■第五夜:狂気を胸に、雪を率いて(あるいは湯煙血殺行再び)
古代アガンティリス期から保養地であったカテル島は、その伝統を受け継ぎ、領主がカテル病院騎士団となったいまは、さらに積極的な治療目的での入浴施設として、温泉をいくつも持っている。
三人はそのうちひとつに汗と砂で汚れた身体を沈めた。
といっても本格的な汚れをこうむっていたのは、アシュレひとりなのだが。
浴室に入ってきたとき、アシュレは簡素な腰布だけだったが、イズマは例のベージュと空色の横縞――奇抜な意匠の――シオンはといえば、いまでもアシュレは直視すると心拍数がおかしくなる、あの純白の装いだった。
「いま思うと、イズマのその横縞って、土蜘蛛の意匠なんだね」
「んんー、そだよ。空色は高貴な色でね、王族しか許されていない。それも、王位継承権を得た――つまり、竜狩りを果たした者にしか許されない色なんだ。
まあ、地の底からずっと青空を見上げてきた種族だから、ボクらは。
空を征くものに憧れがあるのさ。
これも戦闘時用は縦縞を混ぜたり、もっとずっとケバイ色使いなんだけどさ」
「さっき格闘戦の時も、それで調子を狂わされたんだ。間合いがおかしくなる」
「まさしくその目的と、あとはこれは警告でもあるんだよ。対応を誤れば首を掻き切る覚悟でこっちはいるぞ、っていうね。
各部族特有のウォーペイントや刺青もあるから、完全武装の土蜘蛛を人類が『悪鬼』と見なすのは、まあわからなくもない。
ボクちんの全身、すごいっしょ、刺青? 各部族で意匠がそれぞれ違うんだ」
「ごめん、そういう意味じゃなかった」
「いいのいいの。こっちから見たら、人類の重甲冑や武器をして『文明度の低い野蛮人ども』っ反応になるんだからさ。お互い様だよ。
それよか、ボクちんはこういう話ができる友人ができて嬉しいのよ?」
「ボクだってそうさ」
男同士は、なぜかしきりに早口で会話を交わす。無理もなかった。
いつのまにか成り行きで背中を洗おうということになり、薬湯をすり込んだ海綿で互いの背中を洗い合っているのだが、その中央にシオンが入っているのだ。男女男という具合である。
それは、けっしてひと括りにまとめてはイカン字面でもあった。
「なぜか、わたしだけ会話から村八分にされていないか?」
「やっ、いやっ、そんなことはっ」
「アリマセンアリマセン、アリエマセン」
アシュレなど、もう幾度となくシオンの裸身を見ているのだが、寝室ではなくこんな場所でそれを前にすると、喉がカラカラになるほど緊張するのだ。
イズマにいたっては、日ごろからシオンへの思慕恋慕を声高に叫んできたくせに、いざシオンの側からアプローチを受けるとがくがくと震えながら固まってしまうヘタレ具合だ。
「その胴着を脱ぐがよい。背中が洗えんではないか」
「んぐわっ、めめめ、滅相もないことでございまする」
「変なヤツ。アシュレ、紐を解いてくれるか」
「ふえっ、そ、そんなのいけましぇえん、姫ェ」
といった調子。
まあ、気持ちはわからなくもない。
シオンの方は武人気質というか、イズマを異性と見てないのか(それはヒドイ)、恥じる様子もない。
そういえば、イグナーシュの温泉でもそうだったなあ、とアシュレは、ぼんやり思う。
シオンの着衣を使った罠に、アシュレがハマったくだりだ。
高位夜魔であるシオンからすれば自らの肉体は誇るべきもので、また浴場は裸身があたりまえの場所で、さらには徹底的な能力重視社会のため性差を意識しない種族的気風もあり、つまりマナーに抵触しているわけでもなく、恥じる理由が見当たらない、というの本当のところなのだろうが、これはあまりに刺激的だ。
そんなわけで、いま現在、この浴場にいる三人、その全員が半裸だ。
薬湯にはコラクル、というマメ科の植物、その実の鞘を乾燥させたものが混ぜられているそうで、泡が立つ。
これがなかなか良い感じ、というかその泡がなければ、いろいろ窮地の度合いが増していたはずである。
背の小さいシオンが長身であるイズマの背中を律義に洗おうとするものだから、そのたびに背中の陰からカタチのよい膨らみが目に入ってしまっておかしくなりそうだ。
