■第一九九夜:わたしの勇者さま
「手放したいのか、と訊いたんだ」
「ごめんウルド、なにを言っているのかわからない」
「いまわたしの全権はオマエの掌中にある。わかってはいたのだ、薄々とはだが。その……いまの我はオマエにはぜんぜん逆らえないのだ」
ううん、それだけではない。
ウルドは絞り出すように告げた。
己の現状を。
「万民の王でなければならない竜族の、それも皇女としては屈辱を感じるべき事態のハズなのだが、その……おかしいのだ。我はこんな状況なのに、縛鎖を結わえつけられ所有物にされているのに、そのことをそれほど嫌だと感じていない。いいや正直に告白する。そんなふうに感じられないのだ。生理的な嫌悪感やひどい屈辱感がない。まったくだ。もちろん顔から火が出るほどに恥ずかしいが……恥辱とはこれは違う、ちがう気がする」
痛いが……甘い。
「たぶんそれはきっとオマエの戦いを見たからだろう」
なぜか涙を浮かべながらウルドはうわごとめいて語った。
「イズマやスマウガルドを騙ったモノと──そして《御方》との」
「ウルド……なにを、なにを言っているんだい?」
「どうしてわたしの心がこんなになってしまったのかを説明している」
わたしは、と自らを表す主語を言い換えてウルドは言葉を紡いだ。
「なぜならオマエは、わたしとの、スノウとの、あるいはシオン殿下との約束を果たすため真摯に戦い続けた。見ず知らずの、あるいは敵対者かもしれぬ我のためにさえ、身を挺して戦ってくれた。口先だけの約定などではそれはない。紛うことなき行動。そしてそのすべてにオマエは勝利し、約束を果たしてくれた」
しかも、だ。
「オマエは結果としてこの空中庭園も、その主だったスマウガルドの心までも救ってくれたのだ」
それは、
「勇者──」
そうとしか言えない。
そうとしか思えない。
「すくなくともわたしにはそれ以外に感じることができないのだ」
ウルドの口から漏れたのはあまりに意外な称号だった。
竜の氏族の口から聞かされるその呼び名は、世界最上級の英雄の証だった。
「そうオマエは勇者──勇者なのだ。わたしたちの……わたしの勇者さま。その……勇者に、竜族の皇女として我が贈れるものは……報いるべきものは……その、だな……わ、わたししかない。わたししかないのだ」
いつのまにかウルドは身を起こし、アシュレをまっすぐに見つめていた。
背景では相変わらず死を賭けた、いや一方的に死を賭けられたイズマとシオンの激闘が続いていたが、このときのアシュレの耳にはもうそれらは単なる雑音としてしか届いていなかった。
「それにオマエには我はすでに三度、いや四度組み伏せられてしまった。竜の婚儀は相手の三度の屈服を持って成立する。ましてや人間であるオマエに敗れた我は……もうどんなふうに扱われても抗うことなど許されないのだ……しかもその男に我は救ってもらったのだぞ。肉体だけではない心までも。それもなんども、だ」
つまりオマエは我をなんども屈服させながら、その上、救いもしてくれていたのだ。
「こんなの……こんな屈辱と恩義があるだろうか。組み伏せられていながら救われるだなんて……こんな……こんな体験があっていいのか」
触れたら壊れてしまいそうな瞳でウルドが言い募った。
ことここに至って、アシュレはとんでもないことを自分がしでかしてしまったのだと理解した。
そう、いつのまにかアシュレは強者を絶対原理とする竜の掟に則って、ほかならぬ竜の皇女を完全に屈服させてしまっていたのだ。
いや、それだけではない。
救ってしまった。
ウルド自身が言うように、アシュレはすでにいくども彼女を救ってしまっていた。
竜族にとって他者に救われることは、そしてその救いを施されるということは、屈服を強いられるよりはるか上位に位置する……圧倒的な屈辱であり、だからこそ救いとは抗いようもなく崇高な、真の強者だけに許された究極の行いなのである。
