■第一八六夜:青き荊(いばら)
「ぐっ」
せめて怪我をせぬようウルドを下ろしてやることだけで精一杯だった。
それほどに襲撃者は手練だったのだ。
雷撃のごとき蹴りが、中天からアシュレの頭蓋骨を正確に狙って打ち下ろされる。
それは実際に雷光と雷轟とを纏っていた。
「イズマッ!」
「ヒョーウ、いまのを躱す? アシュレくんマヂでできるようになってんじゃん!」
ウルドを手放し、床を転がりながらアシュレは続く連撃を凌ぎ切った。
蹴りと横薙ぎの手刀の切っ先を折畳み、ハンマーのように用いる暗殺拳。
変幻自在の攻撃が鞭のようにしなりながら、蛇のように執拗に正確に急所を狙って繰り出される。
飛び退くように転がって距離を取り、両手の力だけで跳躍して立ち上がる。
体勢を整えれば、眼前に土蜘蛛の王がいた。
イズマ。
イズマガルム・ヒドゥンヒ。
土蜘蛛たちの言葉で「隠された塚の王」の名を持つ者。
その男が、これも土蜘蛛だけに伝えられた古い武術の構えで立っていた。
幾度となく組手したアシュレにはわかる。
これは戯れではない。
本気だ。
本気でイズマは自分を殺そうとしている。
「せめて苦しまないように一撃で死なせてあげるつもりだったんだケドなー」
「イズマ、まさか本当なのか。本当にボクらを裏切ったのか?!」
「裏切ったのかって……何回訊くのさソレェ。キミィ、いつまで感傷に浸ってんの? いまのボクちんのケリ見たでしょ? 感じなかった、バリッバリの殺意を」
イズマの指摘に、アシュレは息を呑む。
そうだった。
感じた。
感じたのだった。
むせ返るような濃密な殺意を。
だが、だからこそアシュレは躱せた。
察知できた。
研ぎ澄まされた騎士の勘が、それを察知して考えるよりも速く、アシュレに回避運動を取らせてくれた。
だから自分はまだ生きている。
なんとか、かろうじて。
アシュレは突きつけられた事実に言葉を失う。
その考えの正しさを証明するかのように頬が裂け、つうと血が滴り落ちた。
躱し切ったはずのイズマの攻撃が、かまいたちめいてアシュレの肌を裂いていたのだ。
「まーせっかく生き延びたんだから帰ったら、このまんま? ほんでアスカ殿下やアテルイちゃんや、レーヴちゃんとかそのほかもろもろの女の子たちと刹那の楽しみに耽りなよ。このあとボクちんたちは陛下と一緒に世界を征服しにいくから、その時までしっぽりと、うん? ズッポリと? まあいいやなんでも甘ーい生活を楽しんだらいいよ。これがボクちんの慈悲だよ。むかし仲間だったキミへの」
まったく信用ならぬ笑顔でイズマが告げた。
どう答えるべきか、アシュレにはわからない。
ただひとつはっきりとわかっているのは、ウルドを見捨てスノウを手放して帰ることなど絶対にできないということだけだ。
「騎士さま、アシュレ!」
出し抜けに名を呼ばれた。
《星狩りの手》に玩弄されるスノウが、その苦しい息の下からアシュレを呼んだのだ。
「来て、来てくれた……たす、たす、けてください。わたし、わたしこのままじゃ、壊れる。壊されちゃう! せめて……せめて壊して……アシュレの、騎士さまの邪魔にならないように、あなたの、あなたの手で!」
これまで堪えていたのだろう弱音がアシュレの姿を目の当たりにしたことで、スノウの口から漏れた。
まだ彼女は成人したばかり、その内面は多感な少女に過ぎないのだ。
その彼女がたったひとりで敵に拉致されたその先で、身に加えられる拷問に等しい玩弄にこれまで耐え続けてくれたことのほうが、驚愕に値する行いなのだ。
「スノウ! 助ける──必ず助けるともッ!」
「ケナゲナ。ダガソレハ……ショウショウ、ムズカシイノデハ、ナイカ?」
グッグッグ、とまたヒトの神経を逆なでする笑い声がした。
同時にジャララララッ、と鎖と床が擦れる音が鳴り響く。
イズマからの攻撃を警戒して間合いを取ったアシュレの目に飛び込んできたのは、笑い声の主=屍の王の元へとウルドが引きずられていくところだった。
「ウルドッ?! これは──まさかあの縛鎖が?!」
「アシュレ! いやだ離れたくない、離さないでくれッ! せめてせめて介錯を! ここで殺してくれッ! いやだわたしはこんなこんなヤツに──スマウガルドの怨霊でさえないものに──陵辱にされるのはッ! このような輩に我が純潔を捧げるなど、まっぴらごめんなのだ! せめて貴様の手でこの運命、断ち切ってくれ!」
「アンズルナ、ヒメヨ。ワガフクシュウハ、アマク、セツナイ──キュウサイニテ」
どこをどう押せばその下衆な振る舞いから《救済》などという言葉が出てくるのか。
欲望にまみれた濁り切った黄色い瞳が舐め回すように、青きバラの縛縄にてあらわになったウルドの肢体の上を這う。
嫌悪感に堪え切れないウルドの唇から、はじめて言葉にならない悲鳴が漏れた。
だが、彼女を助けようと駆け出しかけたアシュレは、進路をイズマに遮られる。
ときに玩ぶように牽制めいて、ときに本気の殺意を込めて間合いを変えるイズマのステップにアシュレは翻弄されてしまう。
これでは……これでは迂闊には動けない。
