■第一五四夜:魔導書(グリモア)の再試行
魔導書に記されていたイズマの行いを──アシュレは追憶する。
場面は死せる竜王との遭遇から始まる。
イズマはすぐに降伏と恭順の意を示した。
それを証立てる品として傀儡針を差し出す。
鮮やか過ぎる転身が、竜王の腐れ落ちた頭蓋のなかにまだ残っていた自尊心をくすぐったのだろうか、イズマの降伏は受け入れる。
傀儡針は速やかに献上される。
それを持ってスマウガルドはイズマの忠誠を信じた。
そして、受け取った傀儡針を即座にイズマへと振るった。
言葉だけでみ、品物だけでもなく、その心身の支配をもっての忠誠を迫ったわけだ。
──アシュレが覗き見たのは、ほとんどそこまでだ。
それ以上はあの場に滞在することすら難しかった。
イズマが傀儡針を受け入れ、邪悪なる屍の竜王:スマウガルドの軍門に下ったことに衝撃を受けてしまったことも確かに一因としてはある。
だが、アシュレが速やかな撤退を決めたのは別の理由が主だった。
スノウの心と身体が、もはや限界を迎えていた。
オーバーロードであった本家の魔導書:ビブロ・ヴァレリヴァレリとスノウは違う。
その《ちから》を受け継いだとはいえ、彼女自身はまだ成人を迎えたばかりの半夜魔の娘に過ぎない。
心身が長時間の履歴閲覧には耐えられなかったのだ。
だから履歴の閲覧を解除してしまった。
だが──もしかしたらあのとき、スマウガルドは傀儡針を用いてイズマになにごとか命じていたのかもしれない。
そうなると話は途端に厄介になる。
傀儡針を介する命令は《スピンドル》と《フォーカス》を用い、内心を通じて行われる伝達だ。
言葉による指令と違い、具体的な内容を魔導書の記述に残さない。
そして、魔導書:ビブロ・ヴァレリは内心を読む道具ではない。
その権能を用いて調べることができるのは、あくまで外界から観測可能な現象に限られる。
密会を覗き見た密偵が、言葉を交わす両者の心のありようまでは見透かせないのと同じなのだ。
あるいは古き竜王:スマウガルドがビブロ・ヴァレリやそれに類する魔具の存在を熟知していて、あらかじめ言葉を用いぬ強制をイズマに強いた可能性は否定できない。
彼の竜王が、空中庭園のそこかしこに残した後ろ暗い装置の数々を見るに、あながちないとは言えないことだ。
だとすればアシュレとスノウがふたりのやりとりを見逃したのではない可能性がある。
そもそも過去を覗き見ることでは閲覧できない種類の命令だったのかもしれない。
そう、相手は古代種。
どんな知識をその身に溜め込んでいるか、知れたものではない。
こちらが用いる超常的捜査への対策をあらかじめ備えていても、なんら不思議はない。
たしかに、とアシュレは記憶のなかにある最後の場面を思い出しながら、うめいた。
「たしかに。たしかにあのときすでにイズマは、スマウガルドからなにがしかの使命を受けていたのかもしれない。その指示が言語を介さぬ──傀儡針を使った強制だったとしたなら、それは外部化され観測可能な事象ではない。内心から内心への伝達はビブロ・ヴァレリの記述の範囲適用外。その場合、ボクらには命令の内容は謎のままだものな」
あるいは、
「あるいはもっと別の場面でそれは伝達されていたのか? いや、それじゃあイズマの行動の辻褄が合わなくなる。どうしてイズマは龍穴の地上部分、つまりいまボクらがいるこの温泉地帯をウロウロしてるんだ? おかしいじゃないか。やはりスマウガルドの命令は、あのとき下されていたとしか考えられない」
あとはもう本人に直接問いただすしか、方法はなくなる。
行き詰まった思考に、思わず極端な思いつきが口をつく。
「もう一度あの場面を閲覧して、傀儡針を使うところに注目してたらなにか掴めるかもしれないけれど……」
だが思いを口にするアシュレの口調には、否定的なニュアンスが滲んでいた。
魔導書の《ちから》を開放したときの、スノウの窮状が脳裏に鮮やかに甦った。
あのときスノウがアシュレに厳しく隷属を誓わせるよう、さらに厳しく罰して躾けるよう求めたのは愛欲に駆られたからでは断じてない。
それに関してはシオンの完全なる勘違いだ。
暴走しかけた魔導書の《ちから》が、スノウの存在を幾度となく危うくしたのだ。
屍の王と化したスマウガルドが放つ邪悪な瘴気のオーラに少女の心は圧倒され、千々に乱れ、魔導書としての本能が囁く冥府魔道への誘いは暴走して、精神と肉体を蝕む現実の《ちから》として抗いがたい猛威を振るった。
これこそ他者の過去を覗く者が支払う真の代償。
まだ成人を迎えたとはいえ十代の少女に過ぎないスノウは、危うくそれに呑まれ人理を踏み外すところだった。
