■第一一三夜:親展はバラの薫りの便箋に
アシュレが悪党を装ったのは罪の意識がなかったからなのではない。
永劫の恋の呪いの発作が落ち着いて正気に返ったときにはもう、取り返しのつかない選択肢を数十回も選んだあとだった。
曲がってはいけないはずの運命の岐路をいくつも致命的に、選んで折れてしまっていた。
シオンのなかに貯め込まれたスノウの秘密をどれほど貪り読んだか。
夜魔の姫の妹かと見まごう彼女の秘事を、アシュレは愛しいヒトの姿を便せんにして親展のカタチで贈られてしまったのだ。
自分でも思い起こして恥じ入るほどだが、あれほど切実に望まれて冷静でいられるほどアシュレは聖人君子にはなれない。
もう引き返せないほど深入りしてしまったのには、もうひとつの理由があった。
正確には半分しかシオンではない彼女との逢瀬は、すぐにはアシュレの渇きを癒してはくれなかった。
アシュレの血からスノウが獲得した永劫の恋の呪いは心の部分だけだ。
肉体にそれは刻まれていないから、補えない半分は置き去りのまま。
だから愛しても愛しても愛し足りない。
愛しいと思えば思うほど、彼女を貪れば貪るほど、もどかしさに狂うことになる。
アシュレはいっこうに満たされぬ渇きを癒すため、ことさら執拗に追求する以外になかった。
スノウが秘事を暴かれるのを頑なに拒んだことも、それに拍車をかけた。
抵抗がアシュレをいっそう残忍にさせた。
言語道断な手練手管を使ってしまった。
このスノウブライトという姓を与えられたシオンが、なにでできているのか、隅々までまさぐって確認してしまった。
彼女がスノウの因子をも合わせ持つことを思い出したのは、ふたりの境界がわからなくなるまで確かめ合い、ひとつであることを理解させ、泥のように眠り込んだあとだった。
ぼんやりと目覚め、手に触れるまま、まだ夢うつつだった彼女を蹂躙しいくどもそれを繰り返した。
何度目の目覚めだっただろう。
アシュレは、そこで不意に正気に返った。
かたわらのシオンは/スノウは、アシュレの残した傷跡の余韻に苛まれているのだろうか、その全身は紅潮したまま汗みずくで小さな痙攣を止められず、それなのに意識はなかった。
アシュレはその姿にスノウを見出したのだ。
動揺を彼女に悟られなかったのだけが救いだと思った。
手折った女性の前で、そんな顔を見せて良いはずがない。
渇きのあまり正気を見失っていたとはいえ、半分はスノウである娘をアシュレは組み伏せたのだ。
動揺が手を震わせた。
本物のシオンとスノウを取り戻したとき、この関係がどう還元されてしまうのかわからない。
だが、すくなくともいま目の前で気を失ってしまっている彼女に対してだけは、自分の欲望に従って組み敷いたのだという事実を貫かなければ不実が過ぎた。
どうなんだアシュレ、と胸に震える手を当て、自らに問うた。
もしいまスノウ本人が目の前に現れたなら。
いま彼女が目覚めたなら。
そのなかに宿るスノウの部分を、お前はどう扱うのだ?
深呼吸する。
一拍置いて、心が決まった。
愛さずにいることは難しい。
それが答えだった。
そもそもあんなふうに望まれて、しかもそれを追体験してしまったあと、どうにかならない男はいるのか。
だれよりも過酷な奉仕を自分に命じて欲しいと、スノウの心は伝えてきた。
具体的な内容をアシュレは知ってしまったし、そのとおりの仕打ちで応え、本人に認めさせもした。
ああ、これ以上を言葉にするのは、冒涜だ。
ともあれ、あの秘事の数々を知ってしまったアシュレが、もしその恋路を思い止まれなどと諭したら、きっと彼女は自害くらいする。
あれはそういう──深刻な内容だった。
そんな秘事を暴いた男が、拒むことなどしてよい話ではない。
ただ経緯と理由はどうあれ、アシュレは己の行いに限っては悪と断じるしかなかった。
状況と立場を利用して、彼女の未来を我がものにしたのだから。
そんなアシュレにとって、自分の欲望ゆえに彼女を組み伏せたのだと実証して見せる手段は、悪党を気取ることしかなかった。
こういうのを偽悪者と表現していいのかどうか、わからない。
オマエを手折ったのはどうしようもなくオマエが欲しかったからだ。
そうスノウに示すには、こうする以外に方法を思いつけなかった。
己の行いに言い訳を重ねて正当化することは、できないことではなかったかもしれない。
だがアシュレは、そんな卑怯者にはなれなかった。
