■第一七一夜:彼、いかにして暴虐の王となしりか
「だけど不思議だ。これほどの《ちから》を持ちながら、彼は──スマウガルドはなぜ、オーバーロードなどに堕ちたんだろう」
不思議な燐光に満たされた空間を疾風の速度で駆けながら、知らずアシュレは思いを口にしていた。
あえて言葉にするつもりはなかった。
ウルドに聞かそうとも思っていなかった。
ただ思考が言葉になって転び出るのを止められなかった。
あるいはそれは人質に取られたスノウへ想いや、その処遇に対する不安と焦燥を飲み込んで駆けるヒトの騎士の無意識が、思考の袋小路から抜け出るために本能的に選び取った行動だったかもしれない。
疑心暗鬼や焦燥は沈黙のうちに、思考の迷路のなかで育つものだからだ。
いまアシュレの口をつくのは、スノウの魔導書の《ちから》を用いて屍の王と化したスマウガルドを見たときから感じていた違和感だった。
それはこの竜たちの聖域=龍穴を目の当たりにした瞬間、明確な疑問に変わった。
なぜなら聖域の内部の驚嘆すべき光景とそこに注がれた美学は、あまりに素晴らしかった。
とても人智の及ぶところではない。
竜たちたちは圧倒的に高度な精神活動と、その結実である文化を持ち、そしてそれをたったひとりでも実現させるだけの凄まじい権能を持っている。
そして彼の竜王にして、いまや屍の王であるスマウガルドもまたその一柱なのだ。
「なぜ……どうしてこれほど強大な《ちから》の持ち主であったはずの竜:スマウガルドはオーバーロードと成り果てたのか」
アシュレの疑問は、その一点に集約する。
「力なき人類が強大な《ちから》を求めるというのなら、同じく非力な人間として理解できるところもある。でもスマウガルドは違う。彼は竜だ。ただひとりで、まったくの個人でありながら王であることを自認し、しかもそれを《ちから》によって証明できる数少ない存在だ」
胸中で渦を巻く思いを独白に変えながら、アシュレは数メテルの溝を飛び越える。
ウルドの花嫁衣装がなびいて純白の軌跡を宙に描く。
「竜族というのはゾディアック大陸史上もっとも強大な《ちから》を有する存在だ。誤解を恐れずに言えば、この世界で間違いなく最強に属する種。しかも彼は、そのなかでさらに王と名乗ることを許されるほどの存在だった。つまり王のなかの王。個人の能力に限定すれば、かつて世界最高峰の幾人かに数えられる存在だった。違うかい?」
この問いかけも、ウルドに確認しようという意図があったわけではない。
アシュレはただ、自分の考えを言葉にすることで整理したかったのだ。
そうすることがイズマが仕掛けた心理戦の投網から逃れうる、唯一の手段でもあった。
絶望にやられ焦燥に駆られて考えることをやめたら、相手の思うつぼなのだ。
だからアシュレは思考する。
考えを巡らせる。
人類圏とは異なる法則性で運命が決定される《閉鎖回廊》の主:オーバーロードたちは、それぞれが、それぞれの抱く物語の支配する魔境の深奥に座している。
しかし彼らとて、生まれついてオーバーロードだったわけではない。
彼らはそうされてオーバーロードになる
つまり彼らが《閉鎖回廊》の主=《ねがい》の権化として転成を果たすには、その必然としての背景と注がれた《ねがい》、そしてそこに至る経緯が必ずある。
たとえばかつての降臨王:グランが、《ねがい》をその身に注ぐ《フォーカス》の穂先をその胸郭に打ち込みオーバーロードに変じたように。
あるいは夜魔の騎士:ユガディールがその身を“庭園”からの賜物:バロメッツに侵され堕ちたように。
おのおのに異なる背景と経緯、注がれた《ねがい》の質──つまり彼らが変じた理由を正しく理解することは、オーバーロードと対峙するにあたり最大の対策となり得る。
なぜなら、彼ら彼女らに注がれた《ねがい》とはつまり、相対するオーバーロードたちの思惑そのものでもある、ということなのだ。
彼らがなにを《ねがった》のか。
彼女らはなにを《ねがわれた》のか。
それを理解するということは敵の攻撃の質だけでなく、突くべき矛盾つまり弱点、そして存在の本質にさえも目を向けることになる。
より端的に言えば「どうすれば勝てるのか」というヒントがそこにはある。
