■第二夜:“運命の子”
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「これまでの経験則から言うと、つわりというものは、女性の甘えの強さに比例する傾向がある」のだと介添えの老尼僧に教えられ、イリスはひどく恥じ入ってしまった。
それが本当か嘘かわからないが、この世の終わりかと思うほどひどい吐き気に、いままさに悩まされているからだ。
味覚と嗅覚が変わり、匂いにやたらと敏感になった。
大好きな焼き立てのパンの香りが、もういけない。
想像するだけで、こみあげるものがある。
ビールやワインを使った煮込みものもいけない。
ワインは当然飲めないが、近くで香りがするだけで完全にアウトだ。
すこし日が経ったパンを、温めてすこしだけ塩と胡椒を振ったミルクに浸して食べる。
オリーブオイル、それから温野菜も大丈夫だ。
それでも量が食べられない。
だが、なにより、耐えられないのはアシュレとシオンに会えないことだ。
アシュレの顔を見ると、つわりが酷くなる。
身体が無意識に甘えているのだろうか?
かまって欲しい、わたしを心配して欲しい、と。
抱きしめて甘やかして欲しい、と。
そういう自身の性根にイリスは身悶えするほど恥じ入るしかない。
なんて浅ましいのだと。なんて惰弱なのだと。
だから、面会を断った。
かわりに手紙を書く。
アシュレからの返信が一日、一通か二通届く。
それで寂しさを紛らわす。
意外だったのは、アシュレはともかくシオンに会えないことが、同じくらいつらく感じられたことだ。
夜魔の姫、それも最上位種である真祖の直系の娘であるシオンとイリスは、この二ヶ月で急速に仲を深めた。
友人として、また、同じ男――アシュレを愛した女として。
シオンのアシュレに向けるひたむきで献身的な愛は、その峻厳な意志の城塞に秘されていて普段こそ外側からはうかがえないが、イリスはその強さ、深さを知っている。
ふつうの女なら、最愛の男が別の女も同時に愛していると知ったなら、嫉妬や憎悪に狂うところだろう。
だが、なぜだかイリスはシオンに関してそんな感情を抱くことがまったくできない。
シオンがアシュレを深く愛していることを知れば知るほど、またアシュレのシオンを想う気持ちを知れば知るほど、シオンのことが好きになるのだ。
敬愛の念が湧いてくるのだ。
そして、それはシオンも同様らしい。
打ち解けて話せる友人、それも女性の、というものが少なかったのだと告白したシオンは、胸襟を開いてイリスを受け入れてくれた。
会話、という事柄に限るならアシュレと話す数倍以上の時間と内容を、出会いからすれば、ほぼ二ヶ月の間にイリスはシオンと共有してきたのだ。
人類の敵対種、いや、仇敵とさえ見なされる夜魔の姫であるシオンは、アシュレとの関係を公にはできない。
アシュレの立場を危うくするからだ。
シオン自身がイリスに告げた――わたしは影の側だ、と。
だから「光の側」を託してくれているのだとイリスは了解した。
我らは運命共同体だな、と握手を求めてきたシオンの手をイリスも握り返した。
それなのに、そのシオンとさえ会えずにいる。
それがたまらなく、つらい。
シオンの体臭のせいだった。その清冽なバラの香気のせいだ。
奥深く嗅ぐと美しいワインのようにすら感じられるそれが、イリスの症状を誘発する。
香水などではなく、その身の内側から発される薫りだ。ごまかしようがない。
最近はそこにアシュレの匂いが重なっているのを感じ取るから、よけいだった。
かわりにイズマが話し相手になってくれる。
イリスはこの軽薄さを装った土蜘蛛の王が、アシュレの次に好きになった。
精神の融合体であるイリスの前身、ふたりの女性――アルマとユーニスが想っていたのがアシュレでなかったなら、きっとこのイズマに恋をしたのではないか、とイリス自身が思うほどだ。
