■第一八七夜:刃に還れ
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお────ッ。
知らず、アシュレの喉から雄叫びが迸った。
眼前にふたりの美姫の危地があった。
ひとりはスノウ。
魔導書の娘はその全身を《御方》の本質とも言うべき《星狩りの手》に組み敷かれ、吊り下げられ、嬲られてめくり返されていた。
個人適合化の手続きを経ずとも、元来が《御方》の備品であった《フォーカス》=魔導書と融合してしまったスノウには抗う術がない。
主器たる《御方》の《ちから》に備品であるスノウの肉体は抗えないのだ。
ただそれを拒む心だけが、めちゃくちゃに踏みにじられる己の肉体の内側で、脅え屈辱に鳴かされ恥辱に責められて泣かされている。
ひとりはウルド。
誇り高き竜の皇女は己の代わりに攫われたスノウを奪還すべく、人質交換のための戦利品となることを受け入れてくれた。
あまつさえ全身を花嫁衣装に包み、その上から聖剣:ローズ・アブソリュートが変じた青きバラの荊の縄縛によって、誇り高き竜の皇女は一時の不自由を承知してくれた。
アシュレを信じ身を任せてくれたその肢体がいま、恐るべき速度で《御方》の方へと、その内部から姿を現した《星狩りの手》に向かって引き摺られている。
もしその手に捕らえられてしまったなら──彼女を待つ運命は筆舌に尽くしがたき凄惨なものとなろう。
決して決して許されてはならないことだとアシュレは思う。
絶対にふたりをスマウガルドに、いいや《御方》に渡してはならない。
だから、ボクはいま使う。
たしかに、もう決して使ってくれるなと泣かれた。
アスカにもアテルイにもレーヴにも。
シオンや……いま助けを求めるスノウにさえ。
わたしたちのために自分を危うくしないでくれ、と。
だが……ダメだ。
アシュレは思う。
偽りの神に、そしてその神に無自覚にも《ねがい》を投じた人々の思い通りにキミたちがされてしまうことを、ボクは許せない。
そしてたとえ偽りであろうとも相手が神である限り、人間に過ぎないアシュレがこれに抗う術はひとつしかないのだ。
だからボクは使う。
ボクに助けを求めてくれたキミたちのために。
そんなキミたちを助けたいと、心の底から思うボク自身の《魂》が、そうある限り。
がちん、とまた頭のなかでなにかが噛み合う音がした。
びゅう、と聖剣:ローズ・アブソリュートが変じた荊を光が走る。
その有り様にスマウガルドが刮目した。
「コレハ、マサカマサカ──《魂》ダト、ソウイウノカッ?!」
「うわっちゃあ言ったじゃナイっすか陛下ァ。アシュレくんはコレがあるからヤバイって! 追いつめすぎる前に殺らないと、って!」
敵側に一瞬の動揺が走った。
連携に一拍の乱れが生じる。
もちろんそれを見逃すアシュレではない。
あらん限りの《ちから》を注ぎ、ウルドをこちらに引き戻す。
「アシュレ!」
「サセヌワッ!」
我に返ったスマウガルドが《ちから》を強めた。
屍の王に《ちから》を貸す《御方》の動力は、旧世界の文明が《魂》を模して作ろうとした《フォーカス》=竜玉である。
それはこの空中庭園を封土とした竜の一族が、長い年月を経て積み上げてきた叡知と文字通り血脈の結晶だ。
そこにはかつてスマウガルドが捧げたものも含まれている。
数千年の時が積み上げた供犠の結晶──複数の竜玉が一斉に起動し、アシュレの《魂のちから》に対抗する。
ゴウッ、と聖域の温度が一気に上昇した。
ごぼごぼごぼッ、と《御方》がそのほぼ全身を浸す澄んだ冷却水が沸き立つ。
あるいは龍穴の上部に湧く温泉はこの冷却水が転じたものであったか。
しかしそんな事実よりも、進行する現実の変転は目まぐるしく、攻防は一瞬だった。
「イズマッ!」
呼んだのは屍の王であった。
ぐぐん、とイズマの胸のあたりで《そうするちから》が不穏な唸りを上げた。
それは傀儡針を介した強制。
次の瞬間には土蜘蛛王の腕が振り抜かれ、幾本もの手裏剣(土蜘蛛たちの文化に特徴的な投げナイフの一種)がまるで驟雨のごとくアシュレを狙った。
アシュレの振るう《魂のちから》は、実は複数の竜玉のそれをも上回っている。
先の温泉での一幕、ウルドの心身を我がものにしようとした攻防で、すでにアシュレはもちろんスマウガルドも、そのことに気がついていた。
だがそのとき《魂》を用いる能力者の切り崩し方にも、屍の王は辿り着いていたのだ。
正面切っての綱引きでは絶大な《魂のちから》に勝ることは、たとえ複数の竜玉を連ねても、極めて難しい。
であれば、逆説的にその持ち主の肉体そのものを直接狙えば良いのではないか?
そうやって物理的制約に囚われる部分を攻め、維持に多大なる代償と高度な制御を求められる《魂》を自由に使えない場面を生み出せば良いのではないか?
