■第二一一夜:Farming Agent
学びと回復に努める日々は続く。
空中庭園では毎日のように目を瞠るような出来事が起こった。
汚泥の騎士たちと豚鬼王:ゴウルドベルドが参加する巻き狩りは大盛況だった。
不浄王:キュアザベイン率いる汚泥の騎士たちは己の武勇と戦隊の食糧事情のため、ゴウルドベルドのほうは貯蔵食料の払底を防ぐためとそれぞれ思惑は違っていたが、いずれも素晴らしい料理という至高の目的のために一致団結してこれに当たった。
ゴウルドベルドから聞かされてはいたが、この空中庭園は豊かな自然を誇り、そこに住む野生動物たちを育んでいた。
鹿、イノシシを始めとし無数の野鳥──そのなかには鴨を始めとする渡り鳥たちが含まれる──を庭園の至るところで目にすることが出来た。
キュアザベインが言うには、かつてこの空中庭園には二千人近い人々が暮らしていたという。
これはアシュレたちの暮らすイダレイア半島では、中規模クラスの城塞都市とその周辺人口に匹敵する数である。
それだけの人口を支えてきた空中庭園の潜在的供給能力があれば、汚泥の騎士たちを含めてもせいぜい二〇〇名に満たぬアシュレたち戦隊の食料事情など余裕で受け止められるはずだ。
もちろんそれは選任の食料生産者がいればの話だ。
この戦隊のなかで農耕に従事したことのあるのはアシュレを始め、元農民の出自でありカテル病院騎士団での奉仕活動を行ってきたノーマンと、これまたバラージェ家の執事であるバートンだけというありさまで、こちらは前途多難というべきだった。
狩りはともかく、主食であるパンを作るためには穀物を育てなければ話にならない。
「荘園の手伝いをしたことはあるけど……参ったな。これは盲点だった」
これまでせいぜい二十名に満たぬ小戦隊のことだけを考えていれば良かった時代とは、別次元の重責が内政部分に一気にかかってきた。
汚泥の騎士たちの食料分まで考慮に入れれば、突然その負担が十倍に膨れ上がったのだ。
いかに豚鬼王:ゴウルドベルドの食料庫の備蓄は莫大といえど、二〇〇名の口が毎日三食かそれ以上の頻度で食べ進める速度には敵わない。
手を打たなければ深刻な食料不足がまた到来するのは確実だった。
食料……特に穀物事情に頭を悩ませていたアシュレを救ったのは、意外にも竜の皇女:ウルドだった。
「我らが竜族が食事に困らなかった理由を教えよう」
竜の皇女はそう言い放つと、アシュレに胸を張った。
たしかに、とアシュレは思った。
竜族たちは王としてそれぞれが己の空中庭園を領土とする。
そこには領民がいて王である竜族に絶対服従の臣下として仕えているわけだが──たとえばこのイスラ・ヒューペリアであれば二千人規模の暮らしがそこにはあったわけだ。
人間は霞を食って生きるわけにはいかない。
竜だってそうだろう。
そうであるならどこかで食料を生産したいたのだ。
ただ……竜族は人間を臣下として用いる。
農業従事者ではなく、己の側にはべる宮廷の人間としてだ。
この時代、片手間で農家は務まらない。
宮廷に仕える者たちがいったいどれほどの割合いたのかわからないが……たとえば半数も宮仕えに取られたら、普通は食料事情は崩壊する。
人類社会で言えば、農民と同じ数の人間が宮廷に暮らしていることになるわけで、とてもではないけれど賄いきれない。
特に竜族はなににつけても蕩尽を美徳と考える種族だ。
相当な頻度で祝宴や夜会を催していたものだ、とウルド自身が教えてくれた。
なにかからくりがあるのは間違いなかった。
「なにかあるんだね、秘訣というか秘密のようなものが」
「任せておけ、その秘密を見せてやろう」
竜の皇女は請け負うと、なにやら宮殿の前庭をツカツカと歩いていって、突然茂みに手を突き込んだ。
えっ、と驚く間もなくウルドが引っぱり上げたのは……人間の子供が手足を丸めて座り込んだほども大きさのある……コケの固まりだった。
「え、ナニそれ?!」と驚くアシュレにウルドは微笑み、これを放り投げた。
慌ててアシュレは走り出し、受け止める。
重い、そして柔らかくて、ほんのり温かい?!
