■第一二四夜:《魂》の在処
我々の思想、着想、アイディア──そういったすべてが実は“接続子”を通じて、“理想郷”より送り込まれた過去の叡知でしかない。
巨匠:ダリエリの断言は、これまでそれらと戦い続けてきたアシュレをして震撼させるに充分であった。
「では……」
「そうだ。我々は、すくなくともわたしは──天才などでは断じてない! ただの装置、“理想郷”にある知識を現実に降ろすための道具に過ぎない! 操り人形だ!」
アシュレは夜魔の騎士にしてトラントリムの事実上の君主であったユガディールから受け継いだ手帖を意識した。
それは常にアシュレの上着の隠しにある。
“接続子”や“理想郷”の秘密について、ユガが何百年もかけて読み解いた事実と思索と思考とが、そこにはびっしりと記されていた。
奇しくもダリエリの語りは、その内容とぴたりと吻合していた。
わけのわからない感情に襲われて、アシュレは自分が震えていることに気がついた。
「我々は《ねがい》の奴隷に過ぎん。操作などという生ぬるい話ではない。考え方の基礎そのものが“理想郷”に準拠しているのだ。明日を、人類の進歩を夢見て、物事を考えているのは我々ではない! 我々は考えているのではない。考えてなどいないのだ。それどころか『そうあれ』と望んだのは我々自身だという疑いすらある!」
「巨匠……『そうあれ』というのは……」
「考えたくない。現実と相対したくない。なにより導かれたい──そういう種類の《ねがい》のことだ。わたしでたとえるなら『本当は天才でもなんでもない』という事実から『逃れたい』ということだ!」
そして、と興奮のままに続けた。
「その《ねがい》は、同じやり方で《理想》の体現者たちを生み出し続けてきた。暗闇を引き受ける敵としての十一氏族、おぞましきオーバーロード、そして──いま我々が対峙するエクセリオスのような」
彼らは体現する。
我々の《ねがい》の具現をとして。
《ねがい》の運び手たる“接続子”を通じて。
“理想郷”に蓄積された《ねがい》をその身に降ろして。
おおお、降臨!!
ダリエリのその目はいまやアシュレを見ていなかった。
あるいはその瞳に映っているのはかつてのイグナーシュの王、偉大なる降臨王と呼ばれ、ダリエリに居場所を与えてくれたグラン王そのひとであったのかもしれない。
グランは後にオーバーロードと化し、アシュレはこれを打ち倒した。
ダリエリは果たしてそのことを知っているのか。
複雑な思いに駆られるアシュレをよそに、ダリエリは絞り出すようして言った。
血の滲むような声。
「だからエクセリオスは《ねがい》を引き上げることができるのだ。吸収できる。集めることができる。そして、それを《ちから》に変換できる。肉を持たぬがゆえ、まだ“だれか”を通じて出なければならないが、彼は“理想郷”の叡知をいくらでも利用できるのだ。我々に勝ち目など、ない」
絶望に打ちひしがれる天才を、アシュレは黙って見つめた。
ダリエリの悲嘆は痛いほどわかった。
これまで己の才能を信じ、その煌めきを作品に写し取って我が道を歩んできた男だ。
もしその考えが、発想が、辿り着いた結論が過去すでにあった誰かからの借り物だったとしたら。
どれほどの絶望に彼が襲われたのか、推し量るにあまりあるものがあった。
だが、と流れ出る涙で顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら巨匠は言った。
なんとか、という様子ではあったが、アシュレはそこに諦念とは違うなにかを見出した。
不屈の匂い、とでもそれを名付けよう。
「だが、おかしなことだ。圧倒的叡知を誇る“理想郷”がなぜ、まだ我々ごときにこんな手の込んだ仕掛けをする? たとえば青年、アシュレダウ──キミを我がものにしようとこれほど躍起になる?」
獲りに来たのだろう、アレは、エクセリオスは、キミ自身を。
その問いかけこそ、いままさにアシュレが巨匠にぶつけようとしていた問いかけだった。
知の巨人との思考の合致に、アシュレは震えている。
