■第一七三夜:《総意》はなぜ、我らを望みしか
※
「かつて我らが竜族は《世界の総意》によって産み落とされたという。それがなぜだか、そなたわかるか?」
くるぶしまでしか背丈のない、とても柔らかい草原を歩いていた。
毛足の短い猫の背を歩くような感触が、ふわりふわりと足の裏をくすぐる。
空にはぷかぷか上等の白パンみたいな雲が気持ちよさそうに浮かんでいて、その合間からヒバリたちの鳴き交わす歌が聞こえる。
気持ちの良いところだなあ。
スノウは素直にそう思った。
でも、ここはどこ?
見たことのない場所。
来たことのないところ。
「ここは我が庭だ。我が生涯を賭けて世界から──“庭園”から──切り取った理想郷の一部である」
スノウは丈の短い、簡素な、でもとても上質のワンピースを着せられていた。
下着はなくて、光の加減で体の線がスカートから透けて見える。
肌着をしないなんて、まるで子供時代に戻ったようだ。
恐ろしく無防備だったけれど、この場所には似つかわしい気がした。
ちょっといけないことをしているとき特有の、開放的な気分。
「あなたはだあれ?」
前を行く美丈夫にスノウは問いかけた。
異国の仕立て、深紅の長衣に身を包んだ彼は、立派な王冠をその頭頂に戴いていた。
たくさんの勲章をまるで装身具のように身に付け、またそれが極めて似合っていた。
堂々たる体躯は、煌めくような数々の宝飾品を従えても、まるで恥じるところがない。
「王さま、なのかな?」
感じたままに言葉にした。
あまりに直截なスノウの言葉に、男は苦笑しながら一瞬だけ振り向いた。
鋭くて凄みのある相貌に、呆れたような、どこか人懐っこい表情が浮かぶ。
「やれやれ我のことを知らんとは」
これみよがしに呟く。
聞こえるように、わざとそうしたのはスノウにだってわかる。
「だって」
「そなた、まさかここまで来て我が誰なのか、わからんのか本当に」
「そんなこと言われても」
悪びれることのないスノウの返答に、美丈夫は困ったように己のアゴに拳を当てて数秒、思案した。
それから言った。
「まあ、よいか。そちらのほうが面白くもある」
うんうん、と独り合点して頷く男の背に、スノウはむー、と抗議の声をぶつけた。
「それくらい教えてくれたっていいじゃない」
「それくらい当てて見せてもよかろうほどに」
「ケチ」
「我は鷹揚であるぞ。我に敬意を忘れぬ者たちには、特にな。この世にふたつとない賜り物さえ与えるを惜しまぬ」
結局スノウはこの男を「王さま」と呼ぶことにした。
「王さまはここでなにをしているの?」
ぐるりと周囲を見渡しながらスノウは聞いた。
どこまでも続いているのではないかと思うような大草原にはいくつもの丘陵があり、そのてっぺんには吹き渡る風に梢を揺らす大樹があつらえたように生えていて、心地よさげな影を投げ掛けている。
日差しは穏やかだが光は強くて、大樹はその逆光でシルエットでしか見えない。
木漏れ日がまるで星のように煌めいている。
どうやらスノウと王さまは、そのひとつを目指して歩いているらしかった。
「なにをしている、ときたか。なかなか手厳しいことを言う」
「もしかして……なにもしていない、とか?」
「無聊をかこつ、と我を嗤うか。小生意気な」
物おじしないスノウの質問に、王さまは不機嫌げに答えて見せた。
だがその態度は自称に違わず鷹揚そのもので、とても本気で怒っているとは思えない。
たぶんスノウのことは野良猫くらいにしか思っていなくて、だから投げ掛ける無遠慮な言葉もかわいらしい小猫の悪戯くらいにしか感じていないのだろう。
そういう器の大きさというか──あるいは自身への評価に対する無関心さのようなものをスノウは王さまから感じた。
