■第一八五夜:屍の王
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「イズマッ! スマウガルドッ! スノウを放せッ!」
かつて東方世界に栄え、その絶頂期に神の怒りに触れて滅んだ都市があったという。
その都市の中央に屹立した天にまで届こうかという慢心の象徴──巨大な神殿を思わせて《偽神》の祭壇はあった。
アシュレはその足下から頂点に位置する祭壇を睨みつける。
はるか頭上、四角錐の頂点へと向かう長い長い階段の下から屍の王へと言葉を投げつける。
竜たちの聖域、その深奥は歌で満たされている。
それはスノウの喉から漏れ出る、絶え間なき苦悶と官能の歌だ。
自らの意思とは関係なく人智を超える快楽に翻弄されるスノウの泣き声を耳にして、アシュレは複雑な想いに囚われている。
もし此処へと至る道中で竜の皇女:ウルドから、かつてのスマウガルドとその振る舞いとを聞いていなかったなら、あるいはそんな想いはせずに済んだかも知れない。
純粋な怒りに身を任せることができたかもしれない。
『彼は……スマウガルドは喰われたのだ。我らが聖域だと信じてきた龍穴の深奥に居座るモノ──偽りの神に。《御方》に。心と竜の精髄……つまり竜玉を』
此処に居たる直前、ウルドはアシュレにだけ聞こえる声で囁いた。
そしてそのひとことで、アシュレは完全なる理解に達している。
奴は、いいや彼は、スマウガルドこそは被害者であると。
かつて森の國:トラントリムで出会い、人間のアシュレを弟同然と呼び、己の生涯を賭けた手記を手渡して、導いてくれた夜魔の騎士:ユガディール。
国土を愛し、人民を愛し、妻を愛してこの世に夜魔と人間とが共存できる理想郷を降ろそうとした。
だが……その果てに《絶望》に、《偽神》に、《御方》に心を喰われた。
果たしてスマウガルドが彼と同じ経緯を辿ったものかは、わからない。
しかし、アシュレには断言できることがある。
スマウガルドはかつてのユガディールと同じように気がついたのだ。
この世界の欺瞞に。
ずっとずっと太古の昔から仕組まれた詐術に。
そして、それに抗おうとした。
あるいは《御方》の《ちから》を逆手に取ろうとしたのかもしれない。
ユガディールのようにこの世界の秘密の理解に至るため、まだ目覚めていない《御方》の《ちから》を用いて“庭園”へと至ろうとしたのかもしれない。
しかしそれは叶わず……いや叶ったが故に、心を喰われた。
竜の精髄──竜玉を奪われた。
それは竜がこの世界に生まれ落ちたときから定められた摂理。
《御方》を動かすための動力。
竜とはそれを身の内で育み、育てる者。
そのように最初から仕組まれていた。
竜とは王とは名ばかりの生体工房。
スマウガルドはそれを知った。
世界の作意を。
作為を。
悪意を。
だのに、それなのに、知りながらにして喰われた。
なぜだ。
なぜ?