なぜなら自らを世界の頂点と考える竜たちが「だれかによって」救われては、本来ならないからだ。
それが許されるのは自分自身だけ。
その禁をアシュレは破ってしまった。
一度ならず幾度も、その事実をウルドに行動で思い知らせてしまった。
なんどもなんども最上級の屈辱、屈服をウルドに味わわせてしまった。
「ウルド、でもそれはッ、きみを所有物にだなんて、」
できない、と言いかけてアシュレはぎゅう、と腕を掴まれた。
ひとつはほかならぬウルド本人から。
もうひとつはどういうわけか、スノウから。
ふたりの表情を見たアシュレは、それで気がついた。
ここでウルドを拒絶したら、彼女は死ぬ。
間違いなく自分のあの鋭利な刃で自刃する。
これは竜族の掟であり、乙女としての誇りの問題でもあったのだ。
決死の告白。
スノウがそれに反応したのは「自分自身がすでにアシュレの所有物だから」だ。
ウルドの想いを否定することがどんな悲劇に繋がるか、そして同じように他者の理=世間の倫理観や道徳観で自らの存在を否定されてしまったら……生きていけなくなるのはスノウも同じだったからだ。
奇しくもこのときすでにスノウとウルドは運命共同体だったのだ。
ふたりの態度から完全な理解に及んだアシュレは、ふーっ、と深く息を吐き、もう一度吸い込んだ。
それから言った。
「わかった。ウルド……きみは……たったいまからボクのものだ」
その言葉を聞いた途端、ウルドの黒い、金色の虹彩を持つ漆黒の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ち、それとは反対に花が綻ぶような笑顔がその美貌に宿った。
それを見てアシュレは自分が選択肢を間違えずに選べたことを悟った。
ただ、と続けた。
「ただ、ボクの話も聞いて欲しい」
「我は、いいやわたしはすでにあなたのものだ……。そしてあなたとスノウやシオン殿下の関係は察している。でもそれでも構わないのだ。わたしはただ、あなたのものであれれば……最初で最後の我がままを許して欲しい。奴隷としてでも、道具としでも……たとえ玩具でもかまわない」
そばにいたい。
胸に手を当て、勇気を振り絞るようにウルドが告げた。
「使ってくれ。欲望のままに組み伏せてもらって、か、かまわない。それでも良いと、いまのわたしは思っている。思ってしまっている……あなたになら」
このような気持ち……初めてなのだ。
「おかしい、か?」
恋する乙女の顔になり懇願してくるウルドを、それでもアシュレは押し止めた。
「ボクにはキミを奴隷や道具、ましてや玩具として扱うことなんかできはしない」
「だが、アシュレ、事実わたしはもう、」
「聞いてくれ、ウルド」
言いたいこと、伝えたいことがあるだろう竜の皇女を遮って、アシュレは伝えた。
「ウルド……きみと初めて出逢ったときのこと、憶えているかい?」
「初めて……それはここ……竜の聖域の温泉でのこと、か?」
「いいや、それよりすこし前。イズマの仕掛けた大蜘蛛に組み付かれながらも、空を征くきみを見たときのことだ……」
「ああ、スマウガルドの手から逃れたあと、禊を襲われたときのことだな」
うん、とアシュレは頷いた。
「空を征くきみの姿にボクは魅入られた」
正直で素朴なアシュレの称賛に、ウルドは目を見開いた。
あのときウルドはアシュレを認識していなかった。
だからアシュレの言葉遣いは間違っている。
本当は出会ったのではなく、アシュレは一方的にウルドの姿を知ったのだ。
だがだからこそ、その告白には《ちから》があった。
なぜならそれは、ボクは出会う前からあなたに恋をしていた、とそう告白されたのに近いからだ。
