■第三夜:訓練場と雪片
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底冷えのする訓練場に呼気が白い。
アシュレは敷き詰められた砂に足を取られぬよう慎重に間合いを計る。
練習着は汗とそこに付着した砂で汚れている。寒さは感じない。
むしろ熱気で湯気が全身から立ち昇っている。
アシュレは呼吸を整える。
相対するシオンの胴着は対照的にまっさらだ。
平静で、呼気さえうまく確認できない。
柔らかい砂地の上にいるのに、その足跡さえ残さない。
自然体なのだが、その立ち姿に、どこにも隙を見出せない。
こうして相対していると焦燥ばかりが募っていく。
アシュレは意を決してシオンにタックルを敢行した。
もちろん掛け声などしない。
そんなことをするのはよほどの間抜けか、戦場で怯懦を払う時だけだ。
会心の入りだった。相手の腰から下を狙う超低空のタックル。
シオンの瞳には、一瞬、アシュレがかき消えたように見えたはずだ。
疾風さながら、アシュレがシオンを捕らえる。
シオンの身体に触れた、と思った瞬間だった。
まるで羽毛が斬撃を自然に躱すように、ふうわり、とシオンの身体が回転しながらアシュレの進路から外れた。
躱しようのないタイミング、間合いだったはずなのに。
次の瞬間には脚を払われ、アシュレは砂地に頭から突っ込んだ。
おかげで口一杯に砂を噛んでしまった。
たまらず吐き出しながら仰向けになる。
熱い、呼吸が苦しい。
その腹上に、どすっ、と柔らかなものが落ちてきた。
シオンである。
そこは鍛えた聖騎士の肉体であるから、さほど堪えはしなかったが、周囲にギャラリーがいればかなり恥ずかしい状態だっただろう。
「そなた、格闘技の成績、あまりよくなかったのではないか?」
出し抜けにシオンが言った。
「ぐっ。……なんでわかるの?」
「真っ正直すぎる。得物がないだけに素手での格闘戦は、駆け引きがより重要なのだぞ。虚々実々とはまさにこのこと」
「ボクの成績が悪かったのは認めるけど、シオンの動きが訳わからなすぎるんだよ。さっきだって、捕まえた、と思ったのに」
「格闘技では体躯の差がもろに出る。それが定説であり、また一面では覆しようのない真理でもある。けれども、力とその流れを理解することで、その理を覆しうる技法もあるということだ」
ゆらゆらとシオンは掌を天に向け、舞い落ちる羽毛のように躍らせた。
「羽毛や綿毛だってそうであろう? 力任せに掴もうとすると逃げてしまう。そっと手を添えて受け止めてやるほうが、掴みやすい。そういうこともあるということだ」
女心もおんなじさ。くすり、とアシュレの腹上でシオンが笑った。
「真っ正面から受け止めたのでは身がもたんこともある。そういうときは流れに手を添えて、方向を変えてやるのさ」
「なにか、前にノーマンにも同じこと言われたな……理屈はわかるんだけど、こう、向かっていく側としてはさ、どうしたらいいんだろう」
「焦りが挙動に出ておるよ。気持ちは……わかるが」
イリスのことであろ? とシオンが言外に言った。
うん、とアシュレは曖昧に答えるしかない。
アシュレは一月半ほど前に瀕死の重傷を負った。
はるか昔、ファルーシュ海の東の果てに遺棄されたはずの邪神:フラーマとの死闘を演じた、その結果だった。
いや、もし、いま腹上でアシュレにレクチャする夜魔の姫:シオンが胸を断ち割り、その臓器をわかち与えてくれなければ、アシュレは完全に死んでいた。
戦いが決着したそのとき、アシュレの右腕はなかば炭化し、胸は文字通りはぜ、心臓は消し飛んでいたのだ。
シオンはそのアシュレに、己の危険も省みず、強力な異能の力を振るって命をわけ与えてくれたのだ。
夜魔の真祖の娘であるシオンであるならば、死にゆくアシュレの血を啜ることで下僕として生かすという、もっとずっと安全で確実な手段があっただろうに。
おかげでアシュレは夜魔の下僕に堕ちることもなく、絶望的な死の縁から生還した。
もっともそれは半魔半人として再生されたということでもある。