「ほらっ、リンゴ、剥けたよ」
するするとそれはもう見事な手さばきで、リンゴの皮を剥き終え、驚くほどカタチの揃った櫛切りにしてイリスに差し出してくれる。
リンゴはいまのイリスの胃が受付けてくれる数少ない食べ物だ。
それでも香気の強い皮をわざわざ剥いてくれたのは、イズマの気づかいなのだ。
「すごいっ、カタチが全部そろってる。イズマ、もうどこでもお嫁に行けますよ」
「そうかしら、もう八百歳越えてるけど、こんなアタシでもイケルかしらっ」
くねくねっ、としなを作るイズマがイリスの寂しさを紛らわそうとしてくれていることは明白で、イリスはますますこの奇妙な男を好きになってしまうのだ。
あはは、と声にして笑ってしまう。
「ちょっとはマシかい?」
「いまは。イズマが来てくれたから」
「惚れるなよ、お嬢さん。キミには心に決めたヒトがいるじゃないか」
「寂しさに負けちゃうかも、です」
イズマとの冗談を応酬する間合いもわかってきた。
イズマの下世話さは、その底なしに優しい心の発露なのだ。
自分が下になることで相手をかばってくれている。
「ボクちん、秘密は守る主義だよ」
「態度でバレるタイプですよね、イズマ」
ふたりは他愛もない会話でひとしきり笑った。
リンゴをひとかけずつ食べる。
「それで、ぶっちゃけ、どうなの?」
そっとイズマが切り出したのは、その頃合いだった。
なるべく軽く、負担にならない口調を選んで。
「正直、かなりキツイです。身体が、全身が軋んでる感じ。嵐のなかで翻弄される帆船の気分です」
そんなイズマにだから、イリスはだれにも言えない本音をこぼしてしまうのだ。
イリスはイズマに自らの過去をすべてさらした。
ふたりの女性、アルマとユーニスの精神の融合体であるイリスには過去の記憶がない。
かわりに、毎晩、悪夢・淫夢となってその記憶は、イリスを翻弄する。
すなわち亡国:イグナーシュの没落した姫君であったアルマと、アシュレの従者であり恋人であったユーニスの、双方の記憶がだ。
幼少期、革命によって王宮を焼かれ、男たちの慰みものになり続けたアルマの記憶が、イリスに自身の肉体の恥ずべき由来を教えた。
なにも知らなかったイリスは戸惑う間もなく組み伏せられ、従うよう、過去の記憶によって調教された。
名門貴族に仕える執事の家系に生まれたユーニスの記憶が、自由に恋することさえかなわないこの世の理不尽を教えた。
想っても想っても届かない理不尽を、過去はまっさらだったイリスの心に馴致した。
不遇なふたりの女性の想いは、やがてひとりの男に集約してゆく。
アシュレダウ――アシュレという男に。
イクス教の尼僧となったアルマはその好意を無理やり押さえ込もうとし、いっぽうで、聖騎士となったアシュレに一生尽すため、ユーニスはその純潔を捧げた。
だが、数奇な運命に翻弄され、暗い絶望の底で、アルマとユーニスは融合という希望の灯火にすがりつく。
偽ることのできないアシュレへの愛がために。
そして、猛毒に侵され瀕死であったアシュレを救うため、一対の強大な《ねがい》の収束器:〈パラグラム〉と〈デクストラス〉を持って、アシュレに自らの《ねがい》を注ぎ込む。
強大な支配者として、アルマとユーニスの主人として、王としてアシュレの君臨を望んだ。
そして、その証として《世界》を変革しうる“救世主”の到来を、その母となることで実現しようと目論んだ。
その《ねがい》をアシュレに押しつけた。
どうしようもない羞恥と罪悪感、そしてひど過ぎる身体の軋みと戦いながら、イリスはそのすべてを、心の整理のために描いたスケッチの数々とともにイズマにさらした。
無言でそっと抱きしめられたとき、イリスは声をあげて泣いてしまった。