アシュレはそのたびに《スピンドル》で彼女を深く貫いて、こちらへ呼び戻さなければならなかった。
もう一度、同じく魔導書の《ちから》の行使を試みるということは、あの危険な領域へスノウをふたたび放り込むということでもある。
だめだだめだ、アシュレはかぶりを振って短絡的な己のアイディアを吹き飛ばした。
「魔導書の使用と追体験は激しく体力を使う。強大な存在の履歴を読み解こうとすることは、スノウを危険にさらすことなんだ。あの場面の圧は異常だ。長く留まって思考を巡らすことも、繰り返し読み返すことも難しい。実際この間も、かなり際どかった」
なぜって、それは。
「なぜってそれはイズマが体験したスマウガルドとの遭遇を、スノウの内部で何度も再現するような試みだからだ。オーバーロードを前にしたときの心身の損耗を何度も強いられるようなものだ。あんなのを何度も繰り返してたら──心臓も精神も保たない。ダメだ」
強い口調で否定する。
もうすこし自分が注意深ければ、という悔いがアシュレにはあった。
「でも……イズマが屍の竜王になにを命じられたか、か。それはホントに盲点だったな」
「あの……ご主人さま──」
おずおずとスノウが歩み出たのはそのときだった。
「わたしなら、大丈夫です。もう一回、試みましょう。それでイズマがいまなにを目的にしているのか分かれば、大幅に時間や思考思索の手間を短縮できるのでしょ?」
「スノウ?! いや、ダメだダメだ。キミはもっと自分を大事にしなくちゃ。あんなことを繰り返していたら心が壊れてしまう! 本物の魔導書になってしまうんだぞッ?!」
衝撃的な体験を思い出し、アシュレはスノウの肩を掴んだ。
あの場面ではアシュレですら自分を見失いかけたのだ。
それをもう一度などと、危険過ぎる。
「でも、わたしわたし……騎士さまのお役に立ちたい、です!」
切実に訴えかけるような瞳で魔導書の娘は騎士を見上げる。
まっすぐなまなざしがアシュレを貫いた。
「だからって……スノウ、ダメだ。キミがおかしくなってしまうかもしれないんだぞ。とても許可できない」
「騎士さまにだったら、おかしくされたり壊されていいです。それに、そうならないように必死で呼び戻してくださったじゃないですか。今回だってきっと──」
「バカなことを言うんじゃない!」
思わず怒鳴ってしまってから、アシュレは己を恥じた。
平手打ちを放つのを止められたのは彼女への愛ゆえだが、相当に自制心を試された。
スノウは下唇を噛みしめ、両手を握り拳にしてにらみ返してくる。
たとえアシュレに殴られても引かない、とその目が言っていた。
なんて強情なお嬢さんだ。
アシュレは内心、呆れ返るしかない。
どうしてここまで想ってくれるんだ。
胸が苦しくなる。
「アシュレ、そなた。ここまで我が義妹が覚悟を固めたのだ。もう一度だけ試してみてはどうか。今度はわたしも同席しようほどに」
なんということか。
呆れ果てたことに、今度はシオンが宝冠:アステラスを被り直しながら提案した。
「シオンまで……ちょっとまってくれ。あれは洒落になってない異能であり体験だ。半端なことじゃないんだぞ」
「だからこそ、よ。言っておくが、この進言、決して姉妹の情からではないぞ。精神を護るアステラスを頂いたわたしであれば、冷静に件の箇所を体験できる。そして夜魔の完全記憶を用いれば、何度でも閲覧し直せるわ。さすればスノウの負担も和らぐというもの。違うか?」
腕組みをして胸をそびやかす夜魔の姫相手に二の句が継げなくなり、アシュレは立ち尽くした。
たしかにシオンの提案は理にかなっている。
魔導書の《ちから》を使うなら、そしてスノウをいたわるなら、これ以上ない極めて有効な方策だった。
だが──。
アシュレは無言で視線を夜魔の姫の妹に向けた。
スノウの意志はスノウに問うしかない。
もちろんアシュレ自身は魔導書の再使用には否定的だ。
魔導書の《ちから》の開放は、すなわちスノウの内心の暴露でもある。
目的の頁に辿り着くためにはアシュレがその手で、彼女の心のひだそのものである紙面をめくり返さなければならない。
スノウとってそれは、自分のなかでもっとも敏感な場所を摘まれたりめくられたりする行為なのだ。
目的であるイズマの記述へ辿り着くには、スノウ自身の秘密やアシュレへの恋慕を記した膨大な量の頁を経由しなければならない。
オーバーロードであり《フォーカス》そのものであった原種のビブロ・ヴァレリであれば目的の箇所に一瞬で辿り着けるこのプロセスを、融合というカタチで魔導書の《ちから》を受け継いでしまったスノウは省略できない。
