■第一九四夜:《偽神》を滅ぼす者
おおおおん、と世界が軋んだ。
地震ではない。
それは世界観全体を揺るがす時空震。
《御方》がその内に溜め込んでいた《ねがい》を複数の竜玉を介し、魔導書:ビブロ・ヴァレリの導きのもとに、アシュレ専用の疑似宇宙を構築しようとして
──緊急停止した結果だった。
ギギグガガガ、と世界観全体が悲鳴を上げるのをアシュレは聞いた。
自分と仲間たち以外のあらゆるものが凍りつき、霜に覆われて停止している。
物理的に止まったというだけではない。
時間の流れその物が断ち切られたように、宙を舞う微細な塵埃さえ空間に縫い止められている。
空間そのものに断裂が走り、破断が起きている。
直前に、なにか《夢》を視た気がした。
一瞬だが、極めて理想的な、優しくも甘やかで、しかし激しく心躍らせるそんな《夢》を。
しかしそれが《御方》の仕掛けた究極的な精神攻撃であったことを、アシュレはすでに感得している。
見聞きして知った知識で知った、というのではそれはない。
すべては体験され、己が身を通りすぎた経験として知っていた。
そう──アシュレは一瞬とは言え、《御方》の生み出した《夢》に囚われたのだ。
だが、だとしたらなぜこちらに、どうやって自らの信じる現実の側にアシュレは還ってこれたのか。
見渡せばイズマが、ひび割れた祭壇の床に伏しているのが目に入った。
背後で剣を杖に立ち上がるシオンの気配を感じながら、アシュレは思わず駆けよっていた。
あの状況下からの逆転劇があったとしたなら、それはイズマの秘策によってでしか有り得ないという確信に近い思いがあったのだ。
「イズマッ、イズマッ!」
アシュレは意識を失って倒れた土蜘蛛王を助け起こした。
短くイズマは唸り、うっすらと目を開いた。
明いている方の目が血で赤く染まり、涙の代わりに鮮血が流れ落ちている。
出血は止まらず、イズマの眼窩には血が溜まり続けている。
相当な無理をしていた証拠だった。
やはり、という思いが胸を突いたのはこのときだ。
がららん、と音を立ててイズマの胸から、押し返された傀儡針が床に落ちた。
「起きてくれイズマ!」
「おー、アシュレくんじゃん。あー、どーやらうまくいったみたいだねー」
「やっぱり。イズマがやってくれたんだね。助けてくれたんだ」
「まーねー。一か八かの策だったけど、うまくいったみたいでうーれしーよー。仕込んでおくもんだねー」
間の抜けた調子で答えたイズマが、激しく咳き込んだ。
そこにも血が混じる。
「なにを……なにをしたんだ。なにをしたらこんな……イズマ……自分を犠牲に」
「なーに相手の技を逆手に取ったのサ。目には目を、歯には歯を、埴輪埴輪……。えっとなんだっけ、キミのための転生世界? えらっそうな名前つけやがって。ボクちんの完了世界のマルパクじゃねえーか」
イズマがなにを言っているのかわからず、アシュレは言葉を失った。
ああそうかそうか、とイズマは笑った。
アシュレくんにはなにが起こったのかぜんぜん分かんないものね。
笑うイズマの唇から、また血が漏れた。
「ああ、要するにこの出来損ないの《御方》は、キミの《魂》を我がものとするため、超小型超濃密の疑似世界を創ってそのなかでキミを完結させようとしたのさ。キミの認知や関わった人々のそれを操作して……噛み砕いて言うと現実そっくりの英雄譚の《夢》なかにキミを放り込んで、操作して《魂》を都合よく使えるようにしようとしたんだね」
「現実そっくりの英雄譚? 《夢》なか? 《魂》を都合よく? どうやって?」
「察しが悪いなあもう。疲れてんだから頼むぜ……」
たとえばだ、とイズマは咳き込みながら呆れたように息をついた。