「これは、その罰ですよね」
まず、母体を危険にさらす危険性をイズマは、はっきりと指摘した。
それを避けるために取りうるべき処置、そのための処方箋や薬品は土蜘蛛の領分であることも、イリスは充分に心得ていた。
お伽噺の“取り替え子”や、家系を絶やす呪い、それらを扱う魔人・魔女の役割には土蜘蛛の意匠が取り入れられることが、ほとんどだったからだ。
けれども、そのあとイズマが続けた言葉は、イリスの予想とは真逆だった。
「キミは、どうしたいのさ」
自分の《意志》を問われた。因果や経緯よりも優先して。
「――会いたい。そして、この世界を見せてあげたい、です」
だから、はっきりと言葉が出た。その後で泣いてしまった。
「そう」
イズマの返事はそっけなかった。
解決法を提示するでもなく、なにか特別な薬品を調合してくれるわけでもなく。
ただ、きちんと《意志》を受け止めてもらえたのだという実感だけがあった。
イズマは態度でこう言っていた。
「ボクは替わってあげられないよ」と。ただ、イリスを「否定もしない」と。
充分だと思った。口汚く罵られて当然のことをイリスはしたのだ。
それなのに、イズマはそうしなかった。
それどころか、アシュレとシオンに替わり、日に三度も顔を出してくれる。
他愛もない話をしに来てくれる。
感極まって、また涙腺が緩みそうだ。
こつこつ、と控えめなノックが響いたのはそのときだった。
「はーいはーい、だいじょぶですよー」
イズマの能天気な声に、しばらくして分厚い木製のドアが開いた。
身体を文字通り捩じ込んできたのは巨躯の男、ノーマンだった。
一組の少年少女たちがその足元にはいる。
ノーマンの両腕には強大無比の《フォーカス》:〈アーマーン〉がはめ込まれている。
だが、強大な破壊力を誇る〈アーマーン〉は平時にはカテル島大司教位:ダシュカマリエによって厳重に封印、管理されているはずの代物だった。
その際の不便を、ノーマンは交代で彼の面倒を見てくれる少年少女たちに肩代わりしてもらっているのだ。
けれども、今日、それはすでにノーマンの両腕として、そこにあった。
手の甲で目尻を拭ったイリスは、その後ろに続く人影も認めた。
美しい立ち姿だった。
研ぎ澄まされた《意志》が僧衣の奥から立ち上っているようにイリスには見えた。
たおやかな女性であることは明白なのに、受ける印象は歴戦の戦士のそれのように峻厳だ。
物々しい銀の仮面が頭頂まで彼女を鎧っていた。
それは仮面というより王冠か、突き立ったモニュメントのように見える。
色素の薄い銀紫色の瞳がイリスを視ていた。
他に誰あろう、カテル島の大司祭位:ダシュカマリエ・ヤジャス、そのヒトだった。
「よっ」とその大司教に気軽に手を挙げるイズマの度胸には、敬服すればいいのかどうか、イリスにはわからない。
「ごきげんよう、と言いたいところだが、だいぶ憔悴しているようだな」
イズマに軽く手を挙げ、ダシュカマリエがイリスの傍へとやってきた。
口調は硬いが、イリスの身を案じてくれていることが伝わってくる。
ダシュカの纏う薬湯の匂いがイリスを安心させてくれる。
そのダシュカマリエの肉体に、イズマが無遠慮な視線を浴びせた。
「つか、あいかわらず、いい乳、いい尻――がっ」
「ん?」
いつのまにか、椅子を譲るふりをしてダシュカの後ろに回り込みハラスメント行為に及ぼうとしていたイズマを、ノーマンが撃墜した。
異能だった。出力を絞った《スコウド・オーバーベアリング》。
完全に効果を発揮すれば「叱責」の名の通り叱りつけたかのように、肉体の自由を失う。
それがイズマの額を打った。
「あたっ」
「どうした?」
「いえ、害虫がいたようなのですが。見間違いでした」
ノーマンがしれっと言い放ち、イズマは額を押さえ、ダシュカはその様子にすべてを悟ったらしく微笑んだ。