それはなんというか真性の魔導書であるビブロ・ヴァレリと、その能力を裏技めいたやり方で掠め取った小生意気な半夜魔の娘との間にある埋めようのない《ちから》の差であり、ヒトの暗部を記し続けてきた邪悪な書籍が彼女に残した呪いだ。
己の恥部を主人たるアシュレにことあるごとに垣間見せなければ、真の《ちから》を発揮できない肉体にスノウはなってしまった。
それだけでも耐えがたい恥辱なのに、今回はそこにシオンが同席するという。
必要に駆られてのこととはいえ、まだその心は成人したばかりの少女に過ぎないスノウにとって乗り越えがたい心理障壁であるのは、間違いないはずだった。
事実、魔導書の娘は先ほどの姿勢のままうつむいて、真っ赤になって、呼吸も速く荒くなっているのが丸わかりだった。
耳どころか首筋まで朱に染まり、白くなるまで握りしめた拳はぶるぶると震えている。
「やっぱりよそう、スノウ。キミが心配だ。こんなに短期間で二度目を試してはいけない」
「シオン姉に見せるの死ぬほど恥ずかしいけど……でも────やるし。やりますし。やってやるし」
うつむいたまま唸るように言うスノウの姿に、アシュレはこの娘さんの本性を見た気がした。
シオンと言えば腕組みのまま、妹の覚悟に感心したように大きく頷いた。
それでこそだぞ、となぜか誇らしげだ。
ドン、とアシュレの肩を叩いて押してくる。
「我が妹殿はやる気らしい。なにをしている黒騎士:アシュレ。乙女の決意を受け止めてやるのも騎士の度量だろう?」
なぜこの姉はそんなに妹を煽るのか。
アシュレは非難の籠った眼差しでシオンを睨んだ。
ふふん、とシオンは涼しい顔だ。
「スノウはそなたの役に立ちたくてたまらないのだ。察してやれ」
「さっき姉妹の情からじゃないって言ったのはキミだぞ、シオン。なんて無責任な姉だ!」
珍しくアシュレはシオンを糾弾した。
だが、夜魔の姫の態度は変わらない。
「わたしでは、その強情な妹殿の責任は取れん。取ってやれん。その責任をそなたが取るから、この猪乙女は信じて突撃するのだ。いじらしいではないか、かわいいではないか」
「魔導書の《ちから》の開放は遊びじゃないんだぞ」
「なればこそ。イズマの過去を洗うだけでこれほど難儀するのだ。この先、“再誕の聖母”を相手取るならこんなものでは済むまい。いまのうちに充分に慣らし、慣れておけ。そしてわたしにも慣れさせろ。一度体験すれば、反復して夜魔は学習する。スノウも上手になる。この経験は必要悪だ」
アシュレとしては戦友とも(たちは悪いが)兄とも慕うイズマの過去を一度のみならず二度までも覗くのは心の禁忌に触れるところだし、その代償にスノウが陥る危機的状態を知るだけに葛藤は免れないのだが──“再誕の聖母”の名を出されては承諾するよりない。
シオンの提案がいまこのときだけではなく、これから先、アシュレたち戦隊が立ち向かう未来をも見据えたものだとわかったからだ。
そう遠くない未来、“再誕の聖母”の足跡を探る諜報戦において、夜魔の姫はこの布陣で臨もうと言っているのだ。
これはその予行演習だとも。
たしか初体験の際、同じことをスノウにも言われた。
まったく違っているようでいて、このふたりの考えはどこか根底で繋がっているとでもいうのか。
まるで本当の姉妹になってしまったようだと、アシュレは思った。
そしてその姉にも妹にもここまで想ってもらっている自分というのは、なんとも罪深く責任重大なんだ。
双肩に託されたものの重さを改めて感じ、アシュレは男としての恐懼と騎士としての冥利に震えた。
額に手を当ててうつむき、何度も首を横に振ってからアシュレはようやく了承をふたりに告げる。
葛藤は相当なものだったが、悩んでばかりもいられない。
それにスノウからの志願は、アシュレに向けられた彼女の信頼の証でもある。
「やってみよう」
ほかに方策があるわけでなし。
苦り切った口調でだったが、アシュレはこの作戦を承認した。
それを受け覚悟を決めたスノウが、静かに衣類を脱いでいく。
素肌でなければ魔導書の《ちから》は使えないからだ。
羞恥で朱に染まり、恐懼に震える白い肌が夕映えに輝く。
なるべくその過程を見ずに済むように、周囲を見張るフリをしてアシュレはため息をついた。
明日明後日は連載お休みです。
24日(月)からまた平日毎日更新する予定です。
どうぞよろしく!
あ、あとなんか第一五一夜:竜の楽園の後書きに書き加えました。
カットした推敲前の「お砂糖甘いシーン」です。
もしご興味があれば。
この男はどうやってどんな推敲作業してんのかな、みたいな?