もはや、アシュレは正しい意味での人類ではない。
その証拠に、瀕死だった肉体は、たった三週間で全快した。
それでも、それほどの時間を傷病者として過ごしていれば、戦闘の勘は確実に鈍る。
騎士や戦士たちが日夜訓練に余念がないのは、なにも民衆にその存在意義を見せつけるためばかりではない。
あらゆる職業と同じで、戦闘技能もまた、放っておけば錆びついてしまうデリケートな代物であるということだ。
たゆまぬ鍛練は道具の手入れと同じ。
それは《スピンドル》能力者であってもかわらない。
だから、アシュレはここ一月以上、鈍りきった肉体を研ぎ直すことに費やしてきた。
さずがに訓練で《フォーカス》を使用するわけにはいかないから、乗馬や戦技、そして、登山に、夜間の市中を使った探索行というメニューが、アシュレの日課だった。
その相手をシオンが努めてくれた。
普段、聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉を佩き、強大な範囲攻撃によって敵戦力を壊滅させるシオンの印象ばかりあったアシュレは、ここ一月で彼女が、そのほかのあらゆる戦技に恐ろしく熟達していることを知った。
馬術でだけ、アシュレがわずかに勝る程度。
それも愛馬:ヴィトライオンのおかげだと自覚があるから、竜槍:〈シヴニール〉と聖盾:〈ブランヴェル〉なしでは、アシュレはこの可憐な姫君にほとんど勝ち目がない。
「そなたとでは年季がちがう。そう気落ちするな。四百余年の生、そして夜魔の歴史の重みがそなたの腹上にはあるのだ。簡単に勝たれてもらってはこまる」
「まいった。ぜんぜん勝てる気がしないよ」
アシュレは肩で呼吸しながら、正直な感想を述べた。
シオンは時間の問題だと言ったが、そうではないことを、アシュレはもちろん見抜いている。
あらゆる技術はたゆまぬ修練の積み重ね。
気の遠くなるような時間投資の結晶だ。
打ち負かされた悔しさはなくはないが、純粋な敬意の前ではなにほどのものでもない。
たしかに、シオンのセンスは天稟のものであった。
だが、それを長い時間をかけシオンは磨いてきたのだ。
努力する天才にはかなわない、とアシュレは思う。
もちろん、その自分こそが世間では「規格違いの天才」と見なされていることは知りもしない。
「アシュレ」と腹上のシオンがなぜか頬を染め、そっぽを向いて呼びかけてきた。
「ん? どしたの?」
「そのだなっ、好意や敬意が伝わりすぎて、胸が苦しい。あまり想ってくれるな。平静を失いそうだ」
そうだった、とアシュレは了解した。
瀕死からの生還以来、アシュレとシオンは心臓を共有している。
普通に考えればありえないことだが、極限の異能、《スピンドル》が呼び覚ましたそれは、ときとしてそのありえない奇跡を引き寄せることがある。
次元捻転的二重体、というのだとイズマが解説してくれた。
あやとりのヒモを捻じったりして、かなり具体的なレクチャだったのだが、正直言ってアシュレにはさっぱりだ。
だが、はっきりとわかることもあった。
それは、あの日以来、アシュレとシオンの間には超常的なリンクが生まれているということだ。
考えが読める、というのではないのだが、互いの感情の動きが相手に伝わってしまう。
こんなふうに触れ合っていると、なおのことだった。
「ご、ごめん」
アシュレが慌て、シオンは腰を上げた。
そっぽを向いたまま、それなのに無言で手が差し出される。
アシュレはその手を握った。
上気しているのだろうか。ぽかぽかと温かかった。
「さきほどまでは、イリスのことが心に引っかかっておっただろう?」
アシュレを助け起こしながら、シオンがもう一度、訊いた。図星だった。
こんどは、アシュレも素直に認めた。
「ひどく辛そうだったからね。それなのに、そばにいてやることさえできないなんて」
「しかたあるまい。そばにいては症状が悪化するとあっては。それに、あまり案じすぎるな。あれは病ではないゆえに。むしろ、めでたいことぞ?」
うん、とアシュレは頷く。
そうだね、とつぶやいた。自分を納得させるように。