「たとえばキミはスノウちゃんや、レーヴちゃんやアスカちゃん……だれでもいいや、関係した女のコがピンチになったら躊躇いなく《魂》を使っちゃうでしょ? 今回みたいにスノウちゃんが拉致られたらどうよ? なんかエロエロなオーバーロードとかに、すごくエッチな拷問とかにかけられてたらどう? 使うでしょ《魂》? 助けるために」
唐突な質問に戸惑いながらも、アシュレは腕のなかのイズマに答えた。
「えっとそれは……うん、間違いなく」
「じゃあそれが《夢》だったら?」
「え?」
「だからそのエッチな拷問を受けてキミの助けを待っているスノウちゃんとか、そんなうらやましいもとい破廉恥な行為に及ぶ悪のオーバーロードが全部《夢》だったら? イベントも背景も丸ごと全部。どこまでいっても本物と見分けられない幻だとしたら? てかさっきまでキミが叫んでいたじゃないか。《夢》を見せて囚われにしようとしてた、って。そうだろ?」
「!」
ここに来てアシュレはイズマの言わんとすることを、ようやく完全に理解した。
なるほど、つい先ほどまで《御方》からアシュレが仕掛けられていた攻撃は、アシュレを精巧な《夢》に捕らえ、そこで胸のすくような英雄譚を疑似体験させることで、《御方》が必要なとき、あたかもアシュレ自身が自らの《意志》で発動したかのように思わせて《魂》を使おうという企みだったのだ。
「ボクの精神だけをオマエは捕らえて切り離し、自分たちに都合のよい《夢》を見せて、《魂》だけを使えるようにしようとした」
たしかにそれはアシュレ自身が《御方》にぶつけた言葉だが、あの時点でそれはまだ具体的な方法までを喝破したわけではなかった。
まさかそれをこんな方法で実現しようとしていたとは。
聞けば聞くほど驚きしかない。
絶句するアシュレに、イズマは瞳を閉じてからニヤリと口角を歪めて見せた。
「だーがそんな計画はまるッとお見通しのイズマさんだったわけだ」
「そうだ……それだ! わかっていたならなぜもっと早く、いやそもそもどうやって止めたんだ、もう詰みかけていたあの局面をどうやってひっくり返したんだ?!」
「だーかーらー、事前の仕込みがって言ったでショー」
「だからいつ、どこで、なにに仕込んだんだって訊いてるんだよ!」
「そーれーはー。てかいやあ見たまえよ、このポジション。絶景。丸見えだよアシュレくん。震えるねえ」
イズマの震える指が指さすものをアシュレは見上げた。
そこにはスノウの全部が、まだ機能を停止しただけの《星狩りの手》に吊るされて、ある。
なにひとつ隠せず、汗みずくの裸身が。
たしかにイズマの言うようにそれは極めて官能的で……誤解を恐れずに言うなら息を呑むほどに美しかった。
だが、
「えっ? 仕込んだって……まさか、スノウに?」
「こうなるのがわかってたんで、なるべくツラくならないように、スノウちゃんには全身気持ちよくなるおクスリを使ったんだよね。スマウガルドに練り着けられていた悪霊としての疑似人格もそういうのが好きで好きで堪らない感じだったから、ボクちんの提案に大賛成だったワケさ。でもまー、ボクちんが自発的に? そういう処置をしていいなら? そりゃもうチャンスだろ。当然のように仕込んだサ」
ボクちん自身がどれだけ《御方》どもを研究して、そのぶっ飛ばし方を研究してきたか、コイツはぜんぜん知らなかったからネ。
「ある時期から“庭園”との接続を切られていたことが幸いしたよ。スタンドアローン。たしかにもういくつも竜玉を飲み込んでパワーだけは一人前だけど、オツムがヨワかった。たしかに《魂》については熱心に研究してたみたいだけども、スマウガルドの意識を喰って。でもそれ以外はからっきし。そこにそれを補う学習材料としてのスノウちゃん……魔導書が来た」
あとはもうわかるだろ?