男性的には言いわけできない、危機的状況である。
たぶん、長身のイズマの側からは、後ろからその状況を覗き込むポジション取りになっているはずで、その窮状がアシュレにはまざまざと想像できた。
「アシュレ、こんどはわたしが夜魔の戦技をみっちりと教えてやる」
「わ、わー、よかったなー、あしゅれー」
「そ、それは、うれしいなー、ですよねー、いずまー」
「そなたら、なにか悪いものでも喰ったのか? さっきの練習で頭でも打ったのではないか?」
「いやっ、だいじょぶだとおもうよ」
「ひめっ、それよか、夜魔の戦技のレクチャの続きを~」
「ないす、いずま、それ、ないすです~」
「??? まあ、いいだろう。夜魔との近接戦闘でもっとも気を払わねばならんのは、これだ、牙だ」
言いながらシオンは頭だけアシュレを振り向き、口を開けて見せた。
音もなく普段は仕舞い込まれている長い犬歯が姿を現した。
話題につられてイズマが振り返り、血を噴いた。
鼻から。慌てて前を向き天を仰ぐ。
アシュレにいたっては、あうっ、と情けない声が出た。
女のコみたいな声だ。
「なんだ?」
「そ、そうだねっ、気をつけないとねっ」
「アシュレ、真面目に聞いているのか? 吸血にともなう吸精は急激に相手を衰弱させるし、それによって夜魔は体力を回復させる。
下級種であってもこのナイフのような犬歯で相手の耳を食いちぎり、頚動脈を裂くくらい簡単だ。
上位夜魔は節度を叩き込まれておるから、むやみに牙を剥くことを好まない――得体の知れない食物を口にするのは、拾い食いをするようなものだからな――が、切羽詰まった状況でなにをしでかすかわからないのは人類と同じだ……、どうした、血が出ておるではないか、鼻から」
やはり、訓練時にどこか打ったのではないか。
言いながらシオンが、今度は身体ごと振り返り、アシュレはますます窮地に追い込まれる。
そのとき、シオンの身体越しに、前のめりになって駆け出すイズマが見えた。
あ、ずるいっ、とアシュレは思う。
ある意味、千載一遇のチャンスをモノにする天才的な戦場の勘、理想的な戦術的撤退の見本である。
ナチュラルボーン・チキン野郎と言い換えてもいいのかもしれないが。
「おいっ、イズマっ、どこへ行くっ、アシュレの容体を見てやらんか!」
「ちょっと、おくすり、とってきましゅ」
ふがふがと不鮮明な叫びを残してイズマは浴室を出て行ってしまった。
たぶん、戻ってこない、とアシュレは予想する。
おかげで、たったひとりでアシュレは窮地に立ち向かわなければならない。
裏切り者ー、とイズマを胸の内でなじるが、これが本当のあとの祭、すなわち後夜祭である。
余談だが三大行事といえば、これに前夜祭と血祭りが加わるのだそうだが、真偽のほどはさだかではない――アシュレの脳が、いつかイズマに吹き込まれた情報をリフレインしはじめる。
逃避であり逃走であった。
現実からの。
だが、そんな精いっぱいの逃避を、圧倒的な現実が打ちのめす。
アシュレの容態を案じたシオンが身を寄せ、鼻腔の具合を確かめようとしていたのだ。
当然だが、そのときアシュレの視覚に飛び込んでくるものは絶景である。
天上の國の景色、と言っても過言ではない。
「アシュレ、よく見せよ。ずいぶん打撃をもらっていたが、頭部へのクリーンヒットはなかったものな。では、わたしの投げがいけなかったか。ああ、どうしよう」
「ひやっ、だいじょぶ、だいじょうぶれす」
「なにが大丈夫なものか。外傷でないのがより悪い。あああっ、両方から垂れてきたじゃないか! すまなかった」
カオス過ぎる状況を収拾するため、けっきょくアシュレは本当のことを言わざるをえなかった。
シオンが、その姿が魅力的すぎるせいだと。
ふたりは真っ赤になって固まった。
シオンが逃げるように浴槽に入り、アシュレは苦労してそれに続く。
昂ぶりがなかなか収まらず四苦八苦しているアシュレの背中に、シオンが触れる感触がした。
「すまん」
「シオンのせいじゃないよ」
アシュレは止まりかけた鼻血がふたたび噴いて湯を汚さぬよう、天を向いた。
山の中腹に切り開かれたこの浴場は、カテル病院騎士団が訓練に使うもので冬季は封鎖される施設に付属している。