「父親か――はっきり言って実感がないよ」
それも無理からぬことだろう、とシオンは思う。
アシュレとイリスの間に生じた結果としての「それ」は、実際のところ真の意味でのアシュレの《意志》によるものではない。
すべては、あのイグナーシュの地の底で、イリスとしてひとつになったふたりの娘が、溜め込まれた《ねがい》をふたつの聖遺物を使い、アシュレに射込んだことにより生じたものだ。
アシュレは、その《ねがい》に操られたに過ぎない。
だから、ふたりの間に生じた現象としての「それ」が、通常考えられうる意味での、男女の契りの結果であると断言できるはずもなかった。
能力者によって練り上げられた《スピンドル》エネルギーが《フォーカス》を通じて超常の御業を可能にするように、〈デクストラス〉によって射込まれた《ねがい》が引き起こした結果が常識の範囲内に収まると考えるほうが、むしろこれは不自然だった。
それは生命の営みのカタチを偽装した――なにか、超越的な結びつきであると考えるべきだった。
そもそも、生命とそれを定義してよいものかどうかすら、わからないのだ。
けれども、そうであるにも関わらず、アシュレはそれを、自らの責任として受け止めようとしている。
父親とはつまり――すべての責任を自らのものとして呑む、というアシュレの《意志》の現れだ。
そういう男だからこそ、シオンは愛してしまったし、すこしでもその重荷を軽くしてやりたいと思ってしまうのだ。
だから、軽口を叩く。
「子供のような顔をして、とんだ色事師だこと? その上、もうひとりの女を、そなたなしでは生きていけないようにまで陥落させて……憶えがないとはいわせんぞ?」
シオンの唇に艶っぽい笑みが浮かんで、アシュレはたじたじとなる。
アシュレとイリス、そしてシオンの三人の関係が普通のものであるのなら、なにもこれほど動揺することはなかっただろう。
だが、そうではないから慌てるのだ。
なにしろ、アシュレはこの美しい夜魔の姫とイリス、そのふたりと妻妾同衾の仲なのだ。
「……やっぱり、ボクは火刑台送りだ」
これまでの経緯を思い出すにつけ、アシュレはのたうち回るような懊悩、煩悶に襲われるのだ。
不貞どころの騒ぎではない。
不実を責められ、ふたりに八つ裂きにされてもしかたがないとアシュレは思うのだが、シオンもイリスもそんなアシュレを好いている、とまじまじと言うのだ。
男冥利に尽きるといえばそうだが、それは素直には受け入れがたい評価であるのもまた事実だった。
すくなくとも大多数の女性、もちろん男性からも糾弾されて当然だ。
けれども、どこをどう間違ったものか、そんな迷図に迷い込んでしまう者たちもいるという話だ。
人生は正か否か、邪か聖かで割りきれるものではない。
ない、と信じたいアシュレだった。
「それで婚約は発表したのか?」
「うん、ダシュカマリエ大司教とノーマンには伝えた。イズマも知っているし、周囲への告知は聞かれればするけれど」
アシュレとシオン、そしてイリスの関係性の特殊性――その証拠と言えるのかどうかはわからないが、さっきまで腹場にいたシオンは、ふつうなら嫉妬や憎悪に怒り狂うところだろうに、逆にアシュレの決断を称賛さえしてくれた。
手を取り合えば、感情の動きが伝わってくるのだから互いに嘘のつきようがない。
まぎれもなく本心だった。
「挙式は?」
「イリスの容体が落ち着いたらすぐに挙げるつもりだよ。安定期に入ると落ち着く……はずだよね?」
「の、はずだがな。ふつうなら。ヒトの子のことは、あまり詳しくはない」
トレーニング・グラウンドには四隅に暖気用と照明を兼ねた篝火用のポールが用意されている。
だが、それは気休め程度だ。
岩山をくりぬいて作られた練習場の採光窓から、はらりと雪片が舞い落ちてきた。
アシュレはそれに気づき、掌をかざした。
真っ白なそれはアシュレの上気した掌に舞い降り、またたく間に溶け消える。
かすかな滴となって。
「ふつうなら、か」
アシュレのつぶやきには、どこか言い知れぬ不安が含まれていた。
強固な意志の枷に押し込めていても漏れてしまう、本音だ。