「いっやあ、大変だねえモテる男ってのも。でももう無理だって。だってスマウガルド陛下はもう、あの《御方》と直結されてるんだから。さらにいうとウルドちゃんも、もう物理的接続は終わってんですよ。ほらあの黒い杭と縛鎖が真っ白になったらもうおしまい。だんだん状況は進展していてて、痛っ、いってええええええええッ?!」
瞬間、黒杭と縛鎖と《御方》の説明をしたイズマが、突如頭を抱えてのけ反った。
「いいいいいいい、イダダダダダダダッ?! ちょっとちょっとちょいまちちょいまちですよ、陛下ァ、ボクちんは味方、お味方ですよぅ! お痛はおやめになられてッ?!」
それはイズマにかけられた《御方》の呪縛。
《御方》とこの世界にまつわる秘事を口にするだけで、存在をひしがせるような痛みが彼を襲う。
スマウガルドに屈し傀儡針を受け入れ、結論として《御方》の味方となろうともその呪いはイズマを手放しはしない。
そもそもが「どの《御方》」がイズマにそれをかけたものかもわからないのだ。
そしてイズマの軽口は生来のものだ、止めようがない。
アシュレはそこに一点の好機を見出した。
密かに握り込んでいたものに力を込める。
それはこれまで急転する展開が隠してきた最後の切り札。
若きヒトの騎士はそこに《ちから》を伝達する。
ヌッ? と屍の王が唸った。
「コレハナンダ? ナニヲスルッ?!」
「まだだ、スマウガルド。約定を反故にするというのであれば、貴様はただの卑怯者に過ぎないッ! 黙ってウルドを渡すと思うのかッ! スノウともども返してもらうぞッ!」
アシュレが握りしめていたもの。
それはウルドを縛する青き荊の蔦であった。
聖剣:ローズ・アブソリュートの変じたその一本を、ヒトの騎士は密かに掴んでいたのだ。
「コレハ、イバラ、デアルトイウノカ?! ヒメヲ、バクスル、ソエモノデハ、ナイトッ?! コシャクナ! エエイ、ハナシオレ、ゲロウ!」
「言ったはずだ。ウルドは渡さないとッ!」
アシュレはさらに強く、想いの限り《スピンドル》を励起させる。
それによってウルドを捕らえようとする縛鎖の呪力に抗う。
もちろん、アシュレの掴んでいたものがただの荊であったなら、まったく意味をなさなかっただろう。
ただの荊では、ヒトの《意志》が生み出す奇跡の《ちから》=《スピンドル》の伝動を受ければ、瞬時に燃え尽きる。
いやそれ以前に、加工されヒトの手によって生み出された道具でない自然の荊の蔦には、うまく《スピンドルエネルギー》を伝えることができない。
自然物は《スピンドル》の伝導効率が極めて悪いのだ。
なぜなら、そこには《意志》の経路がないから。
どんな想いが、《ねがい》が、そして祈りがその品を生み出したのか。
その経緯がないからだ。
だが、だが──この青きバラは違った。
なぜならば────。
「タチキレヌ?! デハ、コノイバラ、《フォーカス》ダト、ソウモウスノカッ?!」
「アシュレ! ああ、アシュレダウ!」
床に転がされ為す術もなく引き摺られていくウルドが、縋るような瞳でアシュレを見返った。
荊による緊縛は、我が身の自由を奪うためだとばかり思っていた。
スマウガルドを欺く偽装のための装飾に過ぎぬとばかり思っていた。
そんな青きバラの戒めが、こうして自分を救うためのものであったとは。
理解に及んだウルドの相貌の奥に希望と信頼の炎が灯った。
そんなウルドに「必ず助ける」とアシュレは眼に力を込めて伝える。
「シカシ、コレハ、ムダナアガキゾ!」
アシュレとウルド、ふたりの間に刹那に結ばれた絆を踏みにじるように、スマウガルドだったものは己が《ちから》を振るった。
途端にこれまで感じたこともないような強烈な牽引力が、ウルドと《御方》を繋ぐ縛鎖にかかった。
ズルルッ、と手のなかで荊が滑り、鋭い刺がアシュレの掌を深く抉る。
竜皮の籠手:ガラング・ダーラに護られているハズの掌が、その装甲の内側で裂けた。
恐るべきは聖剣:ローズ・アブソリュートの権能。
いまだ聖剣の姿を取らぬ荊の姿であるときでさえ、竜の皮を貫いて、いやそれには傷ひとつ負わせることなく、正式な所有者ではないアシュレの肉体だけを傷つけるのだ。
「ぐうううううッ?!」
「ハハハ。ハカナイ、ハカナイナア」
己の《ちから》の強大さを誇示し、嘲るように屍の王が嗤った。
縛鎖と荊を介した綱引きは、屍の王に軍配が上がりつつあった。
みるみるうちに、アシュレとウルドは引き離されていってしまう。
「アシュレッ! アシュレッ!」
双方からの《ちから》を受け、引き裂かれるような痛みに翻弄されながらも、ウルドがアシュレを呼ぶ。
自分の胸に埋め込まれた黒杭と縛鎖の異常とも呼べる牽引力について訴える。
そこにはウルドを取り込もうとする強力な欲望の《ちから》が働いていた。
無理もなかった。
実際にはその《ちから》も件の杭も縛鎖も、すべて《御方》の一部なのだ。
“接続子”を通じて人々の《ねがい》のを受け止め、今度はその《ねがい》を物理的な《ちから》に変換して世界を変えてしまうような存在の。
屍の王はその直結者となり、そこから《ちから》を汲み上げている。
ほとんど無尽蔵とも言えるそれを。
それとアシュレは個人で対決していることになる。
勝ち目はない。
ないはずだった。
そう──アシュレという男がこの世界観で唯一ただひとり、《魂》に辿り着いた男でさえなかったなら。




