■第一六八夜:騎士の宣言
※
「遅かった」
燃え尽きて久しい焚き火のそばに跪き、アシュレはうめいた。
帰り着いた前進キャンプにスノウの姿はなかった。
湯浴みか、用足しか。
そんなものではありえない。
眼前ですっかり燃えつき灰となった焚き火の跡が、すべてを物語っている。
状況から判断するにスノウはすくなくとも一刻以上、この場に戻ってきていない。
いやそんな痕跡を確かめるまでもなかった。
いったいスノウになにが起きたのか。
はるかに明白な証がそこには残されていたからだ。
土蜘蛛の使う特殊な投げナイフ=彼らが手裏剣と呼ぶ武具が、頭上に枝を茂らせる広葉樹の幹にメッセージを縫い止めていた。
「魔道書は預かった。竜の皇女と交換されたし。龍穴の最深部にて待つ。ヒトの騎士のみ権利を持つ」
風雅な筆致で記された四行詩を意訳すればこうなる。
「土蜘蛛たちの好む特殊な詩歌だ。わたしの記憶と筆跡を照合するまでもない。イズマだな」
義妹の肌着を画布にして描かれた手紙を引き剥がし、シオンが断言した。
アシュレは地面に落ちていた自分の外套を拾い上げる。
内側からは温められたミルクと桃を合わせたような薫りがした。
スノウの《スピンドル》の匂い。
毛布だけでは寒かろうとアシュレがかけてやったものを、スノウは魔道書の《ちから》を使い終えたあとも、ずっと手放さず着込んでいた。
あまりに必死に、しがみつくように掻き抱くものだから、取り返せずにそのままになっていたものだ。
だがその内側に、もはやぬくもりと呼べるものは、わずかなりとも残ってはいない。
ただただ甘やかな残り香だけが彼女の不在を物語る。
「まさかここまでやるとは」
「甘かった。ひとりで飛び出したボクのミスだ」
「それを言うならわたしの判断のほうが罪が重い。いかに懇願されたとはいえ、スノウを置いて加勢に駆けつけたこと。もうひとつは先ほどの遭遇、初手でイズマの首を落さなかったことだ」
キャンプ地の床面に拳を叩きつけ後悔の念を表すアシュレに、シオンが応じた。
「まさか……我のせいなのか。そうだと貴様らは言うのか」
ここに来るまでの道中、散々暴れ抵抗を示した竜の皇女が落胆するアシュレとシオンを見て呆然となった。
「いや、キミのせいじゃあない。ああ、ないとも。ただ──ちょっとだけ黙っていてくれ。心を鎮める。冷静に、冷静になるんだアシュレダウ。まだ手はある」
右手で顔面を覆い、冷静になれとアシュレは繰り返す。
そのかたわらにシオンが跪いた。
「心を定めるのに助けがいるか?」
アシュレは首を振って答えとした。
この程度のことで取り乱しているようでは、スノウの奪還はそれこそ夢物語になってしまう。
それにイズマが本心から裏切ったのかどうかもわからないのだ。
パニックになるのは早すぎる。
「まずベースキャンプのアテルイと連絡を取る。さすがの竜の結界も念話までは阻害しないことは、ここまでの道程で証明済みだ。現状を伝える。外からの増援は無理でも事後のバックアップは頼めるはずだ。それと四行詩の意味だ。最後の一文──ヒトの騎士のみ権利を持つ──これはボクにひとりで来いってことで解釈に間違いないな」
「言わずもがなだが、竜の皇女を連れて、だな?」
暴れだしそうになる心と駆け出しそうになる肉体をアシュレは意志の力で押さえ込んだ。
その姿に夜魔の姫は誇らしいものを見るような笑顔で頷いた。
目と目で互いの見識を確かめ合う。
だから、ふたりがまったく同時に竜の皇女:ウルドラグーンに視線を移したのは、偶然ではありえない。
アシュレとシオン、ふたりの視線を一時に浴び竜の皇女は身を震わせた。
「まさか我を交渉材料にしようと言うのか」
「聞いてくれ、ウルド」
ふたりの考えを察したのか。
ウルドがじりと後退る。
「まってくれ」
アシュレは必死に制止を呼びかける。
だがウルドの指は拙速に震えて、刀を求めていた。
ぎゅ、っと美しい螺鈿装飾の鞘が鳴る。
抜刀からの突破に至らなかったのは、純粋にもうそれだけの力がウルドにはなかったというだけのことだ。
「スノウは──さっきも話したけれどボクたちのかけがえのない仲間だ」
駆け出しかけたウルドを押し留めるように左手を突き出し、アシュレは説得を試みた。
ここで彼女の協力を取り付けなければ、スノウは間違いなくスマウガルドの慰み者にされる。
それがどのような恥辱と苦悶に彩られたものかは、これまで件の竜王に囚われ続けていた蛇の姫:マーヤの現状を顧みるまでもない。
しかしそれは竜の皇女には伝わらなかったらしい。
拒絶するように激しく頭を振る。
「それが、それがなんだ! 我を想ってくれる者はここにはひとりもいないのかッ!」
「ウルド、そうじゃない。聞いてくれ。スノウはボクにとっては、さらに特別な女性でもある。このままにはしておけない」
アシュレの告白にウルドの動きが止まった。
胸を射ぬかれたような、蒼白な顔でアシュレを見つめ……立ち尽くす。
「愛する娘とわたしとでは思案するまでもない──とそういうことか。素直に交換に応じると、そういうことか」
すべてを悟り、ウルドはこれまで感じたことのない感情に震えた。
つまり自分は売られるのだ。
ヒトの騎士が愛する娘と交換に。
単純な理屈。
明白すぎる論理の帰結だ。
これまでの自分であれば赫怒に燃え、眼前のあらゆるものを青白きプラズマの炎で燃やし尽くしていたであろう。
それなのに。
愕然として胸乳に触れた。
熱く早鐘を打つ心臓とは裏腹に、空虚な冷たさが湧き上がって胸を締めつけていた。
ヒトの騎士に裏切られたのだと思った。
それなのに、怒れなかった。
そのかわりにまるで堰を切ったように肺腑を満たしていくこの想いは、まさか悲しみなのか。
まさかわたしは、つい数刻前に出会った人間の男に「想われていない」ことを「悲しい」と感じているのか?