「〈デクストラス〉と〈パラグラム〉のことだな」
そのアシュレの不安をシオンは言い当てる。
すこし、吐き出させてやらねば、と思う。
その胸の内に抱える不安を共有し、共感してくれる者がいなければ、どんなに強靭な精神の持ち主でも潰れてしまう。
アシュレは強固というより、柳の枝のようにしなやかな心の持ち主だが、それでも限度がある。
だから、先んじて言葉にした。
わかっているよ、と知らせるそれは、シオンの心づかいだ。
うん、とアシュレはまた首肯した。
「滅亡したイグナーシュ王国、その王家の墓で、ボクは《ねがい》を射込まれた。《ねがい》を溜め込む器:〈パラグラム〉に充填されたそれを、《ねがい》の切っ先:〈デクストラス〉によってこの身体に注がれたんだ。
無数の人々の《ねがい》の作用によってボクは、ボクではないものに変異しかかっていた」
そして、アシュレにその所業を強いたのは他でもない――イリス本人――いまは、その記憶を失っている。
シオンはアシュレを除けば、その一部始終を知っている、ただひとりの存在だ。
「“運命を凌駕しうる王”として、か」
「“人々を善導し《救済》しうる存在の父親”として、ね」
記憶を失うより以前に、イリスは――王女:アルマと幼なじみ:ユーニスの融合体としての記憶持ったまま――そのためにアシュレと契った。
残酷なこの世界に《救世主》を生み出すため。
変えられぬものを変えるため。
この世界を変革するため。
「〈デクストラス〉も〈パラグラム〉もともに、強大すぎるほど強力な《フォーカス》だった。
そこから注がれたおびただしい量の《ねがい》の器に、あのときボクはされたんだ。
あれは強大な《ちから》だった。
まさしく、運命すらねじ曲げかねないほどの《ちから》。
だとすれば、イリスが宿した子供が、あの夜のことが無関係であるとは思えない。無関係であるはずがない」
なかば断言するアシュレをシオンはまっすぐに見た。
「《ねがい》のすべてが、悪いほうに傾くとは限らんのだぞ?」
「その《ねがい》とシオン――キミやイズマは何百年も戦い続けてきた。なぜだい?」
それは、無条件に、無制限にねだるだけで叶う――そうして、だれかにそのつけを背負わせる《ねがい》が、結果としていったいだれをどうするのか。
なにを押しつけて《ねがい》を成就するのか。
シオンもイズマも身をもって知っているからじゃないのか。
そうアシュレは問うたのだ。
けれどもシオンは答えなかった。
アシュレを気づかったのだ。
イリスのなかに宿った命を、場合によっては“敵”としてくびらなければならぬ可能性を、言葉にはできずに飲み込んだのだ。
ただ、静かに微笑んだ。悲しい笑みだとアシュレは思った。
「すまなかった。気休めを言った」
「いいんだ。イリスのことはボクの責任でもあるんだ。だから、ボクはイリスを生涯の伴侶とする。その結果がどうであれ、真っ正面から受け止める。そして、もし必要があるなら――」
決意を口にしかけたアシュレの唇を、シオンの指先が止めた。
それは「そのもしもが来た時でよい」というサインだった。
「黙っておれ。だが、その時には必ずわたしもかたわらにおるからな。そなたと、ともに戦うからな。相手が運命そのものだろうとも。最後まで」
シオンの深い紫色の瞳がアシュレの鳶色のそれを覗きこんだ。
「たどり着けるところまで行ってみようぞ」
そして、忘れてもらっては困るが、そなたに注がれた、その《ねがい》の半分を受け止めたのは、このわたしなのだからな。
アシュレを元気づけるためだろう。
胸を張り、はっきりと笑みのカタチを取ったシオンの唇に、アシュレは吸い寄せられるように己のそれを近づけようとした。
そのときだった。
「行くよ~行きますよ~、ボクちんもご一緒しますよ~、姫ぇ~」
背後の扉が開き、のんきな調子でイズマが入ってきた。
はー、とシオンがため息をつき振り返った。
「んんー? どーしたんですか? ふたりで格闘技の練習かな~? 寝技の? ふたりっきりで寝技の練習? いーけないんだー、エロいんだー。なーんてそんなこと言っちゃったりしてみてからに!」
