■第一〇六夜:虚構の娘
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「あっ、あなたはだれっ、ですか」
思い出したように飛び退いてフラウが叫んだ。
ソリの要領でフラウを乗せたまま、どれほど聖盾:ブランヴェルを走らせたか。
ヒースの野を突っ切り、巨岩の上に築かれた古い城塞都市の廃虚にアシュレは身を隠した。
この世界ではエクセリオスが進めた純化政策のせいで人口が減少し、ゆっくりと衰退が始まっているらしい。
本当の自分に辿り着いた人類が、同類を増やしているせいだ。
道ながらそうフラウが教えてくれた。
フラウはほとんど茫然自失で、こちらが問えば薬で自白させられてでもいるかのように虚ろに答えた。
アシュレは温めた葡萄酒を手渡してやった。
その温かさにやっと人心地ついたのか、我に返った彼女はヒトとしての反応を取り戻した。
それがよかったのかどうか、わからない。
こんここん、からからからん、とまだすこしワインが入っていた木彫りのカップが、地面に転がって音を立てた。
そのまま無人の城塞都市の石畳の坂を転がり落ちて行く。
アシュレはその音を聞きながら答えた。
「ボクの名はアシュレダウ。アシュレダウ・バラージェ。この世界の……外側から来た」
信じられないものを見るような顔をフラウはした。
それはそうだろう。
アシュレは同情を禁じえない。
「この世界の外側……。アシュレ、アシュレダウ。エクセリオスと同じ顔、同じ声、同じ名前……アレン兄さんの匂いも、する……。だれ、だれなの、本当のことを言って」
思考が堂々巡りしている。
無理もない。
いきなり自分の生きている世界は作り物だとか、キミの父:エクセリオスは自分の姿を模した偽物だ、などと言われてすぐにも信じられるわけがない。
混乱し、錯乱する。
アシュレだって自分がフラウの立場だったら必ず同じような反応になったはずだ。
ましてや彼女はいま、ほぼ唯一の肉親──倒すべき敵としてのエクセリオスではなく──である兄:アレンを失った直後だ。
死ではなく、もっと残酷な離別によって。
アシュレはことさら丁寧に、もう一度、名乗った。
己と、己がどこに属するものなのかを。
「ボクは別のアシュレだ。エクセリオスではない。別の世界のアシュレダウだ」
「別の世界の……アシュレダウ。スノウ母さんが、いつも言ってた……」
どうしても唐突にならざるを得ないアシュレの言葉に、フラウの瞳がまた焦点を危うくする。
スノウの名が出てきて、アシュレは思わず身を乗り出していた。
そうアシュレは本物のスノウがいまどこにいるのかも突き止めなければならなかった。
存在の閉じ紐を失いバラバラになってしまったというこの世界の彼女が、スノウ本人ではないと信じたいが、それも確かめる必要がある。
すこしでも情報が欲しかった。
「スノウがボクのことを? ぜひくわしく教えてくれないか、そのこと。スノウのこと、そして彼女がいつもどんなことを話していたのか」
気がつけば急き込んでいた。
そんなアシュレに怯え、フラウは逃げるように城塞の壁の端に身を寄せた。
ふたりは鋸壁の凹部分に腰掛けるようにしてワインを飲んでいたのだから、うっかりすると五〇メテル以上ある岩肌の下へ真っ逆さまだ。
しかし、それでも構わないという心の動きを、アシュレは彼女の瞳から読み取った。
「まて、まってくれ。それ以上はいけない。キミが危険だ。急ぎ過ぎたボクが悪かった」
「母さんはいつも言ってた。エクセリオスは本当のアシュレダウじゃないって。あのヒトは違うって」
虚ろな、しかしどこかまくしたてるような口調で、フラウは回想した。
追いつめられたその表情がスノウそっくりで、アシュレはひどく狼狽した。
エクセリオスが本当のボクじゃないことを、この世界のスノウは知っていた。
きっとそれは魔導書:ビブロ・ヴァレリの権能だろう。
だがだからこそ、彼女はこの世界に馴染めず、ついに壊れたのだ。
「スノウが? それで彼女はどうなったんだ?」
「本当のアシュレダウは、わたしなんか愛してくれるわけがない、って。エクセリオスが去って、おかしくなった母さんはいつも言ってた」
わたしなんか愛してくれるわけがない、って。
あれはわたしたちが造り上げた愛しいヒトのまぼろしなんだって。
自分の肩をその細い腕で抱きながら言うフラウの姿が痛々しかった。
この世界のエクセリオスが、アシュレを元に再構成されそこから推測された未来の人物像であるなら、こちら側のスノウにも現実世界の彼女の因子が色濃く影響しているのはもはや間違いあるまい。
だとしたら。
いまのフラウの言葉が本当なら、この世界のスノウはエクセリオスが本当のアシュレではないと見抜きながら身を任せたことになる。
本物のアシュレの心は自分の上になどないと知りながら、だからこそ可能性存在であるエクセリオスと契った……。
結果としてアレンとフラウは、ふたりの子供としてこの世に生を受けた。
「スノウ……」
「母さんはずっと自分を責めてた。エクセリオスを繋ぎ止めておけなかったのは自分のせいだって。あのヒトのかけがえのないものになれなかったって。行かせてしまったって……ひとりで」
寒さに凍えて青くなってしまった唇を震わせ、フラウが言った。
もうすぐ日が沈む。
眼下に広がる荒野はすでに闇のなか。
高台にあるこの城塞都市だけがまだ光を浴びていた。
彼女の歯の根が合わないように、ふたりの会話もチグハグだったが、それはいまのフラウの精神状態そのものだったのだ。
「あなた、ほんとうはだれなの? ねえ、ほんとはなんなの? アレン兄さんがあんなふうになって、スノウ母さんがバラバラになって、エクセリオスが、父さんがあんなあんな……あんなふうに」
あぶない、とアシュレは思った。
フラウの精神は失調の一歩手前だった。
とっさに戦闘従事者としての動きで、フラウを捉まえていた。
抱きすくめ頭を抱え込んで、胸に押し当てる。
僅かな抵抗を、腕力で押さえ込んだ。
動けないように、そうでありながら間違っても傷ひとつつけないように、細心の注意を払って。
フラウが反射的に発動させた《スピンドル》のことごとくを《カウンタースピン》で解除する。
あう、あうあ──フラウがうめく。
甘える子供のように、胸に顔を埋めて首を振る。
抵抗はみるみる弱まり、最後には逆にしがみつかれた。
自分の心を噛み殺すような声で、告白された。
「わたしが、わたしが望んだから。兄さんのこと好きになってしまったから。兄さんと一緒になれないのはこの世界のせいだから、そんな世界を変えようと思ったから。だからこんなこんなこんなことに、なったの? これがわたしの罰なの?」
無理もない。
今日、彼女は、この世界で唯一の縁を失った。
それもあんなカタチで。
兄:アレンの本当の望みを見てしまった。
自分の器ではとうてい抱え切れない、巨大な感情の波に押し流されていく小舟のように、罪を告白するフラウをアシュレは抱きしめた。
もういない最愛の兄の因子──その特徴を最も強く保持し続ける発端の存在に当てられ、フラウは堰が壊れてしまったかのように胸の内を吐露し続ける。
アシュレは強く抱きしめ、黙ってその嘆きを受け止め続けた。