これは逆説的にだが、そこを読み解かない限り、勝ちの目を拾うことは極端に難しくなってしまうということでもある。
だからアシュレは可能な限り事前に、できるだけ深く、相手の実像に肉薄しようとする。
存在としての、敵の思惑を知ること。
それこそが勝利への鍵だと、本能的に体得していた。
あるいはアシュレが卓抜した騎士である所以とは、ひとえにこの「相手を知ろうとする《ちから》」に依拠していたのかもしれない。
アシュレの思考は止まらない。
留まることもない。
なぜだ、と問いかけは続く。
「強大なる竜王。その彼がなぜ屍の王と化したのか。どうしてオーバーロードと成り果てたのか」
屍の王:スマウガルドが竜の皇女:ウルドへ向ける妄執については、すでにアシュレは間接的にも直接的にも確かめ終えている。
だがそれと、スマウガルドがオーバーロードに成り果てた経緯・理由とは決してイコールではない。
ウルドへの想いはスマウガルドの胸中に渦巻く強い動機ではあるかもしれない。
が、それは彼がオーバーロードと至った具体的な原因・経緯ではない。
スマウガルドにとってウルドは達成すべき目的・目標のひとつではあるかも知れないが、スマウガルドがどんな《ねがい》をその身に引き受けたのか、そしてどうやってそうなったのかについては、これまでなにひとつとして明かされてはいないのだ。
なにを望んで、スマウガルドはオーバーロードと成り果てたのか。
ハッキリとそれを知らなければ、これから仕掛ける謀は詰めを欠くこととなる。
そう思い至ったときだった。
「……死したものだとばかり思っていた。長き苦悶の果てに自らの罪を悔いながら朽ちたものだとばかり思っていた」
腕のなかの竜の皇女が呟いた。
己の思考に浸っていたアシュレは、予想外の独白に胸を突かれた。
それはいままさに考えていたこと──いま一番得たい答えだったからだ。
「それって……スマウガルドのこと?」
思わず聞き返したアシュレにウルドは微苦笑で応じた。
「聞こえていたか」
自嘲するウルドはどこか儚げだった。
「貴様の独白を真似てみたのだが」
それでアシュレはようやく自分が、胸中を言葉にして漏らしていたことを自覚した。
無意識だったことを恥じる。
心ならずもアシュレの問いかけを聞かされた竜の皇女は、あるいは告白を促されていると感じてしまっていたのかもしれない
キミの事情を聞かせて欲しい、と。
「自覚がなかった。考えに熱中するあまり口にしてしまっていたらしい。聞かれてしまっていたんだね。なにか……変なことをボクは言ってなかったかい?」
「変ではない。ごくまっとうな、自然な疑問だったよ」
なにかを許すような口調でウルドは続けた。
「ただ心のうちを聞いて欲しい、というふうだっただけでな」
ウルドの漆黒の瞳がアシュレのそれと合った。
それがあまりに自然で、逆に竜の皇女が自分の感情を押さえ込んでいるように感じられた。
アシュレはかすかに動揺する。
無意識で発した自分の言葉に、彼女を責めるような調子はなかっただろうか。
ウルドを問い詰めるような話し方をしてはいなかっただろうか。
夢中だったせいで、肝心の疑問以外のことが、なにも思い出せない。
「ごめん、そういうつもりじゃなかった」
「隠しごとをするな、と我を脅したわけではないと?」
胸中でもしやと思っていたことを言い当てられ、アシュレは自分の罪を見透かされた気分になった。
「まさか、そんなふうに聞こえてたかい?」
「もし貴様の腹にそういう小賢しい魂胆が潜んでいたなら、我は決して許さなかったであろう」
わずかにだが、悪戯げな調子が竜の皇女の口元に宿った。
アシュレの独白に居心地の悪さを感じなかったと言えば嘘になる。
ただその底意のなさに免じて許す、とウルドは言ったのだ。
ごめん、とアシュレは頭を下げるので精いっぱいだ。
「では我の独白はどう聞こえた」
なじられるかわりに、そう問われた。
アシュレは一瞬、思案して答えた。
「聞いて欲しい……っていうふうだったかな?」
ふ、とウルドが笑う。
「ぬけぬけとよく言う」
竜の皇女は笑みを広げて見せた。
ふんわりとやわらかい、だが気をつけて扱わねば壊れてしまいそうな笑みだった。
「正直に言うが良い。聞かせて欲しいと願っていただろう?」
