■第一九〇夜:世界の果てより呼ぶ声がして
「スマウグ、あなたは与り知らぬことだとそう言うのか、あの屍の王のことを。醜悪という概念をカタチにしたがごとき存在のことを。いっさい関知せぬと、そう言うのか?」
ではあれは、あの屍の王とはいったいなんだったのだ。
意図せず詰め寄る口調になったウルドに、竜の王は小さく唸って見せた。
「いやあるいは……我が此処で繰り返し見た悪夢は……あれは実は現実のことであったのかもしれぬ。きみの言う屍の王としての体験を、わたしはここで悪夢として見て知っているのかもしれぬ。たしかにそのような悪夢にわたしは苛まれ続けてきた。あれこそが私自身への罰だと感じていたが……」
「悪夢? 夢として見ていた?」
「うむ」
思案するように竜の王は目を細めた。
「欲望のままにウルドきみや、これまでよく仕えてくれた女官や子供たちを玩ぶ夢だった。夢のなかのわたしに、こちら側のわたしはいつもやめろと叫ぶのだが……止められずにいた。ヤツはわたしに言うのだ。これは《みんなのねがい》だと。《みんな》のためにやっているのだと。ひいてはきみ──つまりウルドきみのためでもあると。望まれたことを為せと。そしてその果てにきみに殺される。そういう夢を何度も見た」
しかし、
「しかし、それがまさか現実に起きたできごとであり、わたしが《夢》だと思っていたものはそれら記録の繰り返しであったとは。おかしいとは思っていたのだ。なぜなら《夢》なのは、本当はこちら側なのだ。わたし自身がそうであるように……」
「《夢》……夢としてあなたは己が所業を幾度も繰り返し体験させられてきた。では、あなた自身は失われているにも関わらず、あなたの姿をしたものがあなたを偽り、このイスラ・ヒューペリアを、この空中庭園を徘徊していたとそう言うか?」
スマウガルドは黙したが、その沈黙こそが答えだった。
「では、では……あなたはいったいいつから、あなたではなくなっていたのだ?」
得体の知れぬ嫌悪感に身を震わせながらウルドは問い質した。
身を震わせる悪寒は、スマウガルドに対するものではない。
彼にそのような体験を強いてきた仕組みに──それを可能にするからくりにウルドは生理的な嫌悪を抱いたのだ。
此処を永遠に辿り着かない答えのために繰り返される実験場=実在する地獄、とスマウガルドが呼んだ理由がすこし飲み込めた気がした。
スマウガルドがだんだんと正気を欠いていった過程にも合点がいった。
彼はいつごろからか、すでに彼ではなくなっていったいたのだ。
あるいは最初はわずかな時間、だんだんとそれが長くなって──彼ではないものが彼のように振る舞うようになっていった。
すり替えられて。
その後は、世界のどこかに溜め込まれていた悪夢が、彼の肉体をまるで衣服のように着こなして現実をうろついていたということだ。
ウルドが「心を喰われた」と表現したその通りに。
ウルドは震える。
我知らず震えている。
そんな竜の皇女に「わたしではないという意味でなら」とスマウガルドは事実を語った。
「わたしではないという意味でなら、ずっと前からだったよウルド。ずっと以前、わたしが生きていたときから、わたしはわたしでは無くなりつつあった。竜の精髄を失い、心を喰われ、狂って」
スマウガルドの声はほとんど独白だった。
ああ、とウルドはうめいた。
その瞳は見開かれていたが、それは新たな事実に驚いてことではなく、どちらかというと「やはり」という確信のほうに傾いていた。
聖域の深奥へと下る道程で、アシュレダウと交した会話。
そこで得られた推論とが正しかったのだという想いが、胸中で狂おしく渦を巻く。
やはりやはりそうであったか……。
声が震えて、こぼれ落ちた。
「ではまさかスマウガルド、あなたはもうずいぶんと以前から、その身に竜玉を宿してはいなかったのか? わたしが砕いたとばかり思い込んでいたものは形骸ばかりのものであったのか?」
決定的な問いをウルドは口にした。
だが、それに対する解答はもっと衝撃的だった。
いかにも、とスマウガルドは応じた。
「いかにもそうだ、ウルド。わたしは竜玉を持たなかった。ずいぶんと以前に……自ら捧げたのだ」
絶句する、というのはこういうことだとウルドは思った。
スマウガルドが《御方》に心を喰われたのだということは、ウルドがその肌で感じてきたことだ。
予想に過ぎなかったが確信があった。
アシュレダウともそう話した。
しかし、しかし、これだけは予想できなかった。
彼が、自ら……まさかそんな……竜の精髄を自ら進んで……だと?
