■第一六一夜:裏切りの土蜘蛛王
「貴様はイズマガルム! 小僧に気を取られているうちにむざむざ接近に許すとは──」
すばやく背後へと退きながら、竜の皇女が歯噛みした。
いまのやりとりで、この遭遇をアシュレの手引きと勘違いしてしまったらしい。
イズマの口上を真に受けたのだ。
それでは相手の思うツボなのだが、イズマを知らないウルドにそれは見抜けない。
対するイズマは、竜の皇女の怒りとも嘆きとも取れる叫びを冷然と受け流した。
「いやー、ここまでの追跡、思いのほか手間取ったワ。さっすがわ竜の皇女殿下、速え速え」
獲物であるウルドを持ち上げる余裕すら見せて笑う。
「蜘蛛の二匹目が組みついたときはキマったと思ったんだけど、あそこから逃げられるとわネ。でもまあ結果オーライ? いやあラッキラッキー」
ことさら幸運を強調してはいるが、あれは必然であり当然だと──つまり自分の実力のおかげだと──態度が示している。
「竜は徹底的に弱らせるのが狩りのコツなんですヨ。女のコとおんなじで先に足腰立たなくしてからが勝負。下手に余力が残ってるところで逆鱗に触れたりすると極大の吐息攻撃が来るから。そんなの喰らったら、ボクちんだって真っ黒焦げになっちゃうからネ?」
一転、挑発を隠そうともせずアゴを反らしてアシュレとウルドを見下ろす。
「竜皮の全身鎧でもありゃ別だけれど」
つい先ほどまでのアシュレとウルドの会話を、どこかで盗み聞きでもしていたのか。
いけしゃあしゃあと言い放つと、にんまりと笑顔を広げてみた。
こうやって口三味線で相手を煽り挑発するのは、土蜘蛛のお家芸だ。
彼らは戦いの前の舌戦で先に心理的優位を築いてしまう。
流れによればアシュレとウルドの分断を、決定的なものにすることだってできるだろう。
謀略と暗殺の──芸術──イズマはその天才だ。
乗ってはいけない、とアシュレは己を戒める。
が、竜の皇女はイズマの思惑に気がついた様子もなかった。
「キサマァッ!」
「いやいや怖い顔しないのよ、ウルドちゃん。おとなしくボクちんと行きましょ。美人に痛くするのボクちんは大好きなんだけど、なるべく無傷でというクライアントからのお達しでね? キレイなまんま、無垢な貴女のまんま連れて来いってのがオーダーでサ。なんという寛大なお沙汰でしょう。さあ、偉大なるスマウガルド陛下がお待ちですよ」
「ふざけるな! だれがそのような不遜な申し出を受けると思うか!」
イズマの口からスマウガルドの名が漏れた瞬間、びゅん、と風切り音が首筋を掠めるのをアシュレは聞いた。
ウルドが握った刃を振るったのだ。
いまのはタイミング的に首が落ちていても不思議ではなかった。
単に運が良かったか、ウルドが不意打ちを嫌ったか。
いずれにしても生きていたことにアシュレは神への感謝を捧げた。
ただその喜びを噛みしめる暇はない。
イズマのスマウガルドとの結託が事実であったと、いまのやりとりで明らかになった。
落胆とも怒りともつかない感情が胸中で渦を巻く。
そんなアシュレの思いを踏み躙るように、場面は加速度的に進んでいく。
敵対的態度を明らかにし提案を唾棄したウルドラグーンへと、イズマは冷笑を浴びせかけた。
「それね、そのセリフ。不埒な申し出ってヤツ? いかにも竜の皇女さまって感じだけれど、ボクちんの罠でフラフラになって蜘蛛に糸でがんじがらめにされたあげくに弱り切ってて言う? だいたい一度あなた陛下に負けたんじゃないの。それで胸にそんなステキなアクセサリーを埋め込んでもらったんじゃあないですか。竜の皇女としてもうすこし潔く負けを認めたら?」
イズマの指摘に、ウルドが胸の谷間に埋め込まれた不名誉な装身具を隠す。
彼女が初めて見せた恥じらいに、すうっ、と土蜘蛛の王は目を細めて見せた。
