■第十夜:鍵は炎にくべて
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目覚めたとき、アシュレの時間感覚は失せていた。
カテル島の港は冬季に特有のモンストロル(カテル島に対して北西の風)を避けるため、基本的に島の東側に集中している。
秋に西への帰路を急ぐ船が多いのも、この風を嫌ってのことだ。
当然のように、アシュレたちの宿舎も東の山陰にある。
つまり朝日を浴びるのは早いが、日没も早く感じられる。
窓ガラスなどはめられていない宿舎のなかで、寒気を遮るために窓を閉め、カーテンを引いていると、いったい、いまがいつで、ここがどこかを見失いそうになる。
いや、時間感覚は失せても、ここがどこかだけは見失うことはない。
室内を満たす、瑞々(みずみず)しいバラの香りのおかげだ。
人工的に抽出されたエッセンスではなく、野に咲くバラの、その自然な芳香。
それで、アシュレはここが、シオンの自室だと判るのだ。
上級士官用の部屋を、シオンはあてがわれていた。
と、言っても下士官用のそれとは個室であることと、カーテンが上質であること、執務机が備えられていること、暖炉の作りが個室である分ややこじんまりとしていることをのぞけば、それほど変わらない。
華美な装飾など、どこにもない。
質実剛健、実用本位の作り。
カテル病院騎士団の精神性がよく現われているとアシュレは思う。
煤煙とヒトの手で磨かれ飴色になった柱が、暖炉の炎を照り返している。
いまや、室内の明かりはそれだけだ。
ダシュカマリエとの会談、イリスとの面会を経て、宿舎に帰り着いたのは昼飯時を少しすぎたころだった。
アシュレはシオンの部屋の暖炉をかいぐり、埋み火に外気をあてる。
しっかりと火を熾しなおしてから、その上に細く割ったブナの薪を数本組む。
焚きつけを加えるとほどなく、キレイな炎が起きた。
そこで太い薪を加えて、安定させる。
この仕事は、いつのまにかアシュレの分担ということになってしまっている。
宿舎に来てから数日中に、シオンに火を起こさせると、部屋中が灰被りになることがわかったからだ。
暖炉の仕度を終え、自室に戻るべく立ち上がったアシュレの背後で、がちゃり、と鍵をかける音がした。
アシュレは思わず振り返る。
シオンがいた。
すべての窓を戸締まりし、錠を下ろし、カーテンを後ろ手に閉め、うつむいていた。
それがなにを意味しているのかわからぬほど、アシュレはひとの心の機微に疎いわけではない。
『わたしを心配してくれているのはうれしいけれど、どうかシオンのことも考えてあげて。愛の呪縛に囚われているのは、わたしだけではないのだから。たぶん、もうとっくに限界のはずだよ?』
別れ際、イリスが囁いた言葉を、アシュレは思い出している。
ほんとうは、アシュレにだってわかっていたのだ。
アシュレ自身がそうだったからだ。
痛みを感じるほどに疼く――永劫の恋の呪い。
「シオン」
名を呼ぶと、シオンはうつむいたまま、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
それから、アシュレのかたわらにまでくると、暖炉を背に立ち、後ろ手に鍵を放った。
鉄製のそれを、暖炉にくべた。
がさり、と鍵は炎のなかに消える。
あの荘厳な王冠は、すでに頭頂にはなく、シオンの真っ白な指先が編み上げられていた髪を解いた。
雨が地を打つような音を立てて、それは流れる。
どちらが先に手を触れたのか覚えていない。
音と光を遮断するシオンの展開した漆黒の帳が、部屋中のすき間を埋め尽くし、ふたりは自ら望んで囚われてしまったのだ。
シオンを組み伏せるとき、アシュレは獰猛な衝動に襲われる。
この女の持つ気高さ、崇高さを剥ぎ取り、奪い取り、蹂躙してしまいたい。
固く閉じられた扉を破壊し、手荒く侵入し、壊れるほど責め立てて、恥辱に泣かせたい。
そう切望してしまう。
どくりどくり、と血管が脈打つような音を立て、その凶暴な欲望が自身のなかで荒れ狂うのを痛いほどに感じる。
そして、そのように肉体が働く。
手荒くシオンを確かめる。
手段を選ぶことさえできずに、衝動的に、秘密を暴きたてる。
そのさまを言葉にする。
すると高潔な夜魔の姫の肌が、みるみるうちに羞恥の色に染まる。
ベッドに、あるいは壁に、太い柱に獲物を押しつける。
それは山野を駆けるワイルドライフをくびり、解体する作業に似ている。
シオンはアシュレが触れるたび、刃を受けたかのように跳ね上がり、必死に逃れようとする。
逃さない。
自分でもどこから来るのか戸惑うほど凶暴な力で、ねじ伏せる。
シオンが怯え、それなのに、よろこびに震えて戸惑うのが、鼓動から伝わる。
