■第一二〇話:“理想王”の驚愕
磨き抜かれた鏡のごとき水晶には、“繰り返す動乱の國”世界が映し出されていた。
その端役のひとりに、なぜかエクセリオスの意識は吸い寄せられた。
巨匠・ダリエリ。
どこからか紛れ込んだその男を、これまでエクセリオスは他愛ない夾雑物と見過ごしてきた。
しかし、いつその人物を創造したのか記憶にない。
基本的にこれら可能性世界の登場人物たちは、すべてシオンとスノウの主観から再構築されている。
繰り返される地獄たちを、ふたりの美姫にとって最高の苦痛でありまた同時に最高の堕落の物語にするためだ。
いかにアシュレダウという男とともに堕ちるか、という。
ここは、その悦楽と絶望のための舞台装置だ。
だが、だとすれば。
このダリエリという男は、ふたりにはまったく必要のない要素であるはずだった。
事実、シオンもスノウの人生にも、これまでほとんど影響を及ぼしていない。
ふたりの眼中になかったと言ってよいだろう。
このダリエリという男は、彼女たちの人生にとって、ただの端役にすぎない。
であるがゆえに、いままでエクセリオスも気に留めすらしなかった存在だ。
それがいま催されている“繰り返す動乱の國”世界の周回から、忽然と姿を消した。
それ以降、どこにも現れぬ。
話の筋書きに沿わぬ、不自然な退場。
シーンとシーンの間、わずかな幕間の間に。
もちろん端役ひとりが欠けたところで劇の進行にはなにほどの影響もあるまいし、事実、物語は破綻なく進んでいく。
ときに劇作家が余分なエピソードを選定して脚本を調えるように、自然に物語世界はバランスを調整していく。
エクセリオスが介入するまでもない。
雛形を生み出しさえすればあとは“理想郷”がすべてを自動的に判断し、必要なアレンジを加えてくれる。
だから、どうでもいいことだったはずだ。
いままでは。
だが、いまここに至って、それは違うとエクセリオスの直感が告げた。
なにかがおかしかった。
はじめての違和感。
すかさず手元のスノウをめくり返す。
絶叫にも似た悲鳴が上がるが、無視する。
わざと荒々しく過去の記録を閲覧する。
スノウの肉体には、これまで繰り返された可能性世界で出来事がすべて記述されている。
だが、いくらスノウの肉体をめくり返しても、“繰り返す動乱の國”世界の記録には、それ以上の異変の痕跡は見出せない。
ただ、ひとつだけわかったことがあった。
それはやはりこのダリエリという男は、エクセリオスの創造物ではない。
エクセリオスが設定したキャラクターではありえない。
では、これは原型ということか?
本人。
どこかでイレギュラーに紛れ込んだのか?
そして、その原型が物語から突如として不自然に退場した。
それ以降、二度と舞台に復帰しない。
これにはどういう意味がある?
エクセリオスは瞳を細める。
可能性世界に遍在する様々なバリエーションの分身たちの体験に、エクセリオスは逐一関与しない。
またその動向や経験に関知しない。
それはこう言い換えることもできる。
エクセリオスはすべての地獄を実体験はしない。
それはあまりに危険なマルチタスクであり、《ちから》の無駄遣いだったからだ。
エクセリオスは無数に派生する地獄の一部を選り抜いて、シオンやスノウの心をへし折るための道具として用いている。
そのとき初めて、その周回での地獄を味わう。
悦楽として。
が、それにしてもごく一部に過ぎない。
それほどに可能性世界が生みだす絶望は苛烈だ。
一時にそれらをまとめて意識に流し込まれたら、だれであろうと──たとえ《理想》の存在であろうと──焼き切れるのは目に見えていた。
エクセリオスが求めるのは《理想》に屈し、それによって満たされたシオンでありスノウであって、自我の崩壊した抜け殻としての肉体ではない。
彼女たちの心と、そこから生み出される可能性のある《魂》が欲しいのであって、壊してしまいたいのではないのだ。
だから、エクセリオスの手は答えを求める。
もっと時間を遡る。
頁をめくり、そこに記されたあらゆる可能性世界を一瞬で跳躍、閲覧する。
魔導書としてのスノウは、自らに記された記録を偽れない。
できるのはただアシュレへの煮えたぎる想いを書き連ねることで、情報量を飽和させ、エクセリオスによる閲覧と精査を妨害することだけだ。
ごぷりごぷり、と愛欲があふれ出る。
思慕が、恋慕が、とめどなく。
「わたしで、満足なさいって、いった……よね」
喉を喘がせ、胸乳を震わせながらほとんど意識もないはずのスノウが呟いた。
ほとんど楽しげにエクセリオスは嗤った。
ここに来て、自分がいっぱい食わされた可能性に気がついたのだ。
自分がシオンとスノウを陥落直前まで攻めている間に、隠された状況が進行していたことが驚きだった。
驚愕という感情を《理想》である自分が感じている。
その事実に唇の端が吊り上がるのを止められない。
悦んでいた。
 