「これはッ。これは違う! わたしは万全でなかっただけだ。竜の精髄を奪われて本来の《ちから》が出せない。だから──」
「おやおやおやあ? 王のなかの王たる竜族が、敗北の言い訳です? まあいいけどね。あくまで抵抗するならこんどは完璧に蜘蛛の糸でからめ捕って、完全に心が折れるまで躾けてから陛下に献上するだけだし。無傷とはいかないかもだけど、抵抗が厳しかったと報告すればスマウガルド陛下もご納得戴けるでしょ。それと、」
土蜘蛛王の唇に酷薄な笑みが浮かぶ。
「土蜘蛛の調教術甘く見ないほうがいいよ。ボクちんこれでも何匹も竜を仕留めてきたし、その心の玩び方、砕き方も知り尽くしてるんだからネ? それにビビってんじゃん、すでに皇女さま?」
「────ッ」
嫌みたっぷりなイズマの物言いに、竜の皇女が沈黙した。
土蜘蛛王の言うところを理解し想像して、言葉を失ったのだ。
自らの膝ががくがくと震えていることに改めて気がつき、衝撃を受けていた。
ウルドラグーンは戦慄いていたのだ。
その身を黒杭に貫かれ縛鎖を打たれ、度重なる罠と襲撃に弱った竜の皇女はいま生まれて初めてその感情を知ったのだ。
竜族に比べるまでもなく弱き人間には、極めて親しみある感情。
つまり恐怖の名を。
「だからさ。ねえ、おとなしく陛下の慰み者になろうよ。そっちのほうがサ、なんというか楽だと思うヨ? 苦痛に耐えられないと思うなら、征服と蹂躙とを気持ちよく感じることができるようになるお薬とか、嫁入り前の事前準備とかいろいろお手伝いしますヨ? 屈辱的な格好とかイケない場所のほうが良くなっちゃう訓練とか、サービス扱いで」
下卑た口調でイズマが畳み掛け、ウルドの心を折りにかかる。
しかし、にたりにたりと下衆な笑みを浮かべて言うイズマにふたたび喰ってかかったのは、竜の皇女ではなかった。
「イズマッ! なぜこんなッ? なぜここにいるッ?! どうしてボクらを──裏切ったんだッ?!」
予期せぬところから投げかけられた詰問に、イズマは一瞬だが目を丸くして驚いて見せた。
言葉によるトドメを食らわせるべく身を乗り出したところに水を差されて、ぱちくり、と瞬きして見せた。
「ありま。アシュレくん居たんだったネ。そーだったそーだった。いやー、ホントお久しぶり。そして相変わらず性急だなあ。そんなにいっぺんに聞かれたら、混乱するじゃんね。どっから答えたらいいのサ。ボクちんにもいろいろあんのよ事情が」
アシュレの指弾にへらりへらりと笑って見せる。
極まりかけた竜の皇女への心理戦をどう仕切り直すか思案するように、アゴに手をやり首を捻る。
その態度にアシュレは激昂しかけた。
なにがいろいろな事情か。
弟とも任ずるアシュレにさえひとことも告げずに戦隊を去った男が、いきなり敵の手先になって現れて──言うに事欠いてそれか。
言い知れぬ怒りとイズマが無事だったことへの喜びという相反する感情に翻弄され、アシュレの心はぐちゃぐちゃだ。
それなのにイズマのほうは飄々と悪びれもせず視線の先で笑っている。
あげくの果てに質問が矢継ぎ早で混乱するなどと苦情を寄せてくる。
だれのせいなんだ。
悪態を吐きたかった。
そしてそんなヒトの騎士の視線の先で、まあそうだなあ、とまるで世間話でもするかのように土蜘蛛の男は夜空を見上げた。
月を見て、追憶するように目を細める。
「どうしてかってーとそうだなあ……着くならやっぱり強い御方の下にってこと? ボクちんたち土蜘蛛の言葉で言うなら『どうせ巻かれるなら長い蜘蛛の糸』ってことになんのかねえ」
あまりといえばあまりに安直で身も蓋もない回答。
アシュレは暴れ回る感情を噛み殺すように拳を握りしめた。
