■第二〇二夜:苦痛の冠
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「それで貴公は一番に我らを訪ねてくれた、というわけか」
汚泥の王:キュアザベインは空中庭園の地下に広がる己が領土の奥深く、玉座の間でアシュレたちを出迎えてた。
アシュレたちが《御方》を下してから、すでに数日が経過している。
《御方》を制圧下に置いたアシュレは一時的に聖域の嵐の結界を解き、真騎士の乙女たちによる補給を受けながら帰路についた。
一時的、というのは安全面からも、また嵐の結界が生み出す吹雪が反射板の役割を果たして峡谷内部に光を届けるのに一役買っていることからも、必要な措置だったからだ。
「キミとは約束したからね。苦痛の冠を取り去るって」
「それについてだが……不思議なことが起こった。貴公にはひと目でわかるだろう?」
キュアザベインはアシュレの眼前に立った。
たしかに、とアシュレは頷いた。
白化していた。
キュアザベインの頭部に、刑具を思わせて嵌め込まれていた金色の冠が、完全に。
「どういうことだか、貴公には説明がつくか?」
「おそらくなんだけど……それはその苦痛の冠の所有者が切り替わってしまったことによる変化だ」
「《フォーカス》の再個人適合化が行われた、ということか?」
さすがキュアザだ、とアシュレは舌を巻いた。
伊達に汚泥の王を名乗ってはいない。
彼はあきらかに《フォーカス》に精通している。
そうだ、と頷いて続けた。
「そして、その新しい主人というのは、」
「貴公だ、というのだな友よ」
素晴らしい洞察力だった。
いかなる種族であれ暗愚では王は務まらない。
その思いをアシュレは新たにする。
「では……これは取り外せるのか?」
「いや……現状ではそれは難しいというのが結論なんだ」
「詳しい話を聞こう」
アシュレはかいつまんで竜の聖域で起きた出来事を話した。
スマウガルドのこと、それから《御方》との戦いのこと、そして白化してしまった縛鎖のこと。
「つまり……竜の姫君が囚われたのと同じ状態に我はなっている、と貴公は言うのだな?」
「話が早くて助かる、キュアザ」
「ならば我らの新たなる主は、貴公ということか?」
スッ、とその瞬間、キュアザベインの言葉のトーンが地に落ちた。
冷え冷えとした氷の刃を思わせる声色。
だが、アシュレは即座に否定した。
慌てることなく、汚泥の王のひとつしかない眼球を、まっすぐ見つめて。
「それはない。ボクはキミたちを隷下として扱うつもりはない」
「しかし冠は外せない。貴公の思いがどうあれ、これはそういうことではないのか?」
「外し方は必ず見つけ出す。すくなくともボクは可能な限り、その方法を模索する。これはウルド……竜の皇女にも誓いを立てたことだ。もちろんいまここでキミにも誓おう」
うむん、とキュアザは唸った。
短い沈黙がふたりの間に落ちる。
「しかし、だ」
「信じられない、と言うのか友よ」
「騎士としての貴公を信じない、というのではない。しかし統治者としてはどうだ? 正直に言ってみよ、アシュレダウ」
我らのような都合よい汚れ役がいる、というのは都合が良いのではないか?