「……お見通しってことだね」
「それだけ聞きづらそうにしていれば嫌でもわかる。……気を使ってくれていたのだな。礼を言うぞ」
これまで王族としては当然の高慢な態度を通してきたウルドが、一転、率直に礼を述べた。
どう受け取るべきか迷ったが、アシュレはワザと面食う演技をしてみせた。
目を白黒させるヒトの騎士に竜の皇女は笑みの質を変えた。
儚げだった微笑みに、呆れ返った調子が勝る。
貴様のそういうところだ、と笑う。
ヒトを和ませるテクニックの多くを、アシュレはイズマから学んだ。
それを言ったら竜の皇女は激高するだろうけれど。
「出会ってからそう時間が経ったわけではないのに、なぜこんなことまで話そうと思ったのか我にもわからぬ。できれば秘したまま終わらせたかった。こんなことを話すくらいなら自害しても良いとさえ思っていたのだ、ついさっきまでな」
ひとりひとりが王である竜たちが自刃について口にしたなら、それは冗談ではありえない。
アシュレに聞かせるのに、ずいぶんと葛藤があったはずだ。
覚悟もいっただろう。
彼女にとってこれは自らの誇りと名誉を天秤にかけて、話すか話さざるか迷わなければならない話題だったのだ
あるいはアシュレが夜魔の姫に待機を命じ、ウルドを連れて単身龍穴への侵攻を決断したからこそ、竜の皇女は自分も話さねばならぬと感じたのかもしれなかった。
重たい口をそれでもウルドは開いて、語り始める。
「なにしろいまから話すことは我にとっては、あるいは我に連なる竜の一族にとって、あってはならぬ恥ずべきことだからだ。我が一族からオーバーロードを出してしまった。偉大なる竜族の血統から。その恥を語る苦痛をわかって欲しい。だがそのまえにまず、ここまでのことを謝罪しよう。これまでの道中いろいろと我がままを言って済まなかった。このとおりだ」
ウルドは改めて頭を下げた。
これにはさすがにアシュレも困った。
茶化しきれず、また茶化していいものでもなく、曖昧な表情で受け止めるしかない。
実際のところこれまでのウルドの取ってきた態度を、アシュレは不遜とも理不尽とも評価していない。
たしかに高慢な言動が端々にはありそれが小さな衝突を招いて来たが、それは竜という種族の特性でもあり、彼女自身の誇り高さの証左でもある。
逆にその誇り高さがあったからこそ、アシュレたちはこれほど短時間で和解できたとも言えるのだ。
もしウルドの傲慢さが下衆な性根と結びついていたら、だれが彼女を助けようなどと思ったりしただろう。
そういう種類の狡さと、彼女が見せた支配者としての態度は決定的に違っていた。
竜族と人間とがこれほどの短時間でわかり合えたのはアシュレだけが優れていたからでは難じてない。
ウルドが傑出した人物だったからこそ、人類への偏見をこれほど短時間で拭い去り、己の過ちを訂正することができたのだ。
だからアシュレにウルドを責める気持ちはなにひとつない。
たとえスノウがさらわれたのがウルドの身代わりとしてだったとしても、だ。
この事件の始まりには、死せる竜の王:スマウガルドの言語道断な所業があり、さらに言うならそれに加担したイズマに責があるのだ。
そのイズマをいまだ仲間と認める以上、これはアシュレたち戦隊の責任でもあると言い換えることさえできる。
考えれば考えるほど、ウルドはむしろ被害者の側なのだ。
それなのに改まって謝罪とは。
突然しおらしくなり許しを請われては調子が狂ってしまう。
そんなアシュレの困り顔をどう捉えたのか、ウルドはますます恐縮して続けるのだ。
「しかし謝らなければならないのは、それだけではないのだ」
竜の皇女の申し出をアシュレは慎重に受け止めた。
ちりちりと首筋の毛が逆立つような感覚に囚われる。
それは本当に大事なことを告白されるとき、ヒトが本能的に感じ取る事件の規模、その気配のようなものだ。
「謝らなければならないことがまだあるって言うのかい? それは……もしかして」
「ここから先を聞いたら、貴様は我を許せなくなるかもしれん」
ああ、とアシュレは感じた。
ウルドの表情と口調が確信させた。
これが核心だと。
アシュレがこれまでずっと思考を巡らせてきた問題の、その答えだと。