「わあ、なにこれなにこれ、あ、あたたかい?!」
「言わなかったか、アシュレ。これが我らが忠実なる下僕……Farming Agent……ファッジだ」
「ファーミング・エージェント? 農業用代理人? 略してファッジ?!」
「意味は知らん。しかし太古の昔から、こやつらが我らが竜族の空中庭園を管理し続けてきた。前に話しただろう、竜の聖域で」
たしかにそんな話をしたな、とアシュレは思い出した。
そうだ間違いない、狂気に呑まれたスマウガルドが人工生命体だけでなく人間をその素材として手にかけた……そういう話の流れで、だ。
でも、
「これこれ、でもどうするんだ。わあ、動いた。柔らかい! くにゅっとしてる?! これコケじゃない、毛皮だ?!」
「慌てるなアシュレダウ。これはコケだよ。コケの仲間が群体になってこんなふうに動く。それぞれの役割を分担させて……群体生物というのか、こういうのを? なかまで全部コケでできた人造生命体。それがファッジ。生まれついての園丁だ」
「これがファッジ?! じゃあこんなのがいままで宮殿の前庭をうろついていたのか?! 全然わからなかった」
「それはそうだ。こやつらは命じられない限り、人目につかず人知れず庭園の景観を保つのが仕事だ。それにじっとしているとコケの固まりにしか見えんのだから。加えてこやつらがいるのは前庭に限らん、そのへんの草原にも、林にもすこしずつタイプの違うものが伏せている」
「草原にも林にも……ってまさか、彼らはこの庭園のいたるところにいるワケ?」
「いるとも。その辺の茂みを探ってみるがいい。このあたりだけで数十は潜んでいるはずだ」
「なん……だと……」
「そのあたりはとんと疎いのだな。いいだろう、アシュレダウ。我が直接、そこもとに空中庭園の統治と仕組みを英才教育してしんぜようから、感謝するが良い。これはうむその将来的にも、そのう……王国を発展させていくにも、子孫を育んで行くにも、ああ、必要なことである」
「王国……そうか……ここはもうたしかに国なんだな。小さくても」
ウルドの言葉にアシュレは思わずアゴに手をやり考え込んだ。
ここまでアシュレは自分の思いで、戦隊を引っ張ってきてしまった。
世界の欺瞞に抗う《意志》で、と言えば聞こえはいいが要するにそれは自分の我が侭でもある。
この世界全体が大勢の無自覚な《ねがい》の産物だったとして、その欺瞞に、つまり自分たちの生きる現実が、実はだれかによって仕組まれた歌劇なのだと気がついてしまった役者たちは、この先どうやって生きればいいのか。
なにを縁に?
その問いかけにアシュレはまだ即答できない。
いやそれどころか、アシュレはこれから先、世界の欺瞞とその先兵である“理想郷”を現実のものとして降ろそうとする勢力と、激突していかなくてはならない。
しかもそれは、これまで戦隊のだれしもが属していた世界を、根底から破壊することと同義でもある。
人間はなんらしかの寄る辺がなくては生きていけない生き物だ。
そんなことはない、自分はひとりでも生き抜いていける、などと豪語するのはたやすいが、それは実際に世界基盤が失われるという──まるで地面がなくなるかのような──天変地異を想像できない人間のセリフだ。
これまで自分が立っていた、決して失われることなどないと無意識にも信じきってきた価値観を、アシュレは破壊していくことになるのだ。
そのとき失われた足場のかわりに、どこに寄って我らは立つのか。
ウルドの言葉は図らずもその答えをアシュレに示してくれていた。
「そうか……国か。ボクたちは国になるんだ」
ようやく気がついた、というアシュレの顔を竜の皇女は不思議そうに覗き込んだ。
「アシュレダウ、いまさらか?」
「ごめん、きみには教えられてばかりだ。そうか、そうなんだな」
「世界の在り方と戦隊の行く末を真剣に考えているから、とっくに気がついているものだとばかり思ったのだが……」
ウルドが両拳を腰に当ててため息をついた。
「我を組み伏せるというのは、我が領土を併合するというのと同義なのだぞ?」
「まいったな。きみの言う通りだよウルド。覚悟が足らなかった」