余談だが、イズマはイリスとアシュレの関係は知っているが、シオンとアシュレが相思相愛であることは知らない。
それどころか、相も変わらずイズマはシオンを盲目的に愛していると公言してはばからない。
件の次元捻転的二重体であることを知ってなお、それは変わらないと断言するのだから、首尾一貫という意味では通りすぎるぐらいスジの通った男である。
「まー、アシュレのそのなりをみると、一方的すぎて話にならないって感じだけどね~」
「ちょーどよいところにきた」
シオンが棒読みで言った。
アシュレとの口づけを邪魔された苛立ちが言葉の端にちらちらと乗っているのだが、イズマは気づきもしない。
よいところにきた、という言葉の意味をそのまま受け止め、軽薄な笑顔をさらに広げた。
「でしょでしょ、ナイスでしょ? ボクちん、タイミングを間違えるということはしない男でしょ? ベリーナイスなタイミングでしょ?」
「ナイスナイス、ベリーナイスだな」
「ちょっと待っててくださいねー、着替えてきますから。お相手、替わりますよ。やっぱアシュレくんじゃ、まだちょっと姫のお相手はねー」
ものすごい勢いで勘違いし、イズマは手にしていた手紙をシオンに渡すと稽古着に着替えに行ってしまった。
「うるさいのに捕まったな」
あきれて果てて、その後ろ姿を見送る。
アシュレはそう言うシオンの肩に毛皮のコートを無言で羽織らせた。
はるか北方、黒曜海のさらに北側から送られてきたのだというクロテンの毛皮で作られたそれを、アシュレはシオンに贖った。
襟元には特に柔らかな毛質のこちらは白い毛が使われていて、どこかシオンの使い魔であるヒラリを思わせる。
イリスには色の配分が逆転しているものを送った。
装飾にはさまざまな鳥類の羽が使われていて、シオンをその化身のように彩っている。
「イズマにはボクの相手をしてもらうよ」
「練習熱心なこと」
「市街地や人口の密集している場所では〈シヴニール〉は使えない。隠密にもまったく向いてない。雷みたいな閃光と轟音で嫌でも居場所が知れてしまう。
敵がボクらにとって有利な交戦点を選んでくれるとは限らない。むしろその逆の方がずっとありうる。
この間、フラーマの漂流寺院で思い知ったよ。
特にボクらはいま、お尋ね者の潜伏中なんだ。静かな戦い方も学んでおかないと」
「よく考えておるではないか」
「大事なヒトを護れない騎士なんて、存在意義がないからね」
「まあ、その保護対象であるべき女に、ころころと転がされておるようではな?」
シオンがさらりと言い、アシュレはがくり、とうなだれた。
「おっしゃるとおりです」
「わたしを転がすのに、そなたなら指一本使わずとも容易いというのに」
「?」意味が判らず、アシュレはただぽかんと口を開けた。
「ただひとこと『ひざまずけ』と命じればよいのだ」
あまりのことにアシュレは、ぱくぱくと陸に上げられた鯉のように口を開閉させた。
鳩が喉を鳴らすように、シオンは笑う。
「口先だけと思うのか? 遠慮はいらぬ。試してみるがよい」
艶やかにシオンが笑い、アシュレに向き直った。
そっ、とアシュレの砂にまみれた手を取る。
さあ、と唇だけが動いて、深い紫の瞳が見つめてくる。
ごくり、と唾を飲み込む音がやたらと大きく聞こえ、アシュレは動揺した。
ひざまずけ。
アシュレが意を決して、その最初の一音節を口にするかいなやだった。
「おまたせ~! いやいやいやいや、お待たせしてしまいましたね~!」
背後のドアが開き、着替えたイズマが再登場した。
シオンは口元を抑え、身をかがめて必死に笑いを耐えている。
気配に敏感なシオンのことだ。
このタイミングを見計らってのことだったのだろう。
引っかかったアシュレは、いい面の皮だ。
仏頂面になり、アシュレはイズマの方へ挑むように、シオンから逃げ去るように歩いて行く。
「だが、さっきの話はほんとうだからな」
小声でそっとシオンが言い添えるので、アシュレはますます肩をいからせてイズマに挑むしかなくなるのだ。