先ほどまで感じていた恐れや、“理想郷”からの思想操作に対する嫌悪感とは まったく異なる感情が震えとなってアシュレの肉体に現れ出でていた。
それを言葉にするなら、ひとこと。
感激だ。
「巨匠。送って頂いたお言葉を、いま返します。ブラーヴォ。あなたはいま、確実に素晴らしい。真にファンタスティックだ」
そのとおりだ、とアシュレはダリエリの手を取った。
その指先は掻きむしられたダリエリの頭皮の脂と涙で濡れていたが、構わなかった。
「そうです。奴らが完璧で完全なら、ボクらを求める必要なんかどこにもない。戦いにすらなってないのなら、こうしてボクらを遊ばせておく意味なんかない。すぐにも圧倒したらいいはずなんだ。本当に奴らが全知全能であるなら」
己の手を握る青年のそれを、固く握り返しながらダリエリが呟いた。
「道理だ、アシュレダウ。そのとおりだ」
ではなぜ、とダリエリ自問するように言う。
瞳が己の内側に向けられる。
それは、と今度は巨匠の思考の先回りをして、アシュレは答えた。
「ないからです」
「ない、から?」
なにがだね、と巨匠は問い、己の胸に手を当てた。
その上からアシュレがゆっくりと答えを指さした。
「《魂》が」
こんどこそ本物の驚愕が、巨匠の瞳を限界いっぱいまで見開かせた。
「たましい」
「はい。《魂》です」
それは、とダリエリがうめいた。
「どんなに叡知を積み重ねても、たとえ我々の考え方の基礎を造り上げたとうそぶいても──創造主を、神を気取ろうとも──彼らは辿り着かなかった。いいや、辿り着けなかった」
それが────。
「それが《魂》。そうか、だからか……だから奴らは、“理想郷”はキミに執着する」
《魂》の体現者であるキミに。
《魂》への到達者であるキミに。
アシュレはゆっくりと頷き、真の友にするように固い抱擁をダリエリに与えた。
「それはあなたも、ですよ、巨匠:ダリエリ。あなたの美を求める強い《ねがい》が“理想郷”から、いくつもの叡知を取り出した。それは“理想郷”がある意味であなたを無視できないからなんです」
《ねがう》だけではなく、あなたが実践者だったから。
「だが……だが、わたしは《スピンドル能力者》でさえない。いまわたしの口から出た言葉が、本当に自分自身の考えなのか……わからないのだぞ?」
「それを言うなら条件はボクだって変わらない。でもボクはその果てに奴らでは届かなかった《魂》に至りました。まだ完璧ではないかもしれない。未熟でしょう。でも、それでも、奴らにはできなかったことを成し遂げた」
奴らになくてボクたちにあるもの、それはこの不自由な現実の肉体なんです。
「単に知識や考え方を借りただけでは現実は変えられない。それを成し遂げるには行動しなければならないからです。この不自由で未熟な肉体を使って、残酷で冷酷な現実を捩じ伏せて」
「ふむん、つまり……起点がどうあれ、本当の意味でどうなるかは──奴らにもわかってはいないとキミは言うのだな?」
はい、とアシュレは頷く。
「この無数の可能性世界がその証左です。《魂》に至る確証がホントにあるなら試す必要などない。正解が手元にあるなら思索は要らないはずなんです」
ボクを求める必要なんて、ない。
アシュレの言葉に、ダリエリがぽかん、と口を開けて見せた。
一本取られた、という表情。
巨匠と呼ばれ続けた男が見せた、心の底からの驚嘆だった。
「そうだ、そのとおりだ」
「実際、いまのやり取りでボクは勝ち筋を見つけました。いままでは勘のような曖昧な感覚だったものが、はっきりと道筋を持って見えてきた。勝ちようはある。あなたのおかげです、巨匠。《スピンドル能力者》ではない人間が、ただ美への信念だけを友として、ここまで来た。これが《意志のちから》。あなたこそ真の巨匠です」
アシュレの賛辞にダリエリの口元にあの不敵な笑みが戻ってきた。
たぶんアシュレからの褒め言葉をダリエリが素直に受け止めたのは、これが初めてではないか。
巨匠がアシュレを対等の者と認めた証拠だ。
勝ちようはある。
アシュレは己の言葉を何度も胸中で繰りかえす。
人の行いは、その積み重ねは、決して無駄などではない。