自分の手と意志で手折った花を、折れたのは花のせいだなどと理屈をこねることほど、恥知らずはない。
すべてを認め、請け負うほうを選んだ。
そうやって気持ちを切り替えた。
互いが求めたことは認めるしかないが、長々と甘い感傷に身を任せていてよいときでは、いまはない。
「ボクはもうすこし、この世界を確かめてみようと思う」
決意を込めて言えば、真剣な眼差しが返ってきた。
まだ興奮に上気した頬のまま、シオンはアシュレを見上げた。
「そなた、あんな目にあってまだ、地獄を見足りないというのか」
シオンの問いかけに、アシュレは首を振った。
「地獄を味わっているのはボクじゃない。この世界で何度も再構築されるキミたちのほうだ。ボクはただその光景に心を痛めることしかできない。そうやって傷ついて見せるのは簡単だけれど──本当に傷ついているのは常にキミたちのほうなんだ。感傷と本当の痛みを混同してはならない」
助けたいんだ、キミを、キミたちを。
アシュレの言葉にシオンがハッと息を呑んだ。
じん、と心のどこかが痺れたように胸乳を押さえた。
アシュレは続ける。
「だから、ボクはもっとキミたちの苦しみを知らなければならない」
詳しく、切実に。
「どれほど知ろうというのか」
問いかけるシオンにアシュレは微笑んだ。
「もっともっと、だよ」
夜魔の姫が桜色の唇を噛みしめた。心を震わせる痺れのまま。
「なぜ、そうまでする?」
「じゃあなぜ、キミは、シオン、たったひとりでもこの舞台裏に潜み、戦いを続けてきたの?」
それは、と夜魔の姫は言葉を詰まらせた。
「救いたいのだ。エクセリオス……いや永遠に辿り着かない《理想》への道を求め、地獄を繰り返すアシュレダウを。あれはいつかもしかしたらありえる、未来のそなた自身だからだ」
でも、どうしたらそれができるのか。
わからない、とシオンはかぶりを振った。
「いくつもの可能性世界を舞台裏を通じ渡り歩き、試してみた。その世界にいるわたしに成り代わってもみた。だがダメなのだ。エクセリオスはなんどでも、なんどでも繰り返してしまう」
わたしでは救えないのだ。
悔しげにシーツを握りしめたシオンが、そのまま両手をベッドに叩きつけた。
縛鎖が鳴り、枷が跳ねた。
「キミもボクと同じように可能性世界に、物語のなかに飛び込んで戦っていたんだね」
「そなたのような無謀な参戦とは違う。キチンと観察を繰り返して、物語の分岐路を突くように、偽装も整え、帰り道も確保して計算の上で、だ」
複雑な話の筋も夜魔の完全記憶を用いれば一本筋のようなものだからな。
額をコンコンと指さしてシオンは言った。
「それなのに。そなたはそれを無視して、無謀を働いた」
見ればシオンの特徴的な眉が吊り上がり、怒りの表情を作っていた。
「そなた、地獄巡りの案内にわたしを雇うのは構わぬが、次あんなことをしたら本当にただではおかんぞ。どんなにわたしがそなたを想ってしまったのか、あんなに手酷く尋問して心の底までさらけださせておいて。ひとりになんかしたらもうぜったい承知せんからな!」
話は決まりだった。
約束は守ると固く誓う。
「ならばよいが。そなた騎士気質というか、向こう見ずなところがありすぎるからな。それに各世界のわたしたちに感情移入し過ぎるきらいがある。まあどんなに戯画化されていてもわたしたちなのだから──恋をしてしまうこと──その気持ちはわからんではないし、そこまで想われているのは悪い気はせんが……絶対だぞ」
念押ししたシオンが、目を逸らしてぽしょぽしょと呟いた。
「どうせ飛び出すなら、目の前にいるわたしのためだけにしてくれ」
どうやら夜魔の姫君は心配で堪らないらしい。
しかたなくアシュレは切り札を切った。
シオンのカタチのよい耳に己の口元を近づけて囁く。
安心して、シオン、と。
「こんなに可愛い──ヒトには言えない秘密満載のキミを残して、どこかに行ったりはしないよ」と。
ひゃっ、とシオンがまた跳ねた。
アシュレは笑う。
鮫のように。
悪党の目をして。
その微笑みが演技なのか、この男の本質なのかわからなくて、シオンは震え上がることしかできない。
きゅう、と胸の奥を掴まれるような苦しさに戸惑い、背筋を走り抜けた電流のような感触の正体に思い至って、また恥じ入った。
明日、2021年9月23日は更新をお休みします(祝日ですので)。




