■第二一〇夜:渇仰する世界
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さて日々は嵐のように過ぎ去る。
気がつけばひと月はあっという間であった。
スマウガルドの屍に潜り込み、これを繰り人形にしていた《御方》との戦いに勝利したアシュレはその権能を勝ち取って、この空中庭園:イスラ・ヒューペリアを完全に掌握した。
以来アシュレはイズマを伴っては、竜の聖域に入り浸っている。
「コイツのことを、いつまでも《御方》と呼ぶのは弊害がありそうだね。これからこの個体は……そうだな、ヒューペリオンとでも呼ぼうか」
古いエフタルの言葉で太陽王を意味する呼称をアシュレがその個体に与えたとき、その皮肉のセンスに苦笑したのはイズマだけだった。
調べを進めると、この《御方》:ヒューペリオンはその神経網を空中庭園全島に張り巡らせていることが判明した。
空中庭園各地に残る古代アガンティリスの遺跡。
そのそこここに眠る施設群が《御方》の耳目として機能することを、アシュレとイズマは協力して検証し、それらが稼働状態にあることまで突き止めた。
「便利なものだね、これ、この島の全容を外側から……まるで鳥の目を借りているようにつぶさに確認できるんだ。なるほどスマウガルドはこれを使ってこの島の状況を把握していたのか。まるで“神さま”にでもなったような気分……というのは理解できなくもない」
「まあその便利さ……“神”のごとき権能を突き詰めようとして滅んだんだけどね、アガンティリスもアガンティリスが理想とした超古代先史文明も」
アシュレがこの世界の真実に迫ったことにより、かつて受けた《御方》の呪縛から逃れる術を得たイズマの語りは滑らかだった。
「超古代先史文明」
「《御方》たちのプロトタイプを産んだのはソイツらさ。もっとも彼ら自身だって《御方》のことは意識できなかったし──コイツらの生産ラインは先史文明の人間たちは認知できない領域に設定されていたから──《御方》が完成したあとに起きた《ブルーム・タイド》によって、彼ら自身が不可知領域になっちまったらしんだけどもサ」
すこし前のアシュレなら、なにを言われているのかチンプンカンプンだったであろう話だ。
それがいまは、まるで渇いた喉を潤す清水のように、すっと胃の腑に落ちてくる。
「つまるところ……《御方》を産み出した時代の人々は、この世界からいなくなってしまった、とそういうことなのかな?」
「いいや違うさ。彼らは逃げたんだ。ボクちんたちの意識の死角……」
それはどこ? と口にしたとき、すでにアシュレの脳裏には解答が飛来していた。
ご名答、とアシュレの答えを聞いてもいないのにイズマが同意を示した。
そうか、とアシュレは頷く。
「そうか。“庭園”へ、“理想郷”へか」
「いかにも。彼らは“むこう側”へと逃げた。なんの制約もない、文字通り理想通りの世界へ。自分たちの肉体を……《御方》たちのための補助生物に置き換えることを代償に」
「補助生物への置換を代償に? それはまさか」
「ああ、そのまさかさ。竜の皇女が言っていただろ? 白化した真っ白な……植物と動物の間のような存在と遭遇したと。狂える竜王:スマウガルドが取り憑かれた禁断の外法。自身の肉体を使って無数の生体粒子──“接続子”を継続的に産み出す、生ける《フォーカス》のことサ」
「フォーカス?! 《フォーカス》なのか?」
「正しくは生物でもあり、《フォーカス》でもある。体色が必ず白なのは奴らが《フォーカス》としての特性を帯びている証拠なんだ。白化現象は《フォーカス》の最終到達段階。機能的な可塑性が失われ、完全に役割が固定されたことを示す外見上のサインだからね。彼らは自らの肉体と《ねがい》を合致させ完全体になれると信じた。そしてその完全さをさらに推し進めるため、世界を“接続子”で満たそうとした」
自らの肉体のすべてを生産プラントと化して、ね。
「じゃあ彼らはほんとうに我が身を投げ打って、世界を変えようとしたんだな」
幾分かの感傷を含んだ声でアシュレは言った。
その青さをイズマは鼻で笑い飛ばす。
「ハッ、別に奴らが命を賭けたわけじゃない。戦ってそれを勝ち取ったわけじゃない。単に奴らの《ねがい》を“庭園”が自動的に汲み取って、最善のカタチに世界を改竄しただけさ。奴らは《ねがった》だけ」