単純であまりに直裁ではあったが、だからこそこの策はシンプルに効いた。
アシュレとの正面対決をスマウガルドが担当し、注意が逸れたところを傀儡針を介してイズマに刺させる。
事実、この連携にアシュレは足下をすくわれかけた。
イズマの練達の投擲術によって凄まじい速度で次々と飛来する手裏剣は、そのどれもがまともに受ければその部位ごと消し飛びかねない必殺の一撃だ。
ましてやいまアシュレは甲冑の類いすら身につけていない。
唯一の防具である竜皮の籠手:ガラング・ダーラはウルドと自身を繋ぐ聖剣:ローズ・アブソリュートの荊を掴んでいるために、防御には使えない。
絶体絶命の危機。
アシュレはこれを、自ら転倒することで躱した。
足下から滑り込むように《御方》の牽引力に身を任せる。
仰向けに倒れ込むことでイズマの狙いを外した。
びゅうう、とその肉体が祭壇の床を滑る。
牽引されるウルドに迫る。
我が腕に抱き寄せ、より直接的に《魂のちから》を与えようとする。
だが──現実はそんなに甘くはない。
イズマの投じた手裏剣のいくつかが不意に床で跳ね、跳弾となって向かってくる。
しかもそれは正確にアシュレの頭部を狙っている。
これを狙ってイズマは手裏剣に余計な異能を乗せなかったのだ。
光刃系や呪術系の異能を乗せてしまうと、床面を貫通したりすり抜けてしまい、理想的な跳弾が起きなくなってしまうからだ。
「ぐうッ」
アシュレはとっさに左腕を犠牲にした。
ドスドスドスッ、という胸の悪くなるような音とともに凄まじい衝撃が腕から肩にかけてを襲い、遅れて熱さが生じた。
二本が頭部を庇った腕を貫いていた。
そして、もう一本が脇腹を。
ぐむ、と泥土に刃が突き立つような音がして、ごぶり、と鮮血がアシュレの口からあふれる。
これは間違いなく臓腑に達する傷だ。
「クカカカカカ、ヨクヤッタ! イズマ!」
屍の王からの称賛を浴びても土蜘蛛の男は動かなかった。
投擲を終えた姿勢のまま、かすかにうつむいて、その表情は見えずにいる。
だがイズマの投じた手裏剣の威力は絶大だった。
それが及ぼしたのはアシュレの《魂》の乱れ。
伝達される《ちから》が緩み、ウルドは一気に屍の王の手元に、そしてその背後に控える《星狩りの手》の元へと引き摺り込まれていく。
詰まっていたふたりの距離が見る間に開いて、離されていく。
「アシュレ、アシュレーッ!」
「グッグッグ。コレデ、ソナタハ、ワガモノヨ」
そしてそれは、ウルドに這いよろうとしたスマウガルドの眼前で起こった。
「……る、と思ったよ」
口元からあふれた血をぬぐおうともせずにアシュレはそう言った。
「こう来ると、思っていたよ……こういう状況になれば必ずボクを狙ってくると……イズマにボクを狙わせると思っていた、よ」
きっとこうやってウルドを手中に収めようとするって……ね。
「オマエはきっと自分では手を汚さない。イズマにやらせると思っていたよ。ボクの心までも折りたいからだ……絶望に苦悶する人間の顔を見るのが好きだからだ。だが、それが仇になった。いろんなことを人任せにするからさ」
「ナニ?」
「さよならだ、屍の王。オマエはもうすこしボクに興味を持つべきだった。せっかくスノウを掌中に収めたのに……対策を怠ったのはオマエだ」
魔導書の内に詰め込まれているヒトの悪意の歴史に目を向けるばかりで、少女であるスノウがなにを信じてボクとともに歩もうとしてくれたのかを見落とした。
人間の無自覚な悪意の歴史に、自らの《意志》で抗おうとした人々の行いを軽んじたんだ。
「だから、オマエは負ける」
アシュレが言い終わらぬうちに、みるみる荊が刃に転じた。
「封印よ──退け。薔薇よ、刃に還れ──────」
ごうごうと渦巻いていた熱気と腐臭とに穢された聖域の大気を、清浄なる薔薇の冷ややかな薫りが切り裂いた。
世界は光と青き花びらに満ちる。
青白く輝きながら乱れ狂う花弁は、すべて不死者を葬る聖なる刃。
それがアシュレの命により、次々と屍の王の肉体に突き立ちながら切り刻んで──燃やし尽くしていく。
「アアア?! ア、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア────ッ!!」
屍の王の腐れ落ちた声帯が、断末魔の叫びに震えながら消し飛んでいく。
「終わりだ、屍の王。オマエは慢心が過ぎたんだ。ボクたちについて、イズマさえ知らぬことがあるってことを知らなかった。つまりイズマがオマエの配下になったあとの出来事を、知らなかった。彼がボクたちについて、あまりに雄弁に包み隠さず余すことなく語ったがゆえに、それ以上知ることを怠った。己の優位さ、強大さ、絶対的な能力にあぐらをかいた。そう──」
ボクが、一度きりだけれど聖剣:ローズ・アブソリュートを振るえるまでになっていることを、知らなかった。
苦難を通じて、その《ちから》に目覚めたことを認められなかった。
「人間は成長する。変わる。変われる。オマエたちが思うより、ずっと速く。それが──それが《意志のちから》」
ごぶり、と腐った肉を清浄なる刃が貫く音がした。
荊から変じた聖なる剣が、それに縛されていた美姫を手中にしようと這いよった屍の王を刺し貫いた音だった。