それどころか、スマウガルドはさらには問うたのだ。
彼を愛し求めたウルドに「どうして我らが竜族はこの世に生まれ落ちたのか」と。
心と竜玉とを《御方》に喰われながら。
アシュレにはその理由がわからない。
わからないからこそ、心乱される。
いまアシュレの頭上からこちらを見下ろす生ける屍に変じたスマウガルドに、さきほどまでウルドが語り、そしてアシュレが想像した生前の彼の《意志のかたち》を一片も見出すことができないで。
「なぜだスマウガルドッ! なぜウルドを──その心を裏切ったッ!」
アシュレのそんな叫びを、階上の屍は嗤ったようだった。
上がってこい、と手招きする。
そのたびにこぼれ落ちる腐汁の臭いがここまで届くように感じられた。
かたわらに先ほどまで確かにいたはずのイズマの姿は、この一瞬で、どういうわけか失せている。
あるいは隠身の技か。
ウルドを抱えてジグラッドを登るアシュレを待ち構えるために、姿を隠したか。
であればこれは考えるまでもなく罠であろう。
アシュレがそう考え至ったとき、スノウの声がオクターブ高まった。
祈るように縋るように、スノウが呼ぶ。
騎士さま、と。
わたしの騎士さま、と自分の名を。
アシュレはギリ、と奥歯を噛みしめた。
これもまた、周到に仕組まれた心理戦の糸であるとわかっていた。
言うまでもなくスノウをいたぶることで、アシュレの集中力を削ぐイズマの策だ。
たしかに事態は逼迫している。
スノウがさらわれてからすでに半刻以上が過ぎている。
アシュレだって、その間にどのような仕打ちが彼女に振るわれたのか、気が気でない。
だが、だからといって、ここで焦りのあまり過ちを犯すことは許されない。
「行くよ、ウルド」
頭上を睨みつけたままアシュレは覚悟を言葉にした。
不安に瞳を揺らしながら、ためらいがちに震えて、それでも竜の皇女は頷いてくれた。
どんなに言葉でこれは演技に過ぎないと確約を得ていても、身体の自由を奪われ交換用の供物として差し出されることに対する恐怖や苦痛が和らぐわけではない。
ウルドがこうして従順に従ってくれているのは、自分への信頼あればこそだとアシュレは思いを新たにする。
一歩一歩、足下を確かめながらアシュレはジグラッドを登っていく。
不思議な純白の材質。
一見して大理石のようではあっても、どこにも継ぎ目はない。
目を凝らせばまるで本物のように、閉じこめられた古代の生物たちの遺骸が、貴石めいて埋められているのさえ確認できるのに……これは自然物ではないのだ。
アシュレはこんな構造体を、過去に幾度か目にしたことがある。
一度目は生まれ故郷:エクストラムの法王庁地下の発掘現場で。
二度目はすべての始まりとなったイグナーシュ王国の王墓の底で。
三度目は逃避行の末に辿り着いたカテル島の地下聖堂の深奥で。
そして四度目は《御方》に心喰われた夜魔の騎士:ユガディールが待ち受ける塔の上で。
だからもうわかる。
わかっている。
ここは世界の秘密の集約点──《御方》たちのための祭壇であると。
人々の《ねがい》を叶える人造の神、すなわち《偽神》を組み上げるための無人工廠なのだと。
竜族たちはその工廠を、聖域と偽られたまま護り続けてきたのだ。
自らの子を、妻を、あるいは己自身を工房としてその動力を体内で育てるよう仕組まれて、ついにそれを捧げながら。
「アシュレ……すまない。これはわたしの、いいやわたしたち竜の罪だ。わたしたちは知らずに来た。考えずに来た。これがなにか、と。聖域とは竜玉とはそれを捧げる祭壇とは……なにのことなのか、知ろうともせずに来た。これはこれは、そんなわたしたちへの罰なのだ」
ほとんど泣き声でうつむいてウルドは言う。
そんなことない、とアシュレは頭を撫でてやりたくなる。
知ろうとせぬまますべてを投げ出し、運命の名のもとに任せっきりにしたのは竜だけではない。
いいや、竜たちはある意味でその責任をすでに取っている。
我が身に竜玉という《御方》のためのパーツを産み出すための業を練り着けられて。
それは世界の敵という役割を練り着けられた魔の十一氏族たちだってそうだ。
だとしたら。
だとしたら本当に無責任だったのはボクだ。
ボクたちだ。
我々、人類だ。
困難と害意と諸悪のあらゆるを魔の十一氏族になすりつけ、ここまで来てしまった。
そこまで考えてアシュレはひとつの推論に辿り着いた。
もしかするとかつて竜王:スマウガルドもまた、この思考に至ったのではないか。
竜族や魔の十一氏族が背負わされた世界の業について、理解に及んだのではないか。
たとえばいまのボクのように。
そして……そしてそれを覆す手段に気がついた?
だから竜玉を自ら捧げた?
喰われたのでは、なく?
