚としての生活がそうさせたのか、はたまた生来のものか、強い太陽の光は蛇の姫の肌と目を焼いた。
そんなわけで、マーヤは上水道のあちこちに設けられた天幕の陰に引きこもっていた。
そこから漏れ聞こえる歌声が、日中の彼女の実存を知らせる唯一のもので、姿を拝めるのは夕暮れ時から明け方までの時間だけ。
そのわずかな時間、一日の業を終えて水辺に佇み彼女と真騎士の乙女たちが歌い交すのを聞くのが、戦隊の男たちの日課になっていた。
それは実に麗しい……人類と異種族との共存は可能なのではないかと思わせる一幕だった。
その麗しい歌声の変調を、アシュレははじめて聞いた。
『おかしい、なにかがおかしい。危険だ、我が騎士殿』
潅漑のため用水路を引いたアシュレの、その眼前に流れてきた水が震えて声を伝えた。
もちろんすぐにそれが、蛇の姫からのメッセージだと気づいた。
「マーヤ?!」
『来てくれ、アシュレ、アシュレダウ。姫の血が共振して震えている。これはなにかが、来る』
マーヤが言い終わるより早く、アシュレは農耕具を放り出し駆け出していた。
同じく農作業に従事していたノーマンが続く。
ヤイヤイ、とファッジたちが抗議なのか歓声なのかわからぬ声を上げるが、構っているヒマはない。
そしてアシュレたちが泥だらけのまま宮殿の前庭に走り込むのと、水面からそれが現れるのはほとんど同時だった。
まるで間欠泉が力を溜めるようにごぼりごぼり、と水面が湧いた。
アシュレたちが駆けつけたときには、戦隊に属するほぼすべての人員が前庭に集結し、異変を注視していた。
「あれはなんだ……水面が?」
「これはッ」
我知らず問うたのはノーマン。
対するアシュレは、それまで静かだった水面が、このように湧く現象に心当たりがあった。
これはまさか、と推測が口を吐く。
『騎士殿、これは、この反応は……我らが蛇の巫女が奪われた神器がひとつ──聖瓶:ハールート!」
アシュレが答えに辿り着くのと、蛇の姫が叫ぶのは同時だった。
そしてまさにその瞬間、どう、と水柱が噴き上がり、それは現れたのだ。
噴き上がった水柱が収まり、水煙が晴れたときそこに立っていたのは……信じがたいことに巨大な水瓶を掲げた、裸身の美女だった。
その美女と掲げられた黄金の水瓶のことを、アシュレは良く知っていた。
ただ、どうやってこの空中庭園の所在を突き止めたのかだけは、理解が及ばなかったが。
「これはこれは皆さまおそろいで。なるほどなるほど、そうですか、これは考えましたね、アシュレダウ。竜族の所領、空中庭園を我が物とするとは。簡単には思い至らぬのも当然。見つけるのに異常な手間がかかったのも、合点が行きました。潜伏先としてこれ以上のものはない。合格点を差し上げましょう」
美女の呼びかけに、アシュレは戦慄に震えながら答えた。
彼女の名を。
「あなたは……いいやオマエは。ジゼル……ジゼルテレジア……そうなのかッ?!」
「あらあら、久しぶりに再会したというのにそんな汚物を見るような眼差しと、呼び方。さすがに傷つきます」
なんということだろう。
艶然とした笑みをたたえて水底から現れたのは、なんとエクストラムの聖騎士だったのだ。
それもただの聖騎士ではない。
“聖泉の使徒”の異名を持つ超常能力者:ジゼルテレジア。
アシュレが昇格の試練に合格するまでは、史上最年少の聖騎士昇格の試練の合格者。
歴史上ふたりしかいない十代で聖騎士位を授かった俊英中の俊英。
いずこからか無限に水を汲み上げ、これを聖別して操るという神器・聖瓶:ハールートの使い手にして、アシュレダウの婚約者だった女性。
「なぜここが? どうしてここに?」
「そんなに警戒しなくてもよいではないですか、アシュレダウ。婚約者の身を案ずるのは恋する乙女としては当然のこと。その居場所を知りたいと求めるのは当たり前のこと」
そっと髪を直しながら、なにごとでもなさげにジゼルは言った。
対するアシュレに声はない。
想うだけで相手の居場所が割り出せるなら、女性はみんな揃って超常捜査能力者になれる、とアシュレは思う。
こんなことができるのは世界に数人といまい。
間違いなく彼女は己の異能と聖瓶:ハールートの《ちから》を用い、恐るべき執念を持ってアシュレの居場所を突き止めたのだ。
恐らくはアシュレが身を清めるのに使った上水の流れを辿って。
この空中庭園から滝となって流れ落ち、雨の滴や霧雨となって海や湖や河川に流れ込んだまさにその一粒から、わずか二ヶ月足らずの間に、この場所を特定したのだ。
偏執狂的な探査。
それは恋慕というより執念、いやもはや怨念と呼んだほうがふさわしい。
なにより本人はその異常性をまったく認識していないところが、彼女の真の恐ろしさだった。
そんな離れ業を可能にした聖瓶:ハールートにジゼルは唇を寄せ、剥き出しの胸乳を押しつける。
聖瓶:ハールートの《ちから》を最大限に扱うためには、ジゼルは衣服の類いを一切まとうことができない。
これはハールートが所有者の五感と限りなく親密になることで、真の《ちから》を発揮するタイプの《フォーカス》だからだ。
自らの裸身を覆うものはその見事な赤みがかった金髪だけという姿で、ジゼルは頬をバラ色に染め夢見るように微笑んだ。
その表情にアシュレが見出すのは、いまや恋慕や思慕ではなく狂気である。
事実、アシュレたちはかつてカテル島の地下聖堂で、ジゼルと聖瓶:ハールートと対峙している。
いいやそれは、対峙などという生易しいものでは断じてない。
聖務の名のもとにアシュレに対する執着とシオンに対する私怨──自らの婚約者を奪い去った夜魔の姫への狂おしいまでの嫉妬を糧に、地下聖堂丸々を水没させ自分たちを死の寸前にまで追いつめた彼女の姿をどうして忘れることができようか。
実際にあの攻防で、シオンは幾度かの死を迎えることになった。
いまここでシオンが生きていられるのは、ひとえに彼女が真祖の直系:デイ・ウォーカーレベルの高位夜魔であったからに過ぎない。
超水圧とそれが操る夜魔の騎士の遺骸=鏖殺具足を用いて、“聖泉の使徒”はなんどもなんどもシオンを叩き潰したのだ。
超重量に叩きのめされ、聖水によって身を焼かれ、シオンは幾度も死と復活を繰り返す無限地獄を味わうことになった。
そして繰り返されたシオンの死が、なにをアシュレにもたらしたかは、あえてここでは繰りかえさないが、すくなくともジゼルが口にする自分への想いを、アシュレはもうなにひとつまっすぐには受け取れない。
幼いころともに同じベッドで眠ったこともある、姉とも慕った女性は、思い出とともに死んだものとアシュレは考えるしかなかったのだ。
それがいま、このとき、目の前にまるで過去の亡霊のように現れ出でた。
アシュレの驚愕と狼狽が、無理からぬものだと理解してもらえるだろう。
しかも彼女は引き連れていたのだ。
己の忠実な使徒を。
絶白の甲冑に身を包み、太い縛鎖で結ばれあった絶対の騎士を。
がしゅり、とフェイスガードの下から漏れ出る熱い呼気とともに、赤い光を放つ瞳が垣間見えた。