アシュレはそれを見逃さない。
冷酷な狩人として、獲物を追い詰める。
肉体の芯は、そして意識は――灼けてしまうほど熱いのに、技術だけはますます冴えて、冷徹になる。
荒々しく翻弄し、言葉で誓いを強いる。
誇り高い夜魔の姫が、アシュレの進軍と情熱に解きほぐされ、陥落するさまは、香り高いヤマシギの肉叢を内臓のソースとともに味わうようだ。
料理のクライマックス――その頭部をしがみ、深奥に秘められた脳髄を啜る――あの喜悦のようだ。
刻満ちたワインとともに――漆黒の外皮に純白を秘める、それを――味わったときのように。
陶酔。ひとこと。そうとしか――言葉を失う体験。
アシュレは背後からシオンの首筋に顔を埋め、その薫りをそっと嗅ぐ。
シオンのそれは、踏みにじられた花芯の匂いに彩られている。
そうやって、悦びに泣かされながら、シオンはアシュレへの愛を誓う。
うわごとのように、繰り返し誓ってしまう。
そして、意識を失う直前、その耳元に、シオンはアシュレの言葉を聞くのだ。
シオンが誓ったのと同じ言葉、愛ゆえの隷属を。
その言葉に、ああ、とシオンは思い、震えながら微睡みに沈んでいく。
わたしは、もう、どうしようもなく、このおとこのものなのだと――思い知らされながら。
※
気がつけば、シオンが腕のなかにいた。
ふたりの夜を過ごすたび、目覚めのたび、夢ではないのかとアシュレは不安に駆られるのだ。
シオンの、そのあまりに高潔な裸身に。
その彼女を、自分が手折り、あまつさえ――誓わせてしまったことを。
「夜魔の誓いは、絶対ゆえに」
はじめて、シオンにそれを誓わせてしまった日のことを、アシュレは忘れることができない。
いや、一生涯、決して忘れえないだろう。
まばゆいばかりのその裸身に、あの葡萄の蔓と葉の刺繍がされたチョーカーだけを身に付けたシオンは、生涯をアシュレとともに添い遂げると誓ってくれた。
アシュレも、同じく誓願で応じた。
あのときと変わらぬ寝顔が、いま、そばにある。
薪の多くが燃え落ちて、弱まってしまった暖炉の明かりのなかで、かろうじて浮かび上がって見える。
その長い睫毛が震えて、深い紫の瞳があらわになった。
まだ夢と現の境が定かではない――そういう目をシオンはしていた。
「いとしいかた……、あなたのものです。すべて、しおんは、」
ほとんど、無意識だろう。
ささやくように言うシオンのおとがいにアシュレは指を這わせ、艶やかな黒髪に隠された耳朶に手を添える。
愛しさが胸に溢れて止まらない。
「ボクも……ボクだってそうだ」
思わず答える。
シオンが甘い吐息をつき、それから瞳が焦点を結んだ。
はっ、とその身が強ばった。
「アシュレ?」
「おはよう……というかもう夕方かな?」
がばりっ、とシオンは飛び起きた。
真っ赤になる。いつものやりとりだった。
ふたりの夜を過ごしたあと、シオンは必ず夢に囚われている。
少なくともアシュレの知る限りそうだ。
なんども、繰り返し、アシュレへの愛を誓う姿をアシュレは見てきた。
今日、それが違っていたのは、アシュレがいつもは「なにも言っていないよ」とはぐらかしてきた事実を、うっかり告げてしまったことだ。
「いっ、いまっ、わたしは、なにか言わなかったか!!」
「かわいい寝言、かな?」
ぐいっ、とシオンの顔がぶつかるほど近くまで寄った。
「せ、正確に白状せよ!」
「いや、その、いつもの、告白みたいな感じだったよ?」
「気づかいなど無用だ! は、はっきり、言え!! はっきり言わんと、は、鼻を噛み切るぞっ。わ、わたしは、寝言でなんと言っておったのか!」
「いや、『わたしのすべてはあなたのもの』だっていういつもの」
わああああっ、とシオンはまず耳を塞ぎ、つぎに顔を覆った。
耳まで赤くなったのが、この頼りない明かりのなかでもよくわかった。
「いっ、いつもッ? いつも言っておるのか、そんな寝言をっ?」
「えっ? 自覚なかったの?」
あまりのショックでシオンは、こんどは口元を覆い沈黙する。
アシュレは展開の早さに驚くしかない。
「だって……いつも、誓ってくれてるのに?」
「いっ、意識的なのと、無意識はちがうっ。ね、寝言で誓うようになってしまったら……わたし、わたし……は、もう」
おそらく種族的な問題なのだろう。
シオンの狼狽ぶりがアシュレにはすぐには理解できなかった。
「だ、だいたいっ、そなたが、あんなにするからっ、なんども降参しているのに、許してくれないからっ。こんなことに……!」
狼狽しきりなシオンは、はっきり言って可愛らしかった。
「嫌だった?」
アシュレは心配になって訊く。
言葉を失い、ぱくぱく、と口を開け閉めするシオンの喉から、きゅう、とおかしな音がした。
シオンは全身を朱に染めて、うつむき壊れたようにつぶやく。
