■第一四七夜:魔導書(グリモア)の調律
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魔導書:ビブロ・ヴァレリによる土蜘蛛王の追跡は、アシュレとスノウ、ふたりきりの場で行われた。
場所は宮殿という呼称がすっかり定着した竜王の居城の一室。
間に小さな一室を挟む二重扉の奥で。
『シオン姉、どうか今日だけはお願い。アシュレさまとふたりっきりにさせて。この《ちから》をご主人さまと使うの初めてだし。最初だけ、初めてだけは騎士さまとふたりっきりにさせて。メチャクチャ意識しちゃうし……シオン姉その内容を全部覚えちゃうでしょ? めちゃくちゃになっちゃうところ姉に見られたら──一生記憶されてしまったら死んじゃいたくなるから!』
義妹からの涙ながらの訴えを、夜魔の姫は仕方ないなとため息しつつも受け入れた。
本来であれば緊急事態に備えて聖剣:ローズ・アブソリュートとともに同伴すべきなのだが、今回ばかりは事情が事情だ。
スノウの懇願は、断られたら舌を噛み切る勢いで真剣だった。
無理もない。
女性の口から自らを道具として扱って欲しいなどと申し出るのは、とんでもない勇気を必要としたはずだ。
基本的に素肌を恥じない純血の夜魔であるシオンならともかく、半夜魔とはいえ厳格なアガナイヤ正教=イクス教徒の娘として己を律してきたスノウにとっては、正しい男女間の愛であっても女性の側から行為を求めることは禁忌に触れる。
女が自ら男を誘う行為は、淫売のものと見做されていた時代だ。
ましてや道具としてなどと──それは進んで背徳的玩弄を申し出るに等しい。
本室と入口の間に配された待合室へと、いざというときのため武装して待機するシオンが姿を消すのを確認して、スノウは大きくため息をついた。
「同じベッドで姉に見張られながらとか、絶対無理だし」
普段着としてシオンから借り受けた町娘の衣装を両手で握りしめ、緊張を隠せない様子でスノウがひとりごちた。
サイズが合わず胸囲や胴回りがキツいのか、頻繁に着付けを直す。
アシュレとは視線を合わせようともしない。
暖炉の炎を照り返すエメラルド色の瞳が、床の上で踊る灯影を追うようにせわしなく左右に振れる。
「スノウ──それじゃあ、そろそろはじめようか」
「ひやっ。ついに来た。来るべきものがっ。いえあ、あのその。そのまえにすこしお話しませんか。あっ、ワイン用意してきたんですよ。ど、どうですか? こう、こころの準備がですね? こういうのは大事だから?」
アシュレ的にはそんな必要はなかったのだが、ガチガチに緊張してしまっているスノウを見るにつけ、たしかにすこしは緊張ををほぐしてあげたほうがいいかもしれないと思った。
なにしろ正式な意味で「スノウを使う」のは、アシュレもこれが初めてなのだ。
これまで幾多の《フォーカス》を組み敷き主として認めさせてきた経験から遅れを取るつもりは毛頭なかったが、当の魔導書本人=スノウがこの様子ではどんなハプニングが起るかわからない。
平常心のままでいればなんともないことでも、入れ込み過ぎた競走馬のように鼻息も荒いままで臨めば、とんでもない失敗に発展する可能性がある。
使う側のアシュレからすればある意味慣れたものだが、そこが難しいところだ。
なにしろ相手は《フォーカス》でありつつ過剰なほどの自意識を持つ娘さんでもあるスノウなのだ。
その立場から見れば、これは初夜とも言える儀式──と言えなくもない。
手綱を握る自分がしっかりとリードして成功に導かなければ、彼女の心に一生消えない傷を残してしまう。
そう思うと責任重大だな。
アシュレは己の役割を再確認した。
「と、ところでっ。ご主人さまは、わ、わ、わ、わたしのことどんなふうに想ってくださっているんでしょう?!」
自ら進めたワインを飲むヒマもあらばこそ、ものすごい勢いでスノウが突撃インタビューを敢行した。
率直と言うにも直球過ぎる問いかけだ。
まさかここで、そのような質問が来るとは予想もせずいたアシュレは、赤ワインで盛大にむせた。
「がはっ、ぐほっげほっ。い、いきなりなんだい?」
