■第一〇九夜:思慕は嵐のごとくに
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「そなた、アシュレ、いきなり飛び出すなどとあれほど言ったではないか。心臓が弾けるかと思ったぞ」
アシュレは宝刀:シュテルネンリヒトに切り捌かれた世界の境界に足をかけ、聖盾:ブランヴェルとともに舞台裏に転がり込んだ。
空の破片がアシュレの動きに引きずられるようにこちら側に幾枚か落ちて、光の粒子になりながら溶け消えた。
「本当に際どいところであったのだぞ。反省するがよい」
すんでのところで舞台裏に帰還できたアシュレは、その途端、待ち受けたシオンにすがりつかれた。
冷えきった身体に、強ばった四肢ががくがくと震えていた。
走り回って息があがっているのがわかるのに、その全身は冷たい汗でぐっしょりと濡れている。
まるで冷水のなかで、血液を大量に失ったようだと思った。
どれだけアシュレを案じ、その喪失を恐れて、救い出すために駆け回ってくれたのか。
言葉など介さずともその全身から痛いほど伝わってきた。
「ごめん。ごめんよ、シオン。でも……助けられなかった。だれも助けられなかったよ」
アシュレはいま、雨に打たれ濡れそぼった仔猫のような夜魔の姫の抱擁を感受しながら、彼女の自室に備え付けられていた大きな暖炉の内壁に、身体を預けている。
あの時空におけるスノウの娘:フラウは、オルガン世界の再構築に取り込まれた。
伸ばしたアシュレの指は、硬質な拒絶に阻まれた。
あれは死ではない、とシオンは解説した。
きっとまたなにか要素を弄られて、すこし趣向の違う地獄をフラウは再び体験することになるのだろう。
彼女の恋する対象が変えられてしまったり。
そうたとえば、父親:エクセリオスに恋をする、とかだ。
その道行きがどうであろうと、オルガン世界はあの場面とエクセリオスに集約するしかない。
今回、アシュレが入れた横槍がどんなふうに物語に組み込まれ修正利用されるのか。
そこまではわからないが、もう一度あの世界を訪うのは難しいだろうと思えた。
世界の崩壊と再構築は舞台を取り巻いている背景要素、つまり舞台裏にまで及んだ。
その結果、オルガン世界に繋がる舞台裏の構造は、まるでアシュレの再来を拒むかのように複雑怪奇になってしまった。
たぶんそれは、あの時空の創造主であるエクセリオスが、発端であるアシュレの存在を認識したからだ。
実際のところ、アシュレとシオンの自室への帰還は、その大崩壊と再構築によって組み替えられていく順路を駆け戻る逃避行でもあったのだ。
難業をやり遂げ、安全であるはずのシオンの部屋──バラの巣──に辿り着いても、胸の内にわだかまる後悔は晴れなかった。
「あのときボクにもうすこし《ちから》があったら。いや、アレンとフラウがエクセリオスと対峙したときすぐに加勢に飛び降りていたら……きっとなにか変えられたはずなんだ」
「そなた、まだそんなことをッ!!」
呆然と宙を見上げ、荊のツタを薪にして燃える、薄暗い暖炉の炎の照り返しを眺めてアシュレは呟いた。
それに対する叱責は平手打ちと同時だった。
パンッ、と頬を張られた。
アレンやフラウへの未練と後悔に囚われていたアシュレは、それで初めてシオンが泣いていることに気がついた。
「シオン?」
「バカ、バカバカバカバカバカッ、大馬鹿者ッ! そんなことがどうだというのだッ! オルガン世界がどうだというのだ! そんなことどうだっていい! わたしにとってはどうでもいいことだ! それなのに! いまのはそなた、そなたが消えてしまうところだったのだぞ?! わたしは注意した。あらかじめ厳しく戒めた。うかつに場面に飛び出るなと! わたしの許可なく動くなと!」
夜魔の姫は激昂していた。
こんな彼女をアシュレは初めて見た気がする。
いや、はじめてもなにも、こちら側のシオンとはまだ出会ったばかりなのだが。