いつもはあれほど冷静な夜魔の姫が狼狽しきっていた。
「そなたに射込まれた《ねがい》のせいなのか? もう、わたし、わたし、逆らえないんだ。どうしよう。ぜんぜんうまく制御できない。現実であんなにされているのに、夢のなかでもおなじようにされてしまう。もうだめだ。もう完全にアシュレのものなんだ。どんどんひどくなってる。もう、わたし、アシュレへの愛を制御できないんだ、どうしよう。イリスが苦しんでいるのに、アシュレを望む心が止められないんだ。恥知らずな娘になってしまったんだ」
シオンは怯えていたのだ。
あまりにも深く、アシュレへの、ヒトの子への愛に溺れてしまったことに。
その衝動が制御できずに。
底なし沼に捕われてしまった子鹿のように震えていたのだ。
その様子に、なぜだろうか、アシュレはなぜかまた獰猛な気持ちになり、シオンを捕らえてしまう。
あう、とシオンがうめく。
四百年以上生きてきたシオンだったが、その反応は初めての少女のようだった。
アシュレはシオンの怯える両腕をこじ開け、左手を後ろに回し、解けた黒髪を掴んで真っ白な首筋をあらわにした。
シオンが吐息をついた。
夜魔という種族にとって、愛するものに首筋をあらわにされ、差し出すことには特別な意味があった。
こうして、愛した男に強いられるまま首筋を差し出し、成すがままされるがままにしていることは、完全な服従、あるいは永劫の愛の僕となることを受け入れるのと同じなのだと――アシュレはシオンから教えられた。
使い魔であるヒラリの首筋を撫でたとき、シオンが過敏に反応したのは、だからなのだろう。
いま思えば、納得のいくことではあった。
それは夜魔が眷族を生み出すときの行為と、きっと無関係ではない。
「まだ、恐いの?」
その問いを肯定するように閉じられたまぶたの先で、長い睫毛が震えた。
一命を取り留めたあの日、アシュレはシオンからその首筋を捧げられた。
骨の一片、最期の血の一滴までも、あなたのものだと誓われた。
その返礼を、アシュレは同じく、自らの首筋を捧げることで返した。
やさしく甘噛みされた。
それなのに、今なお、シオンはアシュレへの愛に溺れることを恐怖している。
夜魔という種族の一般的な社会的感覚になぞらえれば、アシュレたち人類は「家畜」か「獣」だ。
そんな存在に所有されることへの恐怖が――シオンのなかにさえ、ある。
あるのだろうか、とアシュレは思う。
ずきり、と胸が痛む。
そんなアシュレに「だって」とシオンは泣きながら弁解するのだ。
「ほんとうに――堕ちてしまう。このままでは、わたしは、わたし――」
ぢりっ、と自分のなかの独占欲に火がつくのをアシュレは感じた。
このヒトを耽溺させたい。
想いの海に引きずり込んで、呼吸することさえできなくしてしまいたい。
その細い両脚、両腕に縛鎖と錨を結わえつけ、二度と浮かび上がることができないようにしてしまいたい。
アシュレダウ、という男に溺れさせてしまいたい。
ボクがもう、どれほどシオンに溺れているのか、わからないのか。
その想いが口をついた。
「シオン、キミもボクの気持ちを味わうといいんだ」
自分自身でも驚くほど強い言葉でアシュレは言った。
シオンが真っ白な首筋を震わせる。
ボクが、もうすでにキミにどれほど強く囚われてしまっているのかを、キミは知らないのか。
どんなに所有されてしまっているか、わからないのか。
アシュレがそうささやいたからだ。
「キミが、完全に堕ちてしまうまで、ボクはキミを赦さない」
アシュレは獰猛な衝動のおもむくまま、シオンの首筋に歯を立てた。
甘く噛む。
シオンは震えて泣いた。
わたしは堕ちるのだと、堕とされてしまうのだとわかって。
愛に堕ちてしまった夜魔の娘に逃げ場などない。
その火は水では消えず、内側からその身を焼くのだから。
そのひとの声で煽られ、吐息に燃えあがり、運指に火勢を増して、生きながら火刑に処されるのだ。
心を組み伏せられ、貫かれて、縛鎖に繋がれる。
それは無限に続く牢獄――逃れたいと思うことさえ赦されぬ永劫の監獄だ。
傷口に残った刃のように、心の同じ場所を、何度も何度も抉られ刻み込まれて、そのひとのカタチに変えられてしまう。
きっとわたしは、耐えられない。
それなのに、あのひとは言うのだ。
誓え、と。
そうして、わたしは、あらゆる場所で、誓わされてしまうのだ。
責め立てられ、刻印され、心に焼印され、その痛みにさえ――喜悦で泣かされながら。
どこかで――ビィオラが鳴っている。
それが自分の声だと、シオンは気づくのだ。
もう離れられないのだと、気づくのだ。
わたしは堕ちるのだと。
繰り返し、堕とされてしまうのだと。
心までも、このひとのものになるのだと。