手のなかで竜槍:シヴニールとブランヴェルのグリップがギリリッ、と音を立てる。
「それはスマウガルドが──屍となりし竜の王がそれだけ強いってことなのか。それだけか? それだけなのか?」
「屍の……へえさすがだそこまでもう調べたんだね。けっこうけっこう」
アシュレの受け答えに、満足げにイズマは頷いた。
まだまだと思っていた若者が見せた手回しの良さに、感心しているのは本当のようだった。
もちろんいつもの道化役者がごとき態度のせいで、それすら本心であるのかないのか判別できないのだが。
諭すように続ける。
「じゃーもーわかるっしょ。あの方にはボクちんたちが束になっても勝てないヨ。でもさあ、あれでいて意外と話せるわけ、陛下は。協力すれば臣下として覇業のおこぼれをくださるって、ボクちんに約束してくれたんだネ。おこぼれってのは具体的には酒池肉林。なにしろあの方がいまのところご興味あるのはそのお嬢さん──愛しくも憎々しいウルドラグーン皇女殿下おひとりだけなんでね?」
「おこぼれって……酒池肉林って、イズマそんな」
種族の差を超え兄とすら感じていた男のあまりにも矮小な《ねがい》の吐露に、アシュレは幻滅を感じていた。
そんなはずがない、と反論が喉まで出かかる。
そんな若き騎士の信頼を、うざったいものを見るように土蜘蛛の王は侮蔑の眼差しで笑い飛ばす。
「だってさー、キミらといても美味しいとこひとっつもないわけヨ。姫はつれないし、そのほかの女性陣はなんかアシュレくんびいきだし。真騎士の乙女ちゃんたちつまみ食いしようとしたら怒られるし……。エレとエルマだけじゃボクちん満足できないできない! もっと征服したいわけ!」
そんなときスマウガルド陛下と出会ったんですよヨ、ボクちんは!
突如として嘘臭いほど輝く前向きな笑顔になって、イズマが右拳を突き上げた。
「いっしょに世界の美女を征服しまくりマショー、って持ちかけたらオッケイしてくれてね? いやー、話がわかる陛下、マジ万歳!」
「ウソだ、嘘だと言ってくれイズマ! あなたはそんなヒトじゃない!」
あまりのショックに顔面蒼白となり叫ぶアシュレに、イズマが向けたのは冷笑だった。
「いやいやアシュレくん、キミがボクちんのナニを知ってんのサ。勝手にヒトの人格を自分のなかで捏造しない。神格化しない。これが──正真正銘ボクちんの本心なんですヨ?」
否定したい気持ちで苦しくなるほど胸が詰まり、アシュレは歯ぎしりした。
そんなヒトの騎士を、わがままな弟を見るような眼差しでイズマは見下ろす。
「そんなに信じたくないなら、見せたげるよ。ボクちんの忠誠の証を物理でさ。さあこの傀儡針を見てごらん?」
言いながらイズマは胸をそびやかす。
その肉体に潜航していた魔性の具が、ゆっくりと浮かび上がってきた。
《スピンドル》の回転を帯びた傀儡針──対象の身体の自由を奪い思うがままに隷下とする魔の《フォーカス》はたしかにイズマの身の内に息づいていた。
「本当なのか、本物なのかッ?! いつもの幻じゃないのか。まさかまさか、嘘だと言ってくれッ──イズマッ!」
「なんだい、泣いてんのかいアシュレくん。しょうがないなー、じゃあキミもこっちにおいでよ。陛下にはボクちんがよろしく言っておくからさ。それで戦隊のみんなも連れといで。一緒に酒池肉林しよう!」
ぺらぺらの紙のような軽薄さでイズマが計画を持ちかけた。
もちろん検討の余地など、どこにもない。
アシュレは頭を振って全否定する。
いつのまにか自分が泣いていることに、それでやっと気がついた。
「ホントなのか、ホントにそれがイズマの本性、本心なのかッ?!」
「それを本人以外がどうやってわかるんだって話だよ、キミィ」
込み上げる怒りとも悲しみともつかない想いに感情を爆発させるアシュレを、イズマはつまらないものを見るかのように評し、アゴをしゃくって見せた。