「そなたが言うように、たしかにこの世界はエクセリオスが魔導書を使い紡ぎ出している可能性世界の連続──隣り合う泡の連なりのような世界なのだろう! だが、そこに放り込まれたそなたは、そんな可能性世界の物語の登場人物とは違う! 唯一無二の発端なのだぞ!」
馬乗りになったシオンが唇を戦慄かせた。
取り返しのつかない、かけがえのないものをそなたは粗末に扱ったのだ、と。
「発端であるそなたが、可能性世界の再構成に取り込まれてしまったらどうなる?! どうなると思うのだ?! わたしがなぜ、これまでずっと戦ってきたのか。その意味が……どうしてなのか、わからないのかッ! いや、いいや、そんなことはどうでもいい!」
胸ぐらを掴まれた。
これほどまでに感情を剥き出しにして怒りを隠そうともしないシオンの顔を、もしかしたらアシュレは初めて見たかもしれない。
「わたしがッ! わたしにとって! そなたが、アシュレダウという男がどんなに大切な存在なのかわからないのかッ?!」
どんっ、と拳が胸に振り降ろされた。
力の乗った本気の一撃。
一瞬、息が詰まった。
「そなた自分で言ってくれたではないか。残酷にもフラウを目の前にさえ告げたではないか。わたしは自分の半身だと。鳥の片翼のようなものだと。それを失ったら、もう自分自身では、アシュレダウではいられないと──言ってくれたではないか!」
同じだ、とシオンは言った。
「そなたが失われてしまったら、どうやって生きていけばいいのか! わからなくなってしまうのは、わたしだって同じなのだぞッ?! あの世界のスノウと同じだ! 狂うに決まっているではないか!」
ぼたぼたぼたぼた、と大粒の涙がアシュレの胸元を盛大に濡らした。
水差しをひっくり返したように夜魔の姫が泣いていた。
シオン本来の情の深さにスノウの感情発露が加わると、こんな風になるのだ。
わけのわからない衝動にアシュレは震えた。
「シオン」
以前、現実のシオンからほとんど同じ内容を、告白されたことがある。
あれはフラーマの漂流寺院での戦いのあとのこと。
カテル島の山の上にある天文台でのことだ。
彼女が胸を割り断ち、爆ぜてがらんどうになってしまったアシュレの胸のなかに心臓を与え、共有してくれたおかげで生き延びた。
あのときアシュレは彼女と約束した。
いずれか灰に還るその日までともにある、と。
その記憶を、この世界のシオンは、先だって啜ったアシュレの血から受け継いだのだ。
夜魔の一族は血に溶けた《夢》を、自らの体験として味わうことができる。
高潔に誇り高く生きた人間の血を彼ら彼女らが求めるのは、ただ美味であるからだけではない。
それが与えてくれる《夢》の熱が凍てついた心臓を動かし、永劫の刻の牢獄を乗り越える助けとなるからだ。
現実の夜魔の姫が現に戒めてきた吸血、その禁を破ることによって、こちら側のシオンは発端たるアシュレのこれまでの人生を追体験したのだ。
そして彼への想い──永劫の恋の呪いまでも補完してしまった。
だから、オルガン世界に降り立ち自らの可能性の息子であるアレンと娘のフラウを救い出そうとしたアシュレは、なるほど、ふたりの間で結ばれたその約束を軽んじてしまったことになるというわけだ。
灰に還るその日までともにいるという。
たとえそれが騎士の行いとしてはどれほど正しかったとしても、許されることではない。
そう責められたのだ、とやっとわかった。
普段通りのアシュレなら、その叱責を素直に受け止めただろう。
それどころかシオンからの愛の告白と同然と理解できたはずだ。
今日に限って違う受け取り方をしてしまったのは、アシュレ自身がすでにこれまでの道程のなかでひどく傷つき、渇いていたからに違いなかった。
オルガン世界におけるシオン喪失の真相を知らされた。
その直後にスノウの顔をした娘を失った。
愛するものを立て続けに失うという過酷な洗礼を、たとえそれが物語の筋立てに過ぎないとしてもアシュレは経験してしまった。
あのとき抱いた絶望と焦燥感。
怒りにも似た獰猛な衝動が、腹の底から突き上げてきた。
ボクがいなくなったら狂うだって?!
先にいなくなってしまったのは、キミたちのほうじゃないか!