ずくりずくりと胸郭のなかで疼くその痛みと、それが導く答えから逃げ出すように、ウルドは身を翻した。
だが、疲労困憊の極みにある足は、まったく言うことを聞いてくれない。
がくがくと膝が震え、数歩も歩めずに足がもつれた。
両手を遺跡の床について、うつむき唾棄するように嘆くしかない。
ああ、と声が漏れた、
「ああ、なんという、なんという屈辱。人質交換の物品のごとくに扱われて、尊重も敬愛もされず。しかもそこから逃げ出す余力さえもこのカラダにはないとは──殺せ、いっそ殺すがいい!」
竜族は、その一頭一頭が王のなかの王なのだ。
それがこのような状況に追い込まれ、屈辱に耐えられなかった。
竜の皇女:ウルドラグーンは当然のように夜魔の姫に介錯を要求した。
あるいは自分を軽んじたヒトの騎士が、後悔して止めてくれることを期待したのか。
それはウルド自身にもわからぬことだ。
「貴様らがどういう考えかは知らぬ。だが我は決して交換には同意せぬぞ。スマウガルド、あのような穢らわしい化け物の慰み者になるくらいなら死を望む! 夜魔の姫よ、我が身を憐れと思うなら、どうかその薔薇の剣にて我が素首をこの場で刎ねよ!」
だがシオンの反応は冷ややかだった。
無言で首を横に振る。
断言した。
「残念だが、それは出来ぬ。そこもとはすでに我らが意志を貫き通すのに必要不可欠な存在だ」
「ではそのためであれば我が死ぬことも許さぬと、そう言うのか。我のことなど、もはや人質交換のためのモノとしか見ておらんというのだなッ!」
竜の皇女が噛みつくように言い放った瞬間──夜魔の姫は抜き手も見せぬ一閃で、頭上に茂る広葉樹の枝という枝を切り捌いて見せた。
ゴウッ、と圧された大気が鳴る。
それらは落ちるよりも早く青白い炎を上げ、灰までも残さず燃え尽きた。
「ついには、わ、我を恫喝するか、夜魔の姫ッ!」
「そうじゃないウルド。いまのは恫喝なんかじゃない。シオンがしたのはそういうことじゃない」
取るに足らないはずの下等種族に自らの命運を握られたと勘違いしやウルドは恐慌を来しかけていた。
それをアシュレが遮る。
「まず第一にハッキリさせておこう」
ずいと進み出て告げた。
「断言する。人質交換には一切、応じない。ウルド、キミをスマウガルドには渡さない」
静かにしかしハッキリと宣言したヒトの騎士に、さすがの竜の皇女も言葉を失った。
夜魔の姫による先ほどの一閃はウルドを黙らせるための恫喝ではなく、人質交換にも応じないという。
ではその意味するところは、なんだ?