イズマの嘲りが自分にではなく、過去この世界から逃避した人々に向けられていることを、アシュレは敏感に察知した。
「もっともその《ねがい》が、自分たちには認識できない不可知領域の帳のむこうで密かに製造される《御方》たちに注がれ、それは現実の物資やエネルギーを喰らって、自分たちの生活を脅かすほどの資源枯渇を引き起こすとは思い至りもしなかっただろうがね?」
「資源枯渇……《御方》を産み出すための素材のためかい?」
「この世界のあらゆるものは有限だ。絶対量は決められている。たとえば太陽が与えてくれるエネルギーとその照射時間を掛け合わせたものが、この星が内包しているある種のエネルギーの総量だとか、そういうのな? それを使って……自分たちの現実より、理想の追求を優先したらどうなる?」
「現実より理想を追求? ……つまり……自分たちの手は汚さず、戦わず、危険を冒さないで理想郷を手に入れたいと《ねがった》ら、ということ?」
わかってるじゃんアシュレくん、とイズマが指を振り立てた。
モノリスを思わせる操作盤に腰かけ、壁面といわず床面といわずいっぱいに広げられた《御方》の内臓を眺めながら。
「またまたご名答だ」
「でもそんなことをしたら……ますます自分たちの現実は苦しくなるだけなんじゃないのか?」
「その問いに対する答えは、すでにキミは自分で出しているよ。なぜ、どうして、そんな選択を彼らはしたのか……いや選んですらいないか……についてのね」
イズマの言わんとすることが、このときアシュレにはハッキリとわかった。
以前の自分であれば想像だにできなかったことだ。
「つまり……自分たちでは決めたくなかった。自分たちの選択と責任において世界が《そうなった》ことを認めたくなかった。だから《ねがい》にすべてを託した」
そう、とイズマが頷く。
「無意識のうちに、自動的に、自分たちが知らぬ間に……」
わからないわからないな、とアシュレが首を振る。
「自覚から逃れる、責任から逃れるってことは、現実の生活や自分自身の存在より、そんなに優先すべきことなのか?」
「戦士階級として、なにより貴族としての責務を率先して果たし続けてきたキミには、実に理解しがたい感情であり奇怪な精神構造に思えるだろうけれどね」
おもしろいもんでね、とちっとも楽しそうな様子ではなく、イズマは残された右目をすがめて遠くを見る顔をした。
「現実が苦しくなればなるほどに《ねがい》は増した。よりいっそうこの世界からの逃避を望む心は強まった。あらゆる責務から逃れ、理想郷に暮らしたいという《ねがい》は……。追いつめられた者たちが信仰にすがるように」
神の許しは、残酷な現実と向き合うためにある。
その許しをもってヒトは現実へと帰り、己が人生と向き合う《ちから》を得る。
信仰とはそのためにある。
かつてのアシュレであったらそう反論したことだろう。
しかし度重なる幾多の暗闘を経て、若き騎士はその信条を変化させていた。
「それほどまでに逃避が渇仰されていた」
「すくなくともそういう後ろ暗い望みがこそが信仰だった時代があった、ということさ」
「そしてその祈り……いいや《ねがい》と言おう……は《偽神》という怪物に受肉した」
「祈らずとも、口に出さずとも、言語化し意識化してハッキリと思い描けずとも。自分たちの心の奥底にある《ねがい》を聞き届け、世界を改変し続けてくれる万能の、実在する“かみさま”ってことネ」
そんなやりとりをアシュレは幾度もイズマと繰り返した。
学べば学ぶほど世界は欺瞞に満ち、複雑で、人間の欲望の極地とはなにかを思い知らされる日々だった。
正気を保てたのは、イズマが言ってくれたからだ。
「キミはひとりじゃない。ボクちんやスマウガルド、あとユガディールだったっけ? かつてこの世界に秘された欺瞞に立ち向かった英雄たちが、結果として孤立を極めていったのとは真逆の場所に、いまキミは立っている。あるいは最後はキミひとりが立ち向かわなければならないにしても──《魂》をこの世に降ろした者として──それでも、だ」
いつものあのぺらぺらの薄紙のような笑いではなく、いつか夢に見た偉大なる土蜘蛛の王としての顔でイズマが微笑んでいた。
「ボクちんたちは、もうすでにここにいるよ。キミの目の前に」
この意味、わかるよね?
うん、とアシュレは頷いた。