「まあ、なにもしていない……できないという意味ではそう間違ってはおらんか」
「できない?」
「我は囚われの身ゆえ、な」
妙なことを言う王さまだとスノウは思った。
いまこんなに自由に一緒に草原を歩いているというのに、いったいなにに王さまは囚われているというのか。
スノウは王さまの隣りに回り込んで、その足首や手首を子細に観察しようとした。
囚われているというからには、まさか手かせ足かせが嵌め込まれているのでは、と疑ったのだ。
なかった。
そんなものは。
どこにも。
ただ……そのかわり王さまの胸には、巨大で真っ白い杭と同じく骨でできたように白い縛鎖が結わえつけられていた。
スノウは思わず息を呑む。
口元に手を当てて悲鳴を飲み込む。
やれやれ気付いてしまったか、と王さまはため息をついた。
「これが、王さまが囚われの証拠な……の?」
「ついに見つかってしまった、いいや見つけおったか。汝はどうしようもない悪戯娘だな。いかにも、いかにもそうだ」
「ひどい。だれがこんなことを?」
気持ちの良い草原と吹き渡る風のなかでピクニックしていたような気分を、台無しにされたような気持ちになってスノウは抗議の声を上げた。
囚人と言ったって、やっていいことと悪いことがある。
そもそも王さまがどんな過ちを働いたというのか。
手枷足枷の味をスノウはもう身を持って知っているし、これは他人事ではなかったのだ。
だから本気で憤る。
そんなスノウの様子に王さまは苦笑する。
「たしかにひどいありさまだ。しかしこれはある意味で我が望んだことであるし、いまやこの縛鎖こそが我を生かしていると言っても過言ではない。皮肉な話ではあるがな」
「王さまが望んだこと? 王さまを生かしている? この杭や鎖が?」
「そう。まるで赤子と母親を繋ぐへその緒のように。たとえをそのまま当てはめれば、我はこの子宮にずっと囚われているという見方もできる」
皮肉げに口の端を歪めて、丁寧に磨いた長い爪で縛鎖を摘み上げる。
雲のように軽い口ぶり。
スノウにはその軽さが痛かった。
「ここは笑うところぞ?」
手本めいて微笑んでみせる。
でも王さまのそんな姿を笑うのは無理だった。
気乗りしない様子のスノウにふむん、と王さまは唸って見せる。
芝居っ気たっぷりに歪めた唇が開いて、ギザギザの歯が覗いた。
「そなた、優しいのは美徳だが、自分の価値基準であまり他者を憐れむものではない。ときとしてそれは無関心よりよほど残酷であるのだぞ」
肉食獣を思わせる顎門から発された言葉は、意外なほど優しい調子に満ちていた。
スノウはもう一度、こんどは逆の意味で息を呑んだ。
たしかに王さまの言うことは正しかった。
いまスノウは己の価値基準で王さまを憐れんだ。
彼の事情を知りもしないで、だ。
憐れみと見下しはコインの裏表。
王さまの言うことが、スノウにはよくわかった。
経験があったのだ。
それも直近に。
自分がいま魔導書という魔性に蝕まれながらも正気を保っていられるのは、アシュレがそんなスノウを憐れむのではなく心の底から望んでくれたからだ。
心だけではなく強く貫いて。
道具としてではなく、スノウという存在をそのものを。
自分のなかに巣くう暗闇の部分までひっくるめて受け止めてくれたからだ。
そういう行いを愛と呼ぶのだとスノウは、理解させられてしまっていた。
「ごめん……なさい」
「かまわぬ。先ほども言ったが、これは我が望んだことでもあるのだ。気にせぬ」
じゃらり、と勲章がアクセサリーとしてちりばめられている伊達の効いた深紅の外套を翻して、王さまは笑って見せた。
またあのギザギザの歯が覗く。
優しい獅子と話しているようだとスノウは思った。