「かつてスマウガルドは我らにその役を押しつけた。いま聞いた話ではいつからかその心を《御方》に喰われていたそうだが……我らの因縁はそれより遥か昔に始まっている。竜の姫君にとっては理想の王だったかもしれんが、それはつまり冷徹無比な支配者でもあったという意味だ」
「…………」
「つまるところ下水道の清掃者である我々に苦痛の冠を授け、汚れ仕事をさせてきたのは、心変わりする前のスマウガルドであっても変わらなかったということだ。捧げ物として女たちを下賜してきたのも、な」
頻度は違いこそすれ、だ。
「そしてその機構を今度は貴公が受け継いだ。都合の良いことに苦痛の冠は《御方》に呑まれたスマウガルドのおかげで、貴公のものとなった。そしてこれは現状では取り外しの出来ないものに成り果てた」
汚泥の王は首を反らし、白化した苦痛の冠を指し示した
アシュレを見下すような仕草。
人間の原型を止めぬ顔の表情からは読み取れないが、不信をあらわにしていることは間違いない。
「好都合だと考えているのではないか? 我らが貴公からの待遇に不満を覚え叛旗を翻したとき、これを使って我らの知性を、文化を消し飛ばし、白痴がごとき存在に落としてしまえばよいと、そう考えているのではないか?」
どうだ? と腕組みをして聞くキュアザに、アシュレは失笑で応じた。
「なにがおかしい」
「それはありえないから、だ。我が友:キュアザベイン」
今度は汚泥の王が失笑する番だった。
甘いな、アシュレダウ、と。
「甘い、としか言いようがない。そう甘言する者は、いつもそう言うのだ、最初だけ、口先だけな。しかし実際に統治者になった瞬間、豹変する。統治の、政治の、王たる者の現実を知って。我々はそういう圧制を数千年の長きに渡って受け続けてきた種のその末裔だぞ? 見損なうと、ホントにそう思ったのか?」
軽々しい理想論ならほかですることだ。
唾棄するように言うキュアザベインに、しかしアシュレは再び笑って見せた。
「キュアザ、残念だけど、それだけは杞憂だ」
「なに? なにを笑う、アシュレダウ? まさか貴公は本当に我らが叛旗を翻すことなどないと、本当にそう思っているのか。これまでの不当な扱いを、我ら汚泥の民が、これからも当然と受け入れると?」
詰め寄る汚泥の王にちがうちがう、とアシュレは首を振って見せた。
「ちがうよキュアザ。逆だ。ボクはボクの統治が気に入らなければ、キミたちはすぐにも休戦協定を破って叛旗を翻す……そういう気骨を忘れていない騎士たちだとキチンと認識している」
「ほう?」
訝しむようにキュアザベインは首を捻り、目を細めた。
鴉の瞬膜を思わせるまぶたが狭まり、不信を伝える。
「では……どうする、というのだ?」
「その冠は使わない」
「それが甘いと、」
「でもボクは、そのときキミたちを決して許さないだろう。ボクの全力を持って、キミとキミたちの帝国を攻め滅ぼす。最後のひとり、たとえ嬰児であろうとも許すことなく」
冷然と言い切ったアシュレに、汚泥の王は驚いたように目を見開いた。
それから声を上げて笑った。
さも愉快げに、痛快だというふうに。
「気に入ってもらえたかい?」
「ああ、なかなかの冗談だ。いやほんとうにここ数百年で一番の笑いだぞ、アシュレダウ」
「気に入ってもらえたようでうれしいよ」
「我が帝国が本気になれば手段は選ばんぞ?」
「それはボクも同じさ」
字面だけ見れば剣呑極まりない会話だが、ふたりのやりとりには、実際にそうなれば命を賭けて戦い合う者同士だけが醸し出せる、奇妙な親密さがあった。
「つまり、本当に貴公にはこの苦痛の冠を使うつもりはないのだな?」
「ああまったく、完全にない」
「では友好の証として、美姫を月にひとりずつ差し出してもらいたい」
「もちろんそれはできない」
「さもなくば約定を守る意思なしと見なし、叛旗を翻す」
と言ったら?
まるでチェス・サーヴィスの早指しを楽しむように、矢継ぎ早にキュアザが言った。
アシュレがどんな返しをするのか楽しんでいるようでもあり、しかしその一方で冗談とは言い切れない剣呑さがその声にはあった。
そう彼はアシュレの友である前に、汚泥の騎士たちを率いる王だった。
帰属する集団、その信頼に応えるためには、たとえ友であっても刃を交えねばならぬときがあることを身を持って知っている男だった。
やるといったらやる。
その凄みが言葉の端々から滲んでいた。
もしアシュレがただの英雄であったのなら、この瞬間に戦端が開かれていても不思議はなかった。
だが……アシュレダウという男は違っていたのだ。
破格、というのは彼のためにある言葉だった。