「じゃあ時間がないからまとめるけど、アシュレくんは、ボクちんとは来ないってわけね」
「行かないッ。行くわけがないッ!」
「あらら。まあそりゃしょうがないか。じゃあウルドラグーン殿下、参りましょ。ボクちんも陛下から仰せつかってるお仕事は殿下の身柄の確保だけなんで、いまのところは、ネ」
言いながらイズマが宙に指を踊らせる。
するといままで忠実な猟犬のようにかたわらに控えていた蜘蛛たちが、一斉に蠢きはじめた。
その眼前に、アシュレは盾を構え槍を携えて立ち塞がる。
油断なく刃を構えた竜の皇女の前に、これを護るように進み出る。
「キサマ──なにをッ?! どういう魂胆だ?!」
驚いたのはウルドラグーンだった。
はじめはアシュレをイズマの手先と考えていた彼女も、一連のやりとりで様子がおかしいことに気がついたらしい。
もちろんそれはこの人間の騎士を味方と認識したという話では、ない。
ただ、この男がすくなくともイズマの手先ではなく、自分の欲望のために自らの仲間を売り渡すような下衆でないことだけは感じ取ったというだけのことだ。
そこにアシュレは彼女を守るべく進み出たのだ。
これをどう捉えたら良いのか、竜の皇女にはわからなかった。
敵か、味方か、いやさらに手の込んだ策略なのか?
しかし背後からウルドからぶつけられる不信と困惑とが入り交じった視線にさえ、ヒトの騎士は意に介さなかった。
信じられていないなら、信じられると背中で示すだけだ。
結果、背中から彼女に一撃されたとしたら、自分はそこまでの人間でしかなかっただけのことだ。
そう覚悟を決めていた。
そしてそれは、イズマに対する意思表示でもある。
絶対に彼女を渡さない、という。
「ウルド、信じてくれとは言わない。だけど、この事件はボクたちの責任でもある。イズマはボクたちの仲間だった──いやいまでも大事な仲間だ。彼の豹変には必ず理由がある。あるはずなんだ。ボクはその謎を解き明かして彼を引き戻す。そのためにスマウガルドを打ち倒す。だから……」
一瞬だけ竜の皇女を振り向いて、アシュレは言った。
「キミを助けさせてくれ、ボクに」
「キサマ……」
竜の皇女がその瞳に揺るぎなき至誠を見出すのと、土蜘蛛王が仕掛けるのは同時だった。
「アシュレくんにはなんども教えたはずだけどねえ──戦場で敵から目を逸らすなッ!」
びょう、と渓谷の闇を切り裂いて銀色の糸の奔流が、アシュレと竜の皇女目がけて迸り出る。
幽滅の縛鎖。
存在の本質に絡みつき、その自由を奪いその精神と肉体に激烈な苦悶と苦痛を与える束縛系異能の最高峰。
これを防ぐ手立てはアシュレたちにはない。
物理攻撃ではなく存在の本質に迫る異能:幽滅の縛鎖は、他の呪術系攻撃同様、聖盾:ブランヴェルもそれが展開する不可視の力場も擦り抜けてくる。
もちろん物理攻撃でない以上、竜槍:シヴニールで迎撃することもできない。
唯一逃れる可能性は、その異能の行使と同時に使用者であるイズマを撃ち抜き仕留めることだけだったが、アシュレはその決定的瞬間を見逃してしまっていた。
いや、たとえそのタイミングを捉えていても、彼にイズマを撃つことなどできなかったのだが。
「それが甘いってんだよ小僧──アシュレくん」
若き騎士の逡巡を土蜘蛛王が皮肉ったその瞬間────。
ふたりを護るように白銀の一閃が頭上を駆け抜けた。
一拍遅れて青白く燃えるバラの花弁が舞い上がり、清々しい薫りが世界に満ちる。
迫り来る幽滅の縛鎖の奔流を、青白き刃の群舞がことごとく撃ち墜していく。
アシュレにはそれだけで、なにが起ったのかわかった。
光り輝く花弁の深奥に、その姫君は立っていたからだ。




