■第一三六夜:玉座の簒奪者
「アシュレッ?!」
慌てて止めようとしたシオンは、足下にすがりついてくる美姫の顔を持つ人犬に、その歩みを阻まれた。
蹴散らすのは簡単だったが、シオンをしてたじろかせたのはその顔にある自分自身の因子だった。
淫蕩に理性を蕩けさせた雌犬の顔。
自らとそっくりな美しい造形が、堕ちた自分の素顔を映し出していた。
鏡を覗き込んだ瞬間、淫婦と成り果てた己を見出してしまったようで、言葉を失う。
うっ、とうめいて後退る。
その後ろに続く、同じく快楽に溺れきった見知った顔たちに気圧されたのだ。
そして、肝心のアシュレと言えば、フラフラとまるで洗脳でもされたかのようにエクセリオスの下へと、玉座へと向かって歩んでいく。
その手から、がらり、と重いシールドが滑り落ち跳ねて、クワヮンと独特の音を立てた。
「そうだ。いいぞアシュレダウ。そうだ、来い、来るのだ」
絶望の大君が呼んでいた。
これがシナリオの強制力なのか。
抗う様子さえアシュレの背中からは感じられない。
その間にもシオンは人犬たちに囲まれてしまう。
彼女らに害意はない。
むしろ懐かれている。
いや、彼女たちはシオンも同類だと思っているのだ。
この上もなく美しい女たちの顔が、シオンとの戯れを期待して蕩け堕ちる。
開かれた口腔から桃色の舌を突き出し、唾液を垂らす。
隠しようのない発情の匂い。
その証がとくりとくりと股を伝って下り堕ちる。
美姫たちが立ち昇らせる匂いは、目に見えず働いてヒトの精神を狂わせる媚薬だった。
それがシオンのなかに託されたスノウの秘事と結びついて、四肢から《ちから》を奪っていく。
「いけない。これは……なんだ。対策、されている?!」
恐ろしい想像にシオンはひとり震えた。
これは罠なのか?
頭が混乱して狭まる包囲網の脱し方を考えられない。
その間にもアシュレは玉座への階段を昇る。
一歩、二歩。
昇り切る。
「いいぞ、良い子だ、善い子だ、アシュレダウ」
絶望の大君が歓喜を隠さずアシュレを褒めた。
すっかり歯抜けになった口元から、唾液が垂れ、老王の口元は濡れ光っていた。
口角には泡。
興奮しているのだ。
「さあ、さああ、跪け。その頭に正当なるエクセリウス帝国の頂点の証を授けようほどに──」
祭拍子に合わせて手を叩く子供のように、エクセリオスが拍手を繰り返す。
その眼前に立ち、アシュレダウは──
「やめろ、やめるんだ、アシュレッ! いけないッ。ヤツの言葉に従ってはだめだッ! 跪くなッ! 玉座に手をかけるなッ!! たのむ、正気に返ってくれッ!!」
夜魔の姫の絶叫は届かなかった。
そのかわりアシュレの右腕がぴくり、と動き──そして……。
ザシュリ、という音とともにエクセリオスの胸郭が光刃に貫かれた。
シオンには声もない。
状況の激変に対応できない。
いったい何が起きた?
ただひとつ分かるのは、戴冠を促されたアシュレが、エクセリオスを竜槍:シヴニールで貫いたということだけだ。
無造作に、殺意もなく、ただ使い古しの襤褸を始末するように。
あ、あ、あ、とエクセリオスがうめいた。
その口から、血ではなく光刃の余剰エネルギーが噴き出す。
アシュレの突き込んだ光の刃が、内側から絶望の大君を焼いているのだ。
だが、この状況を良かったと断じていいのか、シオンには分からなかった。
なぜならアシュレが、体内を焼かれ苦悶するエクセリオスから王冠をむしり取ったからだ。
そのまま用済みになった老王を蹴り落とす。
シオンの知る本物のアシュレダウだったら、そんなことをしたりはしなかっただろう。
エクセリオスの申し出を正面から断り、一騎打ちでこれを仕留めるくらいはしてみせたはずだ。
ぞっ、とシオンの背筋が冷えた。
喪失の予感にギュッと心臓を掴まれた気がした。
まさか、まさか、自分が体験したのと同じように、あのアシュレは“繰り返す動乱の國”の側のアシュレなのではないか?