「だ、だって。そのなんというか。従者としての評価は聞いたことある気がするのですが、そのっあのっひとりの女子としてのそれをまだ聞いたことがないっていうかっ」
いっぱいいっぱいという感じで食い下がってくるスノウを見つめて、アシュレは息をついた。
たしかに、と思い直す。
シオンのときもアスカのときもそうだったが、自分たちはいつも切羽詰まって追いつめられたとろでしか関係を結べてこれなかった。
それはどうしようもない必然であったとはいえ、正しい男女の始め方としては逸脱が過ぎていたのも事実だ。
まだ互いの好意を確かめ合っても許してもいない女のコの心のなかを覗いたり、あまつさえ秘密の記された敏感なひだをめくり返したり……。
世界の規矩の裏側を歩む者である以上、世間の常識に囚われる必要は必ずしもないかもしれないが、それとこれとは話が別だ。
「たしかに、ボクはキチンとボクの想いをキミに告白してさえいない」
アシュレは呟いた。
スノウの言う通りだ。
反省する。
「そうだね、キミの言う通りだ。ボクは手順をちゃんと踏んでいない。いなかった。謝罪するよスノウ、スノウメルテ、許して欲しい」
「ゆ、ゆゆ、許すとかっ。そんなそんな大それたことをご主人さまに言ってるんじゃなくて、ですね? わたしのことどう想ってくださっているのか、それだけそれだけ教えてください! それさえあれば、わたし、ちゃんと自分を保って見せますから。その想いを支えにがんばれますから!」
焦り丸出しの表情でスノウが両手を振った。
追いつめられているという意味では彼女は今日も変わりがないのだと、アシュレはさらに理解に及んだ。
成人したばかりの娘が、己が肉体を道具として男に身を任せるというのは、それだけの覚悟が必要なのだ。
これは決して軽んじてよい話ではない。
了解し、アシュレは胸の内を正直に話すことにした。
「そうだな……ちょっと長いけれどかまわない?」
「はひっ。いえ、はい! わ、わたしもそのほうが助かります。わたしの心は……どころか秘密まで騎士さまにはもう全部知られちゃってますけど……。その、騎士さまのことはわたしまだ全然知らないっていうか。いえちょっとは覗き見しましたけど。ハッ、そうだったその秘密までぜんぶ見られたんだった。わー、わわわー、うわーッ!!」
ひとりで頭を抱え加速度的にパニックに陥っていくスノウを、アシュレは落ち着かせなければならなかった。
「落ち着いて、落ち着いてスノウ! どうどう。大丈夫、大丈夫だよ」
「見られたんだった。見せちゃったんだった。イケない秘密まで盛りだくさんの山盛りでお渡したんだったッ?! わたしわたしわたし────オアアアアアアアア!! あのときのわたし、なんであんなことしたんだーッ?! ここここころせーッ、ころせーッ、ころしてくれーッ!!」
つい先日までのバラの神殿での記憶に苛まされているのだろう。
スノウの錯乱は留まるところを知らなかった。
無理もない。
あれは愛の告白であると同時に、覗き見と秘めごとの子細まで相手に送り付ける一種の自爆攻撃だった。
いわゆる性癖爆弾である(?)。
まあそれが胸を締め上げるほどに切実で鮮烈で苛烈と言えるほどに美しかったからこそ、“理想郷の王”でさえ魅了することができたのだが……。
「落ち着いて落ち着いて、スノウ」
「あんなっ、あんな破廉恥行為を繰り返してきた女を、いまさら騎士さまが愛してくれるはずないんだッ。わたしは汚れた恥知らずな女なんだっ! いくら追いつめられてたからって自分の淫らな願望のバリエーションなんか送り付けてッ! さらには覗き見までしてたことまでッ! オマエはストーカーかっ! ハイ、わたしが騎士さまのストーカーです! オマエは痴女かっ。ハイッ、わたしが痴女ですッ! ええいころせ、ころせ、ころせーえええええい!!」
ワインどころの騒ぎではない。
ムードがどうとか以前の話で、スノウがベッドを転げ回るのをアシュレは呆然と見守るしかない。
「うわああああ、失敗この作戦失敗ですううう! 人選にそもそもの人選に誤りがあががが!!」
ただアシュレはスノウが恥じ入る姿を、なぜか愛しいと感じてしまう。
だから正直に言葉にした。