「ふむん、呆れたヤツ。しかし足らなかったのは言葉にすることだけで、貴様の行動は、もうすでに君主の階段を上り始めている。いいであろ、我が王道のなんたるかについては手取り足取り教えよう」
「とりあえずは穀物の栽培と収穫の問題だね」
「例の豚鬼王が麺麭の類いはふんだんにこしらえていたから、小麦の生産はいまでもある程度は確保されているようだが?」
「そのへんはゴウルドベルドに問い合わせよう。ただ……彼は自分の食材調達地と言い張って譲らないかも」
「なるほど、それは一利ある。しかしだからこそのファッジである」
「ファッジ?」
「やつらがどこでどんな仕事に従事しているのか、いまの貴様であれば《御方》の死骸を通じて瞬時に把握できるであろう?」
「あ、その手があったか。労働力の分配と配置されているエリアの分布図を相互に参照すれば!」
うん、とウルドは頷いた。
「頭の回転はさすがに良いようだな。ならば善は急げだ」
ふたりはすぐに竜の聖域に向かった。
なお最短ルートは例の地下下水道の奥からになる。
汚泥の騎士たちの領域。
アシュレが《御方》を制したことで時空のゆがみや捩れが安定化し、《通路》が安全に確保できるようになったのだ。
ふたりはさっそくファッジの稼働数と分布、仕事の割り振りを確認した。
その結果、この空中庭園では想像より遥かに多い種類の穀物が、かつては生産されていたことがあきらかになった。
ライ麦、小麦、大麦、十種類近い豆類、トウモロコシに……陸稲、水稲の仲間。
しかしそのほとんどが現在は生産を停止しているか、極めて少ない収穫量に留められていることも判明した。
「これは……」
「この庭園はしばらくの間、放棄されていたのだ。わたしがスマウグを誅殺したあとは、ずっと。そしてその間の百年近く、ヒトはひとりもいなかった」
我が鏖殺したからな、というウルドの呟きをアシュレは聞かなかったことにした。
「その間も食料を生産し続けていたら……たしかに無駄……いいやそれどころかひどい連作障害を起こすこともあるものね」
「連作障害?」
「同じ作物を連続して同じ畑で育て過ぎると起きる……植物の病気さ」
荘園経営を手がけてきたこともあるアシュレは、その弊害をまず荘園の農夫たちから教わり、詳しい仕組みをアカデミーで学び、その後、実際に土地を検分して理解した。
「だからボクらは数年おきに畑を休耕地にしたり、別の作物に植え替えて育てたりすることでそれを防ぐんだ。豆の仲間がここの生産物のリストに残っているのは、その証拠だよ」
ただ、と眉根を寄せた。
「百年も放置された土壌がどんなものか……正直言ってわからない」
「しかし農耕地が森に帰るのだけは、ファッジたちが死守してくれるはずだ。アレは王国の土地の価値を上げ、それを維持するのことを至上命令として与えられ産み出された生命なのだからな。……どうした、気乗りしないという顔だが」
ウルドからの問いかけに、うん、とアシュレは頷いた。
「王国の土地の価値を上げ、それを維持することを至上命令とする生命か……」
「罪深い、などといまさら言うなよアシュレダウ。貴様はすでにひとりの王である。だれが認めずとも、すくなくともこの我はそう断言する。わ、我を組み伏せ心を奪った段階で、貴様はすでに王なのである。我の頭上から冠を捥ぎ取ったのであるから、その程度の非情は覚悟せよ!」
「ああ、いや、そうじゃなくて」
アシュレの態度を弱腰と見たのか、食ってかかってきた竜の皇女をやんわりとアシュレはいなした。
「そうではなくて。ファッジたちを産み出すとき、その至上命令? にちょっと書き足すことはできるのかな?」
「ちょっと書き足す? むうん、どうであろう。正直そこは考えたこともなかったな。そもそも基礎設計は古エフタルによる複雑な命令文であるから……スマウガルドのような男であればともかく……大抵の竜族はレシピにある雛形をそのまま使っていたはずだ」
「もしそれを読み解いて、書き加えることができたら?」
「貴様……なにを考えている?」
こんどは眉根を寄せるのはウルドの番だった。




