■第一一八夜:虜囚の姫の祈り
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どうやったらこれほど残酷で背徳的なカタチに、人体を縛することができるのか。
そういう姿勢でスノウは書架にかけられている。
肉体は胸元から下腹までばっくりと裂かれ、そこから内臓ではなく折りたたまれていた書籍の頁があふれ出し、床面にまでこぼれ落ちては、これを覆い尽くしている。
頁のひとつひとつはすべてスノウの心のカタチであり、桃とミルクの香りのする汁に濡れそぼっている。
記述されているのはアシュレへの想い。
狂おしいほどの恋慕と思慕、憎悪にも似た嫉妬。
それらを土足で踏みしだきながら座すのは、“理想郷”のアシュレダウ=エクセリオスだ。
頭頂にはシオンのためのものであるはずの宝冠:アステラスが頂かれている。
本物のスノウはここでエクセリオスに囚われ、玩弄されていた。
無限とも思える責め苦は、そのことごとくが陰惨な官能に彩られている。
いったいどれほどの間、休む暇さえ与えられず責め続けられているのかわからない。
もしスノウが夜魔の血筋でなく、魔導書:ビブロ・ヴァレリとの融合を果たしていなければ、決して耐えられなかったであろう。
もっともそうでさえなければ、彼女がここまで執着されることもまたなかったハズだ。
そんなスノウの健気な抵抗を愛おしむように、エクセリオスは目を細めた。
「しかし、よくもこれほど想ったものよ。これは貪るように読んでしまう。目を離せなくなる。事実、危なかったぞ」
多感で敏感な十代の心を暴かれながら、スノウは喉を反らしてあえがす。
桃色の幼い舌が天に向け限界まで突き出され、びくりびくりと痙攣する。
「そなたが捨て身の賭けに出たとき、そして、その援護に我が想い人:シオンが加わったとき、一瞬、ごく一瞬だが我の心にも諦めが走ったものだ」
べらり、と音を立ててエクセリオスが頁をめくった。
ひい、とスノウが声にならぬ悲鳴を上げる。
「そなたは頁を読んだ者に、そこに綴られている場面を追体験させることができるのだな。本来は人類の営為と歴史を後世に語り継ぐために用いられるべき《ちから》を用いて、よくもまあこれほどまでにひとりの男への想いで埋め尽くしたものよ。これほどの一途を目のあたりにしてどうにかならないような者は、もはや男とはいえまい」
エクセリオスが胸元をスノウに見せるように大きくはだけさせた。
その心臓の真上には金色に輝く手酷い火傷の跡が癒えずに残っている。
スノウの想いがつけた傷だ。
「《理想》たる我が、同じく理想の産物たる物語の登場人物に極めて近しいと、あの僅かな攻防のなかでそう当たりをつけたこと褒めてつかわす。そなたがこれまでどれほどアシュレダウのことを想い、苛烈に生きようとしてきたか、その証左であった」
スノウは遭遇したばかりのとき、エクセリオスの正体が受肉された実体ではなく《理想》という虚構に属する者だと見抜いた。
そこで一計を案じた。
自分という本、そのなかにある物語にこれを捉えたなら、封じることができるのではないか。
そう考えたのだ。
そして、賭けに出た。
己自身を物語でできた檻としてエクセリオスを虜囚とする作戦だ。
この試みは一時にせよ成功する。
スノウは己の内的物語世界へエクセリオスを封じ込めることで、彼とアシュレの間にある双方向性の繋がりを切断することに成功した。
半夜魔の娘:スノウがその身に蓄えてきたアシュレへの焦がれるような複雑に屈折した、それだけに一途で鮮烈な想い。
自分自身でも半ば諦めていた恋路の物語が、迷図となってエクセリオスを捕らえた。
だが、小康状態にあったのはわずかな時間だった。
囚われたはずのエクセリオスが、スノウの内側で彼女の物語に干渉しはじめたからだ。
物語に近しいゆえ、エクセリオスを物語のなかに封じることができるというスノウの発想は正しかった。
正し過ぎるほどに、正確であった。
だから、それ自体が極めて強力な物語であるエクセリオスを取り込んでしまったあとで、スノウの自身の物語が無事であれるはずも、またなかったのである。
スノウは己の内的世界が、“理想郷”の王に蹂躙されていくのを体験することになった。
いじらしい抵抗も、圧倒的な彼の《ちから》の前では風前の灯火だった。
成り行きに任せていたら、一両日を待つことなくスノウは陥落していた。
そうならなかったのは援軍が駆けつけてくれたからだ。
割って入ったのはほかにだれあろう、シオンだった。
彼女は自らの血肉、骨と同化した人体改変の《ちから》を持つ《フォーカス》:ジャグリ・ジャグラをスノウへと突き込み、これをもって彼女の物語世界に己を援軍として送り込んだ。
アシュレがジャグリ・ジャグラを用いて《魂》を伝達するように、シオンは己の《意志》を送り込んだ。
それでやっと危うい拮抗が生まれた。
スノウはなんとか現実の自分を保つことができるようになった。
置き手紙を書いたのはこのころだ。
なぜならふたりの《ちから》を持ってしても、それさえ長くは保たせることができないとわかったからだ。
それほどにエクセリオスは強大だった。
時間を稼がなければならない。
シオンとスノウのふたりは結論した。
一時的にせよエクセリオスと切り離されたアシュレは真騎士の乙女:レーヴの献身もあり、急速な回復を見せていた。
ならば。
彼の完全復活を待ち、それによってこの“理想郷”を退ける。
きっとアシュレならそれを可能にしてくれる。
それだけが希望だと、ふたりは考えた。
だからベースキャンプから姿を消した。
スノウという物語の牢獄に捕らえたのであれば、彼女がアシュレから物理的に距離を置けば置くほど、実際の時間を稼ぐことができる。
アシュレの胸に開いた虚構へと繋がる《魂》が開けた通路が閉じたなら、いかにエクセリオスであろうとも物理的距離は物理的に縮めなければならないからだ。
ふたりの逃避行が始まった。
ひとりの男を想うふたりはまるで本当の姉妹のように協力しながら可能な限り遠くへと、アシュレから逃れるように足を進めた。
そして遠く離れたこの土地で、限界を迎えた。
シオンが最後の《ちから》を振り絞って聖剣:ローズ・アブソリュートをバラの茂みに変え、これを用いて強力な結界=バラの神殿を構築しなければ、どうなっていたかわからない。
代償に倒れ伏したシオンは宝冠:アステラスを奪われたが、エクセリオスはまだこのバラの結界を破ることはできずにいる。
シオンが聖剣:ローズ・アブソリュートの柄をいずこかに隠したせいだ。
そしてそのことを、エクセリオスはまだ知らない。
聖剣:ローズ・アブソリュートのすべてがバラの結界に変じ、己を封じていると信じている。
そのありかを見出しさえすれば、自力でこの結界を破れるであろうとは思い至りつつも、自分では探し出せずにいる。
荊の壁が彼を封じているからだ。
ただ逆に言えばそれは、この世界の内側では永劫にシオンとスノウのふたりはエクセリオスに嬲られ続けるという意味でもある。
むしろエクセリオスはそちらの方を打開策として選んでいた。
アシュレ、とスノウは彼女を救ってくれるはずの騎士の名を呼ぶ。
お願い、お願い、おねがい──。
これ以上は耐えられない。
おかしくなってしまいます。
おかしくされてしまいます。
高熱に浮かされた患者のうわ言のようなスノウの言葉は、祈りだ。
ククク、とエクセリオスの喉が鳴った。