出番を譲ってくれたあのシオンが例外で、もしかして舞台裏で予期せぬトラブルがあって……すり替えられたのでは?
いやまさかそんな。
これまで抱いてきた小さな違和感が胸のうちで膨らみ、混乱に拍車をかけた。
「まて、まってくれッ、アシュレッ!!」
あまりのことに人犬たちを蹴散らし駆け寄る。
だがそれを、階段から転げ落ち、這いずるようにしてアシュレから逃れようとしたエクセリオスの肉体が寸でのところで阻んだ。
足が震えてうまく躱せない。
そして立ちすくんだシオンは見てしまう。
玉座の前に立ち、こちらを振り返り見下ろすアシュレの瞳に宿る残酷を。
虫けらのようにエクセリオスを、そればかりかシオンを見下す視線を。
なぜどうしてこんなことになってしまったのか、わからない。
いったいなにが、彼を、愛する騎士を変えてしまったのか。
そのきっかけが、なんだったのかわからない。
いつ?
どこで?
考えれば考えるほど焦りが募る。
いや、あるいは、とシオンは思うのだ。
その胸に《魂》によって繋げられた“理想郷”との通路を、一度でも築いてしまった者は、その心に二度と塞ぐことのできない「穴」を空けられてしまうのかもしれない。
その穴は、全知全能という夢想へと繋がっている。
いつか人類は、いや自分は「完全体」へと近づけるのではないのかという《夢》。
そして、その通路から流れ込む《ちから》が与える悟りは、英雄たちを世界から乖離させていく。
蓄えられた叡知とそれがもたらす過去の人々の振舞いの記録が、英雄に、この世界のどうしようもなさ、自分以外の存在の矮小さについて気づかせてしまうのだ。
《魂》に到達できた自分と、辿り着こうともしないそれ以外とを見比べる視座を与えてしまう。
それは空虚を生む。
己の全身全霊を持って《魂》を振るい、理不尽な世界に抗い続けてきたアシュレの内側には、もしかしたら、そんなもはや修復不可能な“がらんどう”が広がっていたのかもしれない。
たとえば……そう丁度、土蜘蛛の王:イズマガルムの内側のように。
《意志》を信じ、仲間を信じ、未来を信じ現実に戦うということは、挫折しなかったり傷つかなかったりするととではない。
心に負ったそれらの傷を隠しながら立ち上がる者こそが英雄だが、その傷は彼ら自身が気付かぬうちにその内側を蝕み、空虚を広げていく。
そこに《ねがい》が注がれる。
人類の《ねがい》を受け止めるということは、その器になるということは、己の内側を空にすることと同義なのだ。
そして、その空虚な“がらんどう”に、“理想郷”の言葉は響くのだ。
だから、アシュレダウはエクセリオスの囁きに抗えないのではないのか。
ただ、その途上の手続きとして、権力の委譲ではなく、弑逆による簒奪を選び取っただけなのではないか。
絶対強者となる己を誇示するために。
それを玉座に──玉座と繋がる者たちに──示すために。
そう、あの玉座は人々の《ねがい》への直通路なのだ。
王が王座を選ぶのではない。
玉座が王を選ぶのだ。
「アシュレ、アシュレ、アシュレーッ!!」
叫ぶシオンの足下に、もがくエクセリオスが絡む。
どけッ、と蹴り飛ばすことがシオンにはできない。
いまや致命傷を負い冠を奪われ足下に転がるのは、老いさらばえ変わり果てはいても、やはりアシュレの一面なのだ。
ああ、と後悔がシオンの胸を責めさいなむ。
あのとき、舞台裏で、もうひとりのわたしがあれほど注意してくれたのに。
命を、存在をかけて忠告してくれたのに。
玉座が、変えると。
王座に、彼を近づけてはならないと。
声にならない叫びが響く。
現実は無慈悲だ。
致命的な一秒が空費され、アシュレダウは──腰掛ける。
己を絶望の大君とする