ジグラッドの急な上り階段が絶えたのは、アシュレの思考がそこまで行き着いたときだった。
「コレハコレハ」
壇上まで上がり終えたアシュレとウルドを、屍の王は両手を広げて迎え入れた。
たったいま辿り着いた気高き推論からはほど遠い、腐り落ちひずむ下卑た笑み。
「マサカ、ヤクジョウドオリ、クルトハ。カンシンカンシン。シカモ、ソノ、キンバクノスガタ。ソソリオル」
ウルドから聞いていた彼のものともは似ても似つかぬ、下衆そのものの態度でスマウガルドが舌なめずりした。
紫色に変色した舌が、ずるり、と音を立てる。
人を苛立たさせる空気。
そうであるのに総毛立つような冷たい重圧が、まるでそびえ立つ氷壁のように迫ってくる。
その背後には世界の果てが見えている。
いまだ目覚めぬ偽りの神の臓腑が、大聖堂とその内側に張り巡らされたパイプオルガンの配管を思わせて展開している。
そして、そこから伸びる忌まわしき《星狩りの手》と──それに玩弄され楽器のごとく鳴かされ続けるスノウの受難の歌声が竜の聖域を満たしている。
それはヒトの身のうちにある秘事を暴き、存在の尊厳を貶める退廃と背徳の祭祀。
恐るべきことにスノウに群がる無数の指は、望むならその筆致で人間を書き換えることすらできるのだ。
スマウガルドがそれをしないのは、スノウがまだ有用だから──魔導書の《ちから》が役に立つからに過ぎない。
なるほどかつてウルドは、このような場面に遭遇したのだ。
領民の女子供に加えられるこんな非道なありさまを目の当たりにすれば、ウルドが逆上したのも無理はない。
領民に成り代わり、その無念を晴らすべく、できる限り無残で惨い死を与えようとしたのだ。
王として、臣民を預かるものとしての責務を彼女は全うしようとした。
スマウガルドという男を想っていたがゆえに、その悪逆を看過できなかった
しかしだからこそ……目の前で繰り広げられる背徳を極める光景が、まるで当時の再現そのものだからこそ、アシュレは理解に及んでいる。
これは違う。
スマウガルドの《意志》ではない。
彼自身が望んだことでは、これはない。
これは──これは《ねがい》だ。
だれの?
人々の。
竜たちに対して注がれた《ねがい》の姿だ。
竜たるものは暴君たれと、だからこそ人類の英雄に討ち取られるべきと《ねがった》人々が思い描いた仇敵の姿。
その典型。
その写し。
つまりこれは姿見なのだ。
我々人類の《ねがい》の。
これまで出逢ってきたオーバーロードたちがそうであったように。
であれば。
「ドウシタ、ゲセンノキシヨ、ハヨウ、ハナヨメヲ、コレニ」
ぐつぐつと不潔な沼沢地の汚泥がガスを吹き上げるような声で、スマウガルドだったものは居丈高に命じた。
アシュレは断固として首を振る。
「それはできない。スノウが、スノウの解放が先だ。そういう約定だったはずだ」
投げ返された要求に、屍の王は「フムン」と小首を傾げて見せた。
「コウカンジョウケン、デアルト、ソウモウスカ」
「そのとおりだ。そういう約束だったはずだ、竜の王よ、スマウガルドよ。そうでなくては彼女は渡せない」
「ナルホド……ノウ」
そちの言うことようわかった、とスマウガルドは頷いた。
だが、
「ダガ、ジジョウガカワッタ。コノモノ……スノウト、モウシタカ。コノニョショウハ、ワレノ、ワカタレタル、イチブト、ハンメイシタ。ユエニ、コハ、モトヨリ、ワガモノデアッタワ」
「分かたれた我の一部?! なにを言っているッ。どういうことだッ?!」
思わずアシュレは詰め寄っている。
ソノホウサッシガワルイノウ、とスマウガルドだったものは嗤った。
「コレモ、ソレモ、ビキフタリハ、モライウケル。ツマリ……ソコモトハ、ココデ、シネト、イウテオルノダ」
その言葉が終わらぬうちに、アシュレは襲撃を受けた。