得意げに微笑んで笑う。
「そりゃ貪り読むわな。知識に飢え、交歓に飢えてたんだ。瞬く間に吸収したさ。よく考えもせず飲み込んださ。ボクちんが……こいつらの制御を司る命令言語をいくつも習得していることを知らないで。Fractal Talk Adjustment Language ── F.T.A.L. 古エフタルといまでは呼ばれる言語のそのオリジナルを……」
「まさか……書き込んだのか。スノウの身体に」
「いっやー、めちゃくちゃドキドキしたワ。さすがにちょっと興奮した。こんな無垢なコにこんな落書きしていいのかなって、わあ!」
アシュレは思わずイズマを取り落としてしまった。
ごつんと鈍い音がしたが構うものか。
スノウの下に走りよる。
「スノウ、スノウ! 大丈夫か、しっかりするんだ!」
機能を停止したとはいえ《星狩りの手》は、貪婪にスノウを捕らえて放さなかった。
貪るような勢いで頁をめくり返すために潜り込んだ無数の指先が、スノウの柔らかい心の深部に突き立ったまま意識のない彼女を責め続けている。
その証拠にスノウの肉体は意識のないままに痙攣し、口からは唾液とともにうめきともあえぎともとれぬ泣き声が断続的に漏れ落ち続けていた。
「退くがいい、アシュレ。わたしがやろう」
このときになって傍らに来てくれたシオンが、頭を振りながら剣を掲げて見せた。
時空震の際にかぶっていた宝冠:アステラスが吹き飛ばされ、その影響でしばらく自分の立ち位置を見失っていたらしい。
《御方》による書き換えが実行された直後にそれが取り消しされるという世界観の急変が、ごく短時間の間に起きたのだ、無理もなかった。
「この忌々しい腕をなぎ払う。我が妹を散々辱めおって……許せん。アシュレ、間違いなく抱きとめろ。よいなッ?!」
言うが早いか、シオンが聖剣:ローズ・アブソリュートに《スピンドル》を通した。
グググン、と瞬間的に発振した刃からあのバラの薫りが立ち上る。
裂帛の気合いとともに一閃した刃が、磔刑を思わせて吊り下げられていたスノウの肉体を《星狩りの手》から解放した。
アシュレは責任を持ってスノウを抱きとめる。
その肉体からは濃密に桃とミルクが香った。
「スノウ、スノウ。もうだいじょうぶだ」
「その意味でなら……ウルドちゃんも助けるの急いだほうがいいよ……彼女はまだむこうに囚われたまんまだ」
背後から声がして振り向くと横臥したままのイズマが、アゴでウルドを指していた。
その指示する方向を見て、アシュレは息を呑んだ。
竜変化したままの姿で、ウルドは完全に動きを止めていた。
まるで先ほどまでの《星狩りの手》のように、凍りつき霜さえまとって。
「これは……どういうことだ?!」
「最終決戦のときウルドちゃんの精神は《御方》の内部に囚われてしまった。だからヤツに肉体を操作され竜に変じて攻撃を仕掛けてきた。その縛鎖を通じて本来自分のものではない竜玉との間にリンクを作られ、《ちから》を与えられて竜に変じた」
「でもじゃあどうしてこんなことに」
ウルドの様子はあきらかにイズマやスノウとは違った。
傀儡針で操られていたイズマ。
《星狩りの手》に囚われていたスノウ。
いずれも《御方》の《ちから》でいいように使われていたことは変わりがないのに。
「そりゃその杭と縛鎖が《御方》との直結者の証だからさ。だから……属性的にウルドちゃんは《御方》と同一存在……そこまでいかなくても手足とおんなじだと判断されたってことでしょ」
「そんなそれじゃ」
「うん、このままだとマズイねえ。そう遠からず、世界の方がつじつまを合わせに来る。そうなったら辿る運命は《御方》とおんなじだ」
「《御方》と同じ運命?! どうすれば、どうすればいい?!」
慌てるアシュレにイズマはまたまた呆れた様子で微笑んで見せた。
「どうするって決まってんだろ。さっきまで自分でやってたじゃん。キミだって直結者なんだろ、いま? しかもキミには《魂》があんだろ? じゃあ、やるこたああ、ひとつだ」
ぶっ飛ばせ!
イズマの口から叱咤にも似て強い言葉が発せられた。
その瞬間、アシュレは完全に理解に及んでいる。
己がどうしたくて、なにをしなければならないかを。
だからそのようにした。
ふたたび時空震に世界は揺れ、《御方》のなかに撓められていた《救済》の妄念は消し飛び、かわりに竜の皇女が生還した。
アシュレはついに《偽神》の一柱を──たとえそれが不完全なものであったとしても──完全に滅ぼしたのだ。
ここまで燦然のソウルスピナをお読みくださりありがとうございます!
一応これにて第七話:第七話:蒼穹の果て、竜の棲む島は完結ということになります。
このエピソード群だけで総計70万字に渡る時間旅行お疲れさまでした!
そんなに書いてたのねボクw
このあと3万字〜5万字になるであろうエピローグ+第八話への繋ぎを書いて行くことになりますが、ちょっとお時間をください。
エピローグの掲載は7月頭を念頭に制作していくことになると思いマッス。
どうぞよろしく!




