■第一夜:真夏の雪のように
だれよりも早く異変を察知したのは羊飼いたちだった。
季節はすでに夏。
降雨のほとんどが秋から春先までに集中するファルーシュ海世界では、この時期、平地では徐々に乾燥に悩まされるようになる。
小麦やキャベツ、蕪の畑は休耕地や豆類に植え替えられ、果樹園やオリーブの森のような換金作物の手入れのほうに村の労働力が割り振られる。
放牧が盛んになるのもこの時期だ。
牧畜を行う農家は夏の声を聞くと羊飼いたちに羊を預け、高原地帯で良く茂った青草をたっぷり食べさせる。
それぞれの村は専任の羊飼いたちをそれぞれが雇っていて、夏の間の羊の世話は羊飼いたちが村人ひとりひとりから請け負う。
羊飼いたちは冬から春までは墓掘りや刑吏、皮剥ぎなどの職を転々とし、夏が来るとなじみの村に現れ雇われる……傭兵のような……専門の職業なのだ。
彼らに預けられる羊たちはそれぞれがどこのだれの所有物かひと目でわかるよう、耳に特徴的な切り欠きを専用の道具で作られる。
夏の間に羊の乳から作られるチーズは村の重要な食料・収入源であるとともに、これを作り管理する羊飼いたちの報酬の一部でもあった。
その羊飼いたちが見たのだ。
それは最初、低く地を這う雲のように見えたという。
夏季、イダレイア半島の空は青く晴れ渡る。
といってもそれは平地のことで、山の天候が急変することは珍しくない。
むしろ日常茶飯事と表現したほうがいいだろう。
けれどもなにかがおかしい、とこのとき羊飼いたちは思った。
あんなに低く、それもまるで山肌を滑り降りてくる雪崩のように恐ろしい速度で世界を包み込んでいく、あんな真っ白な雲が────遠く、人界と夜魔たちの世界を隔てるイシュガル山脈の永久氷壁を駆け下って来るのを見るのは、山に半生を捧げる彼らですら初めてだった。
続いた異変は牧羊犬たちの吠え声だった。
忠実で賢い、だから普段は唸りもしない犬たちが立ち上がり、吠え始めたのだ。
一斉に、その雲めがけて。
そして……数秒もしない間に世界は雲に呑まれた。
突然の白き闇。
いや、正確にはそれは雲ではなかった。
叩きつけるような冷気。
その正体は大気中を漂う細かな氷の砕片。
それが羊飼いたちを呑み込み、襲ったのだ。
目撃者である羊飼いはそのとき、チーズを保存する洞穴の入口にひとり立っていた。
異変を察知した瞬間、彼は洞穴に飛び込み、扉を閉めて鍵をかけた。
そのとっさの判断が彼を救う。
凄まじい冷気が扉を打ち、隙間から流れ込んでくる。
階下に避難した彼が見たのは、階段をまるで滝のように流れ落ちてくる真っ白な冷気の軌跡だった。
復讐に燃える大蛇のように、周囲の空気を凍りつかせながら冷気が滑り落ちてくる。
彼はこけつ転びつ走り、最後は這いずるようにしてチーズを保存する洞穴の深奥にまで逃げ込んだ。
奥に積み上げられていた木箱の山に駆け上がる。
熟成したチーズを運び出すのに使うものだ。
そこで足下から遭い登ってくる冷気に震えながら耐えた。
仲間は、残してきた愛犬は、預かり物の大事な羊たちは──どうなったのか。
いいやそもそも、自分は生きて帰れるのか。
そればかり考えながらじっと震えて、脚を両手で抱え唇を紫に染めて。
そして、どれくらい経っただろう。
下り降りてくる冷気が幾分にしても緩んだように感じられて、彼はそれまで座り込んでいた木箱の山の上から降りた。
確信があったわけではない。
ただ彼にはもう、耐えられなかったのだ。
孤独と恐怖に、頼りない獣脂のランプひとつで震えながら待つことに。
そして、地上に這い出した彼が見たものは……。
無残に食い荒らされた羊たち。
まるで狼にでも食い千切られたかのように周囲に血や脚、頭部に臓物がまき散らされていた。
生き残った一部がパニックを起こし、逃げることもできずに一塊になって震えていた。
ただ、狼の仕業でないことはたしかだった。
彼らはこんなふうに雑に獲物を扱わない。
玩弄、という単語が、学のない羊飼いの脳裏にさえ過った。
これは、この食べ散らかし方は──この捕食者は楽しんでいる。
獲物を殺すだけではなく、それ以前に、玩ぶことを。
そして白く霜を噴いた地面に転がる死体のなかに、自分たちの仲間、顔見知った羊飼いの面々が混じっていることに気がついたとき、ついに彼の胃の腑が根を上げた。
止めどなく吐瀉が口を吐いた。
吐いても吐いても止まらなかった。
彼は凍りついてしまった草原に四つん這いになって跪き、吐瀉を繰り返した。
苦しみにのたうち回って、這いずって現実から逃れようとしたが、空ろな瞳を見開いたまま自分を見上げる仲間の頭部と再会して、また吐いた。
涙も鼻水も吐瀉物もすべてを出し尽くし、ズルズルになった彼は、そこでやっと気がついた。
牧羊犬たちがいないことに。
どこにも。
死体の海にも。
一匹の残らず消えうせていた。
よくよく見れば、わずかになにものかと争ったような痕跡が地面にはある。
しかし、その足跡は途中から様相を変えていた。
半ば凍りついた血溜まりが示していた。
獣たちが獲物を追って走り、その爪が掘り返した大地の傷痕が教えてくれていた。
これでは……犬たちが群れになって羊や仲間の羊飼いたちを襲ったように……見える。
そう──なにものかに先導されて。
羊と主たちに牙を剥いた。
そして、彼らはいずこかに去った。
去ってしまった。
自分だけを残して。
知らせなければ、という思いが羊飼いを突き動かした。
それは彼の善性の為せる業であったろう。
逃げるのではなく、この事実を自分を雇ってくれている村人たちに知らせねば。
だが、彼のその思いと行いは徒労に終わる。
知らせるべき相手は、このときもういなかったのだ。
この世に。
すくなくともニンゲンのカタチとしては。
さて本日より連載再開、第八話を進めさせて頂きます。
タイトル「夜魔の紋章」にあるとおり、今回のお話はイシュガル山脈の向こうにあるという夜魔の大公の國:ガイゼルロンを主たる舞台とした物語になっていくはずです。
連載再開の本日は、二話連続で公開して参りますのでどうぞよろしくです(ぺこり)。