「そう、かな。ボクはかわいいと思ったケド。すごく胸に迫ったし」
「そうでしょ、そうですよね、呆れましたよね幻滅しましたよね破滅ですよねッ?! ……って、えっ?! いま……なんと」
「いや、ほんとにかわいいなと。ボクのこと想ってあんなふうになっちゃってたわけで。いまもそうでしょう? そこまで想ってくれてるのかって。狂おしく苦しいくらいに……なってしまうのかって。それはなんていうか男冥利に尽きるというか。愛し過ぎる、というか」
ふぐっ、と喉を鳴らしてスノウが飛び退いた。
一瞬前までアシュレの両腕を掴んで殺せ殺せと泣きわめいていたのに、涙は一瞬で止まっていた。
驚愕と奇異なものを見るかのような、疑いとでもそれを信じたいという気持ちがないまぜになった緑色の瞳が、アシュレを凝視していた。
「なんで飛び退くの?! そんなに驚くことッ?」
「うそだうそだうそだーッ、騎士さまは嘘を言っています! だって仮にも元聖騎士だった騎士さまが、あんな大淫婦みたいな本性を隠し持ってるわたしみたいな女をかわいいだなんて言うはずがないっ! わかった、憐れみですねッ?! 憐れんでいらっしゃるんですね?! わたしを、こんな女をかわいそうだからって!」
「スノウ、それは──それだけはない。キミはかわいい。そしてボクはあの告白にやられてしまったんだ」
「うそうそうそうそうそうそうそ、嘘です────ッ!!」
頑なにアシュレの本心を否定しようとするスノウに、アシュレは眉根を吊り上げた。
「ボクは憐れみから女性を愛さないし、手をつけたりもしない」
「嘘、うそうそうそ!」
カチン、と来たのはアシュレが話していたのが本心だったからだ。
「怒るよ、これ以上キミがキミ自身を貶めたら」
静かに言った。
言葉は囁くように小さかったがその口調は断固として、だからこそ伝わった。
錯乱に近かったスノウの目元と口元から、スルスルと強張りが溶けた。
瞳だけがまだ、信じられないという様子で揺れる。
「じゃあ、じゃあ……もしかして、ちゃんとわたし想ってもらってるってことです、か? 憐れみとかじゃなくて? し、信じられない……信じられないですっ!」
「その話をしたいんだけどな。ボクがキミを最初どう思っていて、そこからどうしてこんな気持ちにいまなっているのかを」
真剣に言うアシュレの視線の先で、ボンッと湯気が出るほど赤面したスノウがそっぽを向いた。
思い出したようにゴブレットの赤ワインをがぶりがぶり、と飲む。
完全にヤケ酒のピッチだ。
アシュレが止める間もない。
大ぶりなゴブレットを喉を鳴らして飲み干すや、口元に垂れる赤い滴りを拭うヒマもあればこそ手酌で藁カゴに包まれた大きな素焼きの瓶を捥ぎ取り、ざぶりざぶりと注いだ。
それを見た瞬間、アシュレの手は制止に動いていた。
アシュレの生まれ育ったイダレイア半島でも年齢で飲酒を禁ずる法はないが、こんな飲み方はよくない。
彼女の身体が心配だった。
その腕を握る。
びくりっ、と手首を掴まれたスノウのカラダが垂直に跳ねる。
アシュレはもう彼女を逃がすつもりはなかった。
「ボクから──ボクの想いから、お酒なんかで逃げないで欲しい」
そう告げるとスノウの黒髪の奥で、宝石のように濡れて輝く瞳がそのままこぼれ落ちそうなほど大きく見開かれた。
一瞬の後、眼差しが覚悟を決めたように閉じられて、震える首筋がアシュレへと差し出される。
観念した子鹿のように、スノウが震える肉体を任せてくる。
騎士は、己が領有すべき肌に、そっと唇を這わせる。
新雪を思わせる白い肌は、すでに朱に染まっている。
声にならない小さな吐息が、魔導書娘の唇から漏れた。
さてここまで連続更新し続けて来たソウルスピナですが、明日の更新につきまして、一回お休みを頂こうかなと考えています。
今回相当にお砂糖甘い仕上げにしたのですが、そのあとを受ける次話も同じく甘い調子だったので……ちょっと調整して趣向を変えたくなってしまいました。
原稿はまだまだストックがあるのですが、より快適というか面白いお話を読んで頂きたいので明日の更新はすこし待ってもらえたらと思います(更新するかもしれませんけれどもw)。