「害虫に見向きもされぬようでは花とはいえまい?」
「それを手入れするのが園丁の仕事でしょう」
ノーマンの答えに、ダシュカの赤い唇に浮かんでいた笑みが艶然としたものになる。
「ちょっと、痛いじゃないのっ!!」
「すまん、害虫と見間違えた」
「なにおう」
たぶん、じつはいいコンビなのであろうイズマとノーマンのやりとりを無視して、ダシュカは椅子にかけ、イリスの手を取った。
脈を診る。
「つらいか?」
すべてを見透かすような眼差しを向けられ、イリスは内心縮こまるような思いをしたが背筋を伸ばして答えた。
「ええ、でも、自分で決めたことですから」
ダシュカマリエはイリスの過去を知らない。知らないはずだ。
イリスがあのスケッチを見せたのはアシュレと、シオンと、イズマだけだ。
だが、予知予言の奇跡をその身に帯びるというこの大司教が、どこまでイリスのことを知っているかは、実際のところ、まったくわからなかった。
「その覚悟は立派だが、《意志》の力だけで乗り越えられることなど、この世にはほんのわずかでしかないよ」
にこりともせず、ダシュカが言った。
冷酷なのではなく、その現実を受け止めてきた人間だけが獲得する重みがその言葉にはあった。
「実際、イリス、キミの消耗はかなりのものだ。そうだろう、土蜘蛛の王?」
ノーマンとの不毛な口論を続けていたイズマが、一瞬固まり、振り返った。
「そうだね。それは認めるよ。もしかするといずれ母体が危機に陥るかも、ってくらいは認識してるよ」
ふむ、とダシュカはイズマをまじまじと見て言った。
「その見立ては正しい。わたしも同じ結論だ。なぜ処置しない?」
「得意分野が違うからさ」
なるほど、とダシュカは頷いた。この場にいる全員を気づかった態度である。
それからイリスに向き直ると、真剣に言った。
「イリス、もう一度、キミの《意志》を確認したい。どうしてもキミはそのお腹の子供を、この世に送り出したいか?」
「もちろん」
イリスは即答した。
「その手助けを、わたしにさせてはもらえまいか」
だが、その申し出には、さすがにイリスも驚いた。
ダシュカはことの経緯を詳細までは知らない。知らないハズだ。
それなのに、どうして協力を申し出てくれるのか、わからなかったからだ。
「どうして?」
「大司教位となるまで、わたしはカテル病院騎士だった女だぞ? キミの胎内に宿る子供が、ただのそれでないことなど、すぐにわかる。《スピンドル》を通して診察すれば、もっと詳しくわかるだろう」
一拍おいて続けた。
「この子は“運命の子”だ――そうだろう?」
イリスの手を握ったまま、ダシュカが言った。
白銀の仮面を頂いたダシュカこそ、聖女のようにイリスには思えた。
短い沈黙があった。それから、こくり、とイリスは頷いた。
「キミを助けたい。キミの胎内の子供とともに」
明日の晩から、わたしにキミの世話をさせて欲しいのだ、とダシュカは言った。
「どうか、わたしを信じて欲しい」
真摯に言うダシュカの手を、イリスもまた握り返す。
「あとな、夫に甘える気質がつわりに関係があるというのは……かなり眉唾な話だぞ?」
そっと、ダシュカマリエは言う。
「とくに古参の者ほどそういう言い方をすることが多いように感じるが――わたしから言わせれば、妊婦の孤独を助長しているだけに思えるな」
だから、頼れるものをしっかり頼ればよいのだ。
苦難に立ち向かうのに、ひとりでなければならんなどと、定めた法があるでなし。
そう言って微笑むダシュカマリエに、イリスは握った手に力を込めて返した。
その背後に控えるノーマンにイズマは視線を送ったが、忠実なカテルの騎士は信頼関係を結ぼうとするふたりの女の姿を、あの鉄面皮で注視し続けていた。