想いが言葉ではなく、身体を突き動かした。
たぶん、このときアシュレは眼前のシオンと、発端である現実のシオンとの境界線を見誤ってしまったのだ。
もちろんこれも彼女がアシュレの血を摂取してしまったことに起因する。
永劫の恋の呪い、その完全な記憶を彼女は受け取ってしまった。
知り過ぎてしまった。
だからアシュレの肉体は本能の部分で目の前の彼女──シオンとスノウの因子を受け継いだ夜魔の姫──を永劫の恋の呪いの対象者として認識してしまった。
実のところ、ここに至るよりもずっと以前に、アシュレの我慢は限界を振り切れていた。
こんなにも長くシオンの不在に平気でいられるはずがなかったのだ。
ただ、戦隊を預かる者として、またシオン以外の女性からも愛を捧げられる者として、それを表に出すことをアシュレは自分に許さなかった。
戦隊の運命よりも、かたわらで献身的に尽くしてくれるアテルイやレーヴやアスカリヤ、そして真騎士の妹ふたりのことよりも、ただ不在であるという理由だけでシオンを優先することなど、ほんのわずかでも出来るはずがなかった。
自分はすでにあの戦隊のリーダーなのだ。
そんな勝手は許されない。
責任を全うしなければならないと感じていた。
これこそが責務だと考えていた。
だから断腸の思いで踏みとどまり、シオン以外を優先してきた。
疲弊した戦隊を建て直すべく奔走し、上水道の機能を復帰させ、厨房に潜むオーバーロードとも汚泥の騎士たちの地下帝国とも戦い、妹たちを救って勝利を収めた。
獅子奮迅、八面六臂の活躍と言って差し支えないだろう。
だがだからこそ、もはや己を律することがアシュレには出来なくなっていた。
本当はもっとずっと以前にすべてを放り出してでも、彼女を捜しに行きたかったのだ。
長過ぎたシオンの不在と、目の前にいる彼女の体温、匂い、存在のすべてがアシュレを揺り動かしていた。
強烈に彼女のぬくもりを意識する。
シオン、とアシュレは唇を噛みしめた。
キミはどこへ行ってしまったんだ。
ボクを置いて。
いま膝の上でアシュレのために泣いてくれる彼女を通して、アシュレはいなくなってしまった本当のシオンに訴えかけた。
怒りをぶつけるように。
それが理不尽な感情なのだとは、わかっていた。
ここにいまこうしてシオンとアシュレが、かろうじてにしても存在するためには、あの瞬間──エクセリオスが受肉しアシュレを《理想》の代償に獲りにきたあのとき──こうするしかなかったのだと、頭ではわかっていた。
目の前の彼女が、正確には完全な意味でのシオンでは、ないことも。
それなのに、想いを止められなかった。
言葉などではなく、行為によってシオンの実在を確かめなければ、もはや耐えられなかった。
その不在を。
がらんどうな心を。
埋めずにいることはできなかった。
いまも共有されているはずのふたりの心臓を、アシュレは強く意識した。
これまで積み重ねられてきたふたりのすべてが、半身とひとつになることを希求していた。
それをあえて渇望と表現しよう。
震える手が、膝上のシオンを掻き抱く。
手荒く。
性急に。
なんの断りもなく、承諾も承認も踏みにじって、武具を握る鍛え上げられた騎士の両手が、指が、シオンを割り裂きこじ開け、攻め入った。
夜魔の姫には声を上げる暇さえなかった。
気がつけばアシュレは自分とシオンとを隔てるすべてを、引きむしりにかかっていた。
ふたりの間に境界があることが許せなかった。
美しく堅固なそびえ立つ白亜の城のごときシオンのすべてが、いまアシュレにとっては打ち壊し略奪すべきものだった。
攻め入り、蹂躙して、思い知らせなければならなかった。
そなたを失ったら狂う、だって?
それはボクのセリフだと。
ボクがもうすでに狂いかけているのがわからないのか。
キミがいない日々に、どうやってボクが耐えていたと思うんだ。
どうしてもそれを、この高慢でだからこそ高潔な、なにもわかっていない無垢なシオンに思い知らせなければ済まなかった。
踏みにじり、自分の印を刻まなければ許せなかった。
だがそれは実際、シオン自身も望んでいたことだったのだ。
限界だったのは彼女も同じだった。
手荒く組み伏せ、手酷く確かめ、手折って欲しい。
アシュレのなかにある激しい飢えのまま、自分を確かめ、貪り尽くして欲しい。
ずっと深い場所でひとつにして欲しい。
そっと、ではダメだった。
あらんかぎり、非情なまでに、暴力的でなくては。
そう心の底から望んでいたはずだった。
ただ、このときだけは事情が違ったのだ。