「なにが、なにが言いたい」
短く呻いて、竜の皇女はまじまじと騎士を覗き込んだ。
どこかなじるような調子が混じるのがなぜなのか、自分でもわからない。
アシュレはその視線を真っ向から受け止める。
「こんな卑劣なやり方に我々は屈しない、とそう言っているんだ。スノウは助け出す。もちろんウルド、キミの自由と尊厳も護る。奪われたものはすべて取り返す。我々もキミのものもだ」
「それがわからないと言っている。人質交換には応じないがスノウとかいう娘は取り返す。しかも、わたしの尊厳も同じくするとは、どういうことだ?」
鼻白むウルドに応じたのはシオンだった。
アシュレの宣誓の意味するところを伝える。
「戦う、と我が主は言っているのだ竜の皇女。スマウガルドとイズマの仕組んだこの卑劣な策略を奴らの喉笛ごとぶっちぎる、と我が主は考えている」
ついさきほどまで見下していた下等種族の、それもまさか人間の男からそんなとんでもない考えが出てくるとは予想だにしなかったのだろう。
震える足で必死に立ち上がろうとしていたウルドが、精根尽きたようにぺたり、と尻餅をついた。
「それは正気で言っているのか、アシュレダウ。交渉を決裂させ、その上でスノウという娘を助けだし、また我の尊厳をも護ると。本気で言っているのか」
「会ったばかりのそなたには信じがたいであろうが、厄介なことにこの男は全面的に本気なのだよ、竜の皇女」
これがわたしのアシュレダウだ。
夜魔の姫からそう紹介を受けたアシュレは、臆する様子もなく竜の皇女の前に立った。
照れる様子も恥じる様子もないのは、シオンから受けた紹介が誇大でも誇張でもなく、まさに自分の思いの代弁だったからだ。
心の底からそう思っていること言い当てられたとして、恥じる必要はどこにもない。
なにより自分はたったいまからそれを実行に移すのだから。
真顔で自分を見つめるヒトの騎士に、ウルドはぞくり、と寒気を覚えた。
それは先ほど味わわされた屈辱とは、いささか種類の異なる感情の働きであった。
そう、このときウルドは震撼していたのだ。
「貴様ら正気か……相手は竜だぞ。我と同じく竜の血筋に連なる者だ。我が化身した姿を見たであろう。いいか、いまのわたしはとある理由で《ちから》のほとんどを振るえない。にも関わらず昨晩、貴様らはそのわたしを相手に死にかけた。それが、だ」
これまでとはあきらかに異なる、諭すような口調でウルドが告げた。
それはいまやアシュレたちを別格の存在と認め、それゆえに竜の皇女が見せてくれた彼女本来の優しさなのだとアシュレは理解した。
「いま交換条件を突きつけてきた相手は、堕ちたりとはいえかつては竜族なかでも五指に数えられた赤竜:スマウガルドだ。その《ちから》はオーバーロードに堕ち、腐れ爛れた屍の王となってさえ健在──いいや、より増大していると見て間違いない。特にその暗黒の技の冴え、以前相対したときの比ではない」
悔しげな調子が声に宿っているのは、竜族はみな自分自身こそが頂点だと考えるがゆえだ。
誇り高い彼らは他者の実力を簡単には認めない、と言えばわかりやすいか。
だが、だからこそ敵の《ちから》を認めるウルドの評価には、高い信頼性があった。
「そこに来て彼奴めには、件の土蜘蛛王までついている。対する貴様らの戦力はどうだ。ヒトの騎士、夜魔の姫。そなたらふたりがいかに超戦士だとしても──勝ち目はほとんどないぞ。しかも相手はアシュレダウ、貴様ひとりで来いと命じている!」
「だからおとなしくキミを差し出す、とボクが言うとでも?」
世界に冠たる王者である竜の皇女、その自分がせっかく忠告してやっているのに、敵の正しい戦力評価を聞いたはずのアシュレがこともなげに言うから、ウルドは困惑するのだ。
いやそれとも、それを聞いてもなおヒトの騎士がウルドを生贄として差し出すつもりはないと断言したから、だからこんなに心が浮き足立つのか。
「だが、」
「ウルド、知らないなら、ここから先のボクらの戦いをよく見ておいてくれ。ボクとシオンとが──そしてスノウも──いかに戦い自分たちの自由と未来と尊厳を守るのか。キミや蛇の姫や汚泥の騎士たちとの約束をいかに果たすのか」
堂々と言い切るヒトの騎士に気圧され、竜の皇女は声もない。
絶対的強者であるはずの竜族、その皇帝の血に連なる己が、ただの人間に圧倒されるなどと本来ならあってはならぬことだったはずだ。
事実、これまでの彼女であれば、決して認めなかったであろう。
しかしこのときウルドは胸の奥がじん、と痺れるように熱くなるのを感じていた。
それを希望と呼ぶか、あるいはすこし異なる──竜の皇女がヒトに対して抱くべきではないはずの心の動きであったのか。
それは彼女自身にもわからないのだ。
※2022/02/14追記・ちょっと色々改稿してたらこの部分に時間取られ過ぎてしまいまして、今夜の更新はありません。その分、こちらの話を通りを直してみたのですがどうでせう?
ここまでお読みくださりありがとうございます!
燦然のソウルスピナは現在、土日祝を除く平日に原稿のある限り更新しております。
明日2022年2月11日は祝日ですので金曜日ですがお休みを頂きます。
またストック原稿がそろそろ尽きますのと確定な申告的なものを現在処理中ですので、来週以降連載不定期になるものと思われます。
ご了承ください。
あと、いいねボタンはどこにあってどう反映されるものなのでしょうか(よくわからない顔で)。
ともかく皆様、ご健康にだけはお気をつけて。
それでは、またまた!