しかも竜族にとっては、空を翔る姿こそ己の美の最たるものであり……つまりアシュレの告白は竜の皇女の自尊心に大きく働き掛けるものだったのだ。
「なんて自由で美しい生き物なんだって。雄大で堂々として。物語の挿し絵で見る姿なんか比べものにならない。なんと強大で自由な生き物なんだ、竜というのはって……そう思ったんだ」
憧れた、と言っていい。
「そんなきみを道具みたいに扱えると思うのかい、ボクが?」
真摯に問われ、ウルドの狼狽は頂点に達した。
「だがっ、だがっ、貴様いきなりナニを言い出す!」
「きみの心は確かに受け取った。そして、それはもう返さない。絶対に。ただ……」
アシュレはウルドの手を取って告げた。
それは告白と言うより、もはや誓いだったが。
「ボクはきみを自由にする。どうにかしてこの縛鎖から解き放ち、大空に還す」
そのときまだきみが、ボクのことを慕ってくれていたなら、それはきみの自由にしてくれ。
アシュレの言葉に、ウルドは不覚にも泣かされてしまっている。
思い出したのだ。
こちらに、《御方》の内部、記憶の牢獄から現世に帰還する際、聞いた呼び声を。
そのとき見た、深い深い青空の色を。
呼んでくれたのは、この男の《ほんとうのねがい》だったのだと、理解に及んでしまって。
「それでいいかな?」
ウルドは口元を両手で押さえ、嗚咽を噛み殺しながらなんども頷く。
その様子にアシュレはようやく心から笑うことができた。
だがウルドはなんども頭を振って、そこは安堵するところじゃないと否定した。
「バカ。アシュレダウ……オマエは知らない。大馬鹿者。オマエはいまヒドイことを言ったのだぞ」
「ボクは知らない? なにを? って大馬鹿者ってヒドイな。それ以上にヒドイことをボクが言ったの? きみに?」
それってどういう?
泣き腫して赤い目のウルドに、アシュレは聞き返した。
途端に返事のかわりに、ごすっ、と水中で小突かれた。
ウルドが武芸の達人であることをアシュレは思い出した。
「痛っ?! なになになになに、今度はなに?!」
「竜族と付き合う上でのアドバイスだ、バカめ、アシュレダウ。竜族の屈服は肉体が基本。恋愛も戦争も相手の肉体は組み伏せるが、心まで縛るわけではない。恋愛感情はあるにはあるが、それは心の不自由まで受け入れるという意味ではない。だからときとして叛逆も下克上も起こり得る。我が愛を捧げるのに不適格、と判断されたらいつでもな!」
徐々に調子を取り戻してきたウルドが、ずいと身を寄せながら恐いことを言った。
「それは……ボクが軟弱な態度を見せたら後ろから……いやきみたち竜族のことだから、正面から堂々とやられるってこと?」
「そうだ。ふつうは、普通はな」
ふつうは?
本当にわからなくてアシュレは小首を傾げた。
「わからないのか? どうしてわたしがいま怒っているのか」
「あ、怒ってるんだ」
「そうとも怒っているのだぞ」
「それは……なぜなんでしょー」
改められるものなら改めよう、という気持ちでアシュレは訊いた。
このニブチンめがっ、とウルドは眉を吊り上げ、アシュレのアゴに牙をかけながら囁いた。
「オマエはいま、我の心だけを受け取った。いいか、竜族が他者には決して渡さない唯一のもの……それが心なのだ。それをオマエはいま我から奪い、決して返さぬと断言した……」
そんな愛され方をしたら……もうどうなってしまうか、我にだってわからないのだからな。
その囁きの直後、アシュレは噛まれた。
すこし深く、蕩けるように甘く。
いつもソウルスピナをお読みくださり、ありがとうございます!
本日一回目の更新でも書きましたが、ソウルスピナは作者の手元に原稿がある場合の平日(土日祝除く)に更新します。
つまり明日明後日は更新がありません。
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