■第一六四夜:暴風の夜
※
「いてて、シオン……生きてる?」
「夜魔にヒトの基準で生死を問うでない。案ずるな、わたしはそなたを残して先立ったりせぬ」
胸の上に乗っていた岩塊を両手で退けながら、アシュレはシオンに話しかけた。
夜魔の姫は砕け散った岩のひとつに腰かけ、発振を止めた聖剣:ローズ・アブソリュートを指揮杖のようについて座っている。
気がつけば地形は一変していた。
竜の皇女が胸郭に食い入る邪悪な《フォーカス》に抗う際、その苦痛に耐えようとして無意識のうちに暴れ、すべてを破壊したのだ。
「環境破壊っていうか……メチャクチャだ」
「危うく一晩の間に三度死ぬところだったな、アシュレ」
「それね。どーやって生き延びたんだろう、この夜をボクは」
風光明媚だった温泉の湧き出る地は、いまや瓦礫と大岩が林立する濁流と化していた。
いたるところに巨大な爪痕が走り、吐息を受けた岸壁は溶解ののちガラス化し、いまは急激な冷却にぱきりぺきりと音を立てている。
ウルドラグーンの胸を断ち割り食い入る黒杭は、竜の皇女の肉体だけではなく精神をも蝕む魔具であった。
竜の皇女を内側から支配しようとする邪悪な《ちから》。
その表面に触れた瞬間、アシュレは流れ込む淫欲に満ちた穢らわしい思念を感じ取った。
「このまとわりつくようなドス黒い感情のうねりと引きずり込まれるように強大な《ちから》──コイツ、スマウガルドかッ!」
屍と化しながらもなお、この世への無念とウルドへの穢れた執着を糧に現世に止まり続けるおぞましき竜王が、この杭と縛鎖を通じて遠く離れた場所から竜の皇女を我がものとしようとしていたのだ。
「その歪んだ執着と恋慕、ともに断ち切るッ!」
縛鎖に囚われた竜の皇女と邪悪なる屍の竜王。
二者の間にアシュレは立ち塞がり、これに介入した。
それは《カウンター・スピン》の応用。
原理は単純だが、遠隔地から犠牲者に対して働き掛ける《フォーカス》を直接掴み、そこに己の《スピンドル》を流し込むことで支配の思念を妨害するというのは、言うほどに簡単なことではない。
第一にまず《フォーカスの護り》を潜り抜けなけばならぬ試練であり、さらにその後、本来の《フォーカス》の持ち主の《意志》と直接相対するという危険極まりない行為なのである。
だが、たとえそうであったとしても、やらなければならないとアシュレは感じていた。
己は地の底に潜みながらイズマと配下の蜘蛛をけしかけ、多勢に無勢で皇女を征服・陵辱しようとするスマウガルドの性根が我慢ならなかった。
もっとも邪悪な思念に抗おうとするウルドが、アシュレから伝達される《スピンドルのちから》を借りて竜の姿を取り戻すとは、さすがに予想できなかったわけだが。
おかげで昨夜、アシュレは幾度も死にそうな目にあった。
竜の姿を取り戻したウルドは、文字通り生ける暴風となって暴れ狂った。
擦るだけで即死確定の剣呑極まりない吐息攻撃から始まり、爪牙は鋼鉄製の刀剣より鋭くあらゆるものを切り裂く烈風、尾は掠めただけで岩を粉砕し、強靭な翼の羽ばたきは何度も騎士の肉体をゴミ屑のように吹き飛ばした。
これならば彼女の剣閃のほうが殺意の方向性がハッキリしていた分、ずいぶんとマシだとさえ思えた。
アシュレはウルドの意識と自由を取り戻すため、黒杭と縛鎖からの執拗な攻撃と送り込まれてくる竜王:スマウガルドの思念を妨害しながら、本能のまま暴れ狂うウルドからも身を守らなければならなかった。
シオンが間に入り致命的な落石や激突から救ってくれなかったら、あるいはアスカとレーヴのふたりが真騎士の乙女としての加護を垂れてくれていなかったら──アシュレはとっくの昔にこの世からおさらばしていただろう。
そうしながら、いったいどれほど闘っていたのか。
気がつけば星々の煌めきは空の彼方に遠のき、辺りは白み、ついに朝日が渓谷に差し込みはじめた。
その光のなか、ようやく黒き思念からひとときの自由を勝ち取れたのか、ウルドが身を横たえた。