十字に切られた採光用の窓からまた雪片が舞い降りてきた。
「今年は、異常気象だそうだ。どんなに寒い年でも冠雪するのは山の頂きが白くなる程度というこのカテル島で、中腹あたりでも雪が降るのはないことだという」
「そういえば、カテル島って古典に謳われるほどの保養地だったものね。風甘きカテルっていうくらいだもんなぁ。エクストラムでも積もるのは珍しいけど、降ることは降るからね」
「まあ、たまさかの雪くらい、夜魔の姫がヒトの子の聖騎士に求愛するくらいだから、もうなにが起こっても驚かんがな」
またひとひら、雪片が落ちる。
シオンはそれを受け止めるように手を伸ばした。
ただ、と言い添える。
「どうしたの?」
「雪を見ると、故郷のガイゼルロンを思い出す」
「冬を引き連れて到来する夜魔のくだりが、古典や昔話にはたくさん出てくるものなあ。あれは『冬を締め出すように、心の鍵を固く閉じよ』って比喩なんだと思っていたよ」
「無論それもある。むやみに受け入れ、迎え入れると不幸を招く事柄がこの世にはあまりに多いのだから。
多くの村々で客人を歓迎するなどという話はな、うわべだけのこと――彼らが過ぎゆくものであると知ればこそなのだよ」
「……迷惑だったかい?」
シオンのそのどこか諦念すら感じさせる言葉に、アシュレは訊いた。
シオンの求愛を受け入れたことについて。
シオンは己の肩を抱きながら答えた。震えて。
「恐い、とすら感じた。温かく迎え入れられ、わたしは――わたしの心は完全に捕らえられてしまった。そなたのいない明日を想像できないほどに――恐いのだ」
アシュレは、いますぐ振り返りシオンを抱きしめたい衝動に駆られた。
ただ、そうなったとき、抱擁だけで済ませることはできないだろうという確信があって、意志の力を振り絞って自制した。
そんな状況にイズマが帰ってきたら言い訳ができない。
そんなアシュレの心の動きが肌越しに伝わったのだろう。
湯船の下で、シオンが手を重ねてきた。
だが、続いたシオンの言葉に甘さはなかった。
「けれどもな、アシュレ。その昔話のくだり、いささか暗喩だけとは限らぬ。上位夜魔のなかには『己の赴くところに祖国の気候すら連れてくる』ほどの愛国主義者、原理的血統主義者も存在するのだ。
夜魔はその長い生と鮮明すぎる記憶のせいで、心のどこかに破綻をきたしたものが多いのだ。長命な上位種ほど、その傾向が強い。
表層でそうとは知れずとも、内面には狂気が潜んでいるものなのだよ」
「それって」アシュレはシオンを首だけで振りむき、訊いた。
シオンが、自らのことを語っているのかもしれない、とアシュレは思ったのだ。
内面に潜む狂気――いや、そんなものがもし、シオンのなかにあったとしても、アシュレは受け止める覚悟だった。
けれども、予想に反して、シオンの態度は冷静だった。
深い紫色の瞳。
淡々と事実だけをシオンは語る。
「さきほど、微弱だが、気配を感じた。わたしでなければ見逃していたかもしれぬほどの微弱なものだが。我ら夜魔は互いの血統・血脈に共振を起こすのだ。
本来それは互いの狩猟場を侵さぬための本能だが、いまのわたしには追手を感じ取る感覚として作用する。
そして、それは敵も同様だ。むやみやたらと気配を振りまかぬのは、逆に上位夜魔に違いない。近いうちに襲撃があると考えたほうがよい」
シオンの告白は、たしかに感傷に浸っている暇などない緊急の対処を必要とする内容だった。
ダシュカマリエに会う、とは先方からの用件の他に、こちら側からの申し入れもあってのことだったのである。
「でも、それじゃ、天候を連れてくるってのは?」
アシュレは最後に問うた。
現実に予想される夜魔の襲撃に対する対処と、今後の参考――つまり、己の好奇心の充足のために。
なぜ、わざわざシオンに察知されるを予期しながら、雪を連れてくるのか、という問いだ。
それに対するシオンの解答は簡潔にして、充分であった。
すなわち、
「それが貴族どもの趣味、血の狂気というやつさ。ほらな? わけが判らんだろう?」
なるほど、とにわかには頷けないアシュレであった。