「捧げた?! 奪われたの間違いではないのか?! いったいいつから?! そして……なぜなんだ……スマウガルド」
そしてその問いかけに対するスマウガルドからの解答はさらに想像の外にあった。
竜の王は寂しげに笑っていた。
「──部分的にしても《御方》を起動させ、操らねばならないと気がついたのは、きみからの挑戦を……求愛を受けたときだ愛する姪よ。きみが我を、あるいは我がきみを、それぞれのものにしたとて、結果は同じだということに気がついたのだ。いずれか、いつの日にか《御方》たちは我らの竜玉を供物に求める。我々の《魂》に等しきそれを、王としての日々が培い育む成果物を奪いに来る。圧倒的な強制力を持って、むこう側から」
「《御方》たちが奪いに来る。供物としての竜玉を求めに……むこう側から?」
「そしてそれには抗えないように、我らが竜の本能は仕込まれている。仕組まれているのだ。その仕組みを変えねばらなんと気がついた」
そして、そのからくりにわたしは……生前のわたしはずっと以前から気付いていた。
「だったら、だったらなぜ自らのそれを捧げた! 捧げてしまったのだ、わたしに、わたしにはひとことの相談もなしに!」
眉を怒らせ拳を固めて訴えかける姪を、スマウガルドは限りなく優しい眼差しで包み込んでから答えた。
「きっときみが許すまいと思ったのだ」
「ああ許さんとも、許せるものか!」
性急な怒りを示すウルドを見つめる竜の王の瞳はますます優しい。
「勝ち目のない戦いを始めてしまうとも、考えた」
「勝ち目のない戦いというのは……まさか《御方》とのか?」
「あるいは《御方》の背後にある《そうするちから》……人々の《ねがい》と、だ」
竜に《御方》たちへの供物としての運命を練り着けた根源。
人々の《ねがい》。
それとの戦いを決意するとはつまり、
「つまり我々以外のすべてを敵として生きるということだからだ。世界を敵として……」
そんな生き方を我は愛する姪にさせたくなかった。
寂寞として微笑み、スマウガルドは言った。
「結果としてそれがより惨い苦しみをきみに与えることになってしまうとは、我が浅慮を呪う」
「だが、だが……それではなんの説明にもなっていない。どうしてあなたが竜玉を捧げねばならなかったのか。どうして、あなたが《御方》に心を食われて、狂ってしまわなければならなかったのか。その説明になっていない!」
泣きながら食ってかかる姪に、スマウガルドは恥じるように笑った。
「笑ってくれウルド。わたしは思い上がっていたのだ。きみを、きみたちを、我らが竜族をこのいびつな世界観から救えると思い上がっていたのだ」
「な、に? わたしたちを救える? 世界観から?」
「竜族を《御方》の部品を捧げる種としての歪んだ生から解放できると、不遜にもそう思い込んでいた」
「《御方》の部品としての生からの解放?! そんな、そんなことどうやって────」
「できる、できるのだウルド。《御方》たちはそうやってかつて幾度もこの世界を書き換えてきたのだから。“接続子”を用いて人々の認知を偏向し、精神を変容させ、思想に介入し、遺伝子配列を玩び、生命と生命を掛け合わせて……」
「そんなそれじゃあ……まるでわたしたち竜がエスプーマたちを生み出すように世界を変えてきたというのか。《御方》どもを使って?! だれが、なんのために!」
そのとき、こつん、とどこかで小さな音がした。
そして、
『わかったんだウルド。我らは、我々竜族はこの世界の王ではない。なかった。それは偽りの役割であった。真の役目は──生け贄だ。この世界のため、この世界に暮らす《意志の放棄》を《ねがった》人々のための。彼らの神たる《御方》に心臓を与えるための。そして我らが竜の権能の源と信じ崇め奉ってきた聖域の、その深奥に鎮座する生命の樹────《星狩りの手》こそが────』
まるで過去のやりとりが再現されたかのような声色が、スマウガルドの唇から漏れた。
正気を欠いた抑揚。
空ろな言葉の連なりの背後に、抑え切れぬ愉悦が隠し切れず滲んでいた。
言葉を発した当の本人であるスマウガルドが驚愕に目を見開いていた。
「いま……のは……」
かつて聞いたセリフだった。
ああ、あのときもそうであった。
うるどはおもいだしている。
なんのためにかと、といつめたのはわたしだった。
なんのもくてきがあって、ひとをぱずるのようにくみかえて、もてあそんだのか、と。
きゅうそくに、しょうきがとおのいて。
『わたしは望んだのだ。竜玉の存在に頼らずとも、自らが自らを救える種の発生を。それによって我々を運命のくびきから解放しようとした。すなわち個々人が強い《意志》を持ち、しかし竜玉は持たず、それでいながらにして王たらんとするものへの変更を試みた』
また別の音声が、スマウガルドを楽器として漏れた。
今度は切実な声だった。
ウルドが知るどれよりも切実な「彼」の声だった。
「スマウガルド!」
気がつけばウルドはその名を呼んでいる。
己が正気にしがみつくようにして。
『我らが竜はその身に竜玉を宿すがゆえに、どの種よりも強大な《ちから》を振るえる。しかし、であるがゆえに決して辿り着けない。《御方》の動力源を育む代償としての権勢であるがゆえに、それを頼りとする限り、我々は辿り着けぬのだ。真の、揺るぎなき存在としての──《魂》に』
あるはず、あるはずなのだ、どこかに我らにも我らの真の《魂》が、そこへと至る道が。
血の出るような声でスマウガルドが言った。
だが続く言葉が果たしてだれのものなのか、ウルドにはもうわからないのだ。
『ああ《魂》。《魂》こそが可能にする。真の救いを……本当の《救済》を……ああ《魂》……それだけを我は求める』
がぶりざぶり、とこえにむねのわるくなるような、ざつおんがまじった。
うるどはおもわずふりあおいでいる。
みりみりとおとをたてて、すまうがるどのにくたいが、さけていく。
うちがわから、そのろっこつをさいて、なにかがあらわれようとしている。
ひっ、とうるどはのどがなるのを、とめられない。
なぜってそこからあらわれた、むすうのゆびさきのおくには、めがあったからだ。
それがなになのか、うるどにはもうわかっていたからだ。
おかた。
さんもじのなまえがくちをついた。
そして、うるどはきがつくのだ。
おのれのうちがわからも、おなじものがのぞこうとしていることに。
こちらを。
うるどというそんざいを《門》にして。
あああ、とひめいがもれるのを、うるどはとめられない。