限界を迎えた肉体が巨大な竜の姿を保てなくなり、美しい乙女の姿に変わる。
麻酔の助けなく外科手術を敢行しなければならなかった医者と患者のようにアシュレと竜の皇女は疲れ切り、いまや浅い濁流に身を任せていた。
負傷が多過ぎて、もはやどこが痛むのか判然としない。
全身打撲と擦り傷で泥まみれの汗まみれ。
滲んだ血が衣類を赤く染めている。
骨折がないのが不思議なくらいだ。
周囲には幾枚もウルドラグーンの肉体から剥落した鱗が突き立ち、朝日を浴びて光っていた。
身綺麗なのはシオンだけ。
しかし、その顔にもなんとか死地を退けたという安堵がある。
夜魔の姫をしてそう思わせるほどに、今宵の対決は危険極まりないものだったのだ。
このありさまを目のあたりにして死者も重傷者さえもいないなどとは、普通の人間では到底、信じられないだろう。
その程度には、渓谷に残された破壊の傷跡は凄まじかった。
欠けることもなく濁流に突き立ったウルドの愛刀だけが、なにごともなかったかのごとく澄んだ光をたたえている。
アシュレは思わず、すこし離れた場所で身を横たえる竜の皇女に話しかけていた。
「だいじょうぶかいウルド。どこか痛むかい?」
「ああ痛い、あちこちな。特に胸はずくずくと疼くように痛むぞ。だがこれは……この痛みは悪くない痛みだ。これまでとはまったく違う。痛むが、苦ではない」
思ったより元気そうな返事があった。
疲労はともかく耐えがたき苦痛や屈辱的な蹂躙からは彼女を救うことができたようだ。
「そう、よかった。今回はなんとか、スマウガルドの魔手は退けることに成功したんだな。一時的なものでしかないだろうけれど、とにかく良かったよ」
濁流から引き剥がすように身を起こしボロ布のように痛むカラダを引きずり、ウルドに歩み寄る。
すでに化身を解きヒトの姿となった彼女を抱き上げ、人心地着ける場所へ移してやりたかったのだ。
だがそんなアシュレの気配を察するや、ウルドは拒むように跳ね起きた。
身を翻すとしゃがみ込み、恥じらう生娘のようにアシュレに背を向け両腕で裸身を抱きしめる。
また刃で脅されるのかと思ったが、今回はそれはなかった。
なりふり構わず肌を隠そうとする仕草は、まるで人間の乙女のようだ。
これまでとまったく違う反応に、アシュレはただただ戸惑うしかない。
「ウルド?」
「く、来るな! いや来ないでくれ! 気安く我に触れるな!」
「どうしたの。なにかあったの?」
つい先ほどまで暴れ回るウルドに取りつき、幾度となく組み伏せてきたアシュレだ。
なにを言われているのか、すぐには理解できない。
初対面のとき裸身を隠そうともしなかった彼女とは別人のようだ。
差し出した手が宙に泳ぐ。
アシュレは混乱した。
彼女を抱き上げ楽にできる場まで連れて行くことは、騎士としてウルドに約束した救済の最後の仕上げだと考えていた。
先ほどまではウルドもそれを受け入れてくれていたのに、なぜ?
突然の拒絶に呆然となる。
「ボク、なにか気に障ることをしたかい?」
「そうではない、そうではないが! その頼む、後生だ──夜魔の姫よシオンザフィルよ、どうかそなたが! いまこの男を我に近寄らせないでくれ!」
訳がわからず立ち尽くしていると、後ろからゆっくりと歩み寄ったシオンに追い抜かれた。
その際、脇腹を肘で相当強めに小突かれる。
「どういうこと?!」
増えた打撲の痛みに涙が滲むのを感じながら、アシュレは女ふたりのやりとりを見ていることしかできなかった。
いつもお読みくださりありがとうございますー!
基本的に本作:燦然のソウルスピナは手元に原稿がある場合、平日の20:00時を目処に更新していっております。ですので明日明後日はお休みです。ご了承ください。
あ、あとなんか「いいねボタン(?)」みたいのが設置できるようになったらしいんで、さっそくONにしてみたんですが……どうなんだコレわ?
感想書くのしんどいなーみたいなときにポチッとしてもらえると、なんか作者のモチベアップに繋がるかも? てなわけでこちらもどうぞよろしくー!




