■第九十八夜:謁見の間へ
「この世界のわたしたちは、どうしてもそなたに辿りつけなかった。エクセリオスはいつも途中から始まる。わたしたちは、いつもそのことを後になってから気がつく。でも、もうこれ以上、遡れない。遡ろうとするとまた新しい途中からやり直しが始まる。だからわたしたちはいつもはじまりの日のそなたに辿り着けずにいた。まさかそなたの側からやってくるとは、さすがに予想もできなかったが」
とつとつと、長い長い時を遡るような目をして夜魔の姫が言った。
うん、とアシュレは唸る。
「エクセリオスはいつも途中から始まる……はじまりの日のボクには辿り着けない……。うん、ごめん、わかんないね」
お手上げだった。
実際に両手を上げて、降参を示した。
これはなにか前提条件が決定的に違うのだ。
アシュレは思う。
ヒトの騎士のそんな様子に、ふー、と夜魔の姫が溜めていた空気を肺腑から吐き出した。
呼気さえ、可憐に薫る。
超常の美とは視覚に属することがらだけを言うのではない。
だが、そんなアシュレの感慨とは裏腹に、シオンの瞳にはどこか蔑むような色があった。
「そなた、大丈夫か。ほんとうにあのエクセリオスの発端なのか?」
口調と目線にシオンよりスノウを強く感じてしまい、アシュレは恥じ入った。
出来の悪い兄が、聡明な妹に責められているみたいなものだ。
聖堂騎士時代に座学の課題で詰まったことなど一度もないが、いざその立場になるとこれは相当キツい。
「大胆不敵な戦術と緻密な戦略で一代で帝国を築き上げる男の原型とは、思えんな」
でも、それがなんだか可愛いし、ズルいし、ときめく。
もごもごと呟くのが聞こえてしまった。
頬を赤らめてシオンがそっぽを向く。
右手を上気した頬に当てて冷ますような仕草。
動悸を抑えるように心臓の上には、左手が添えられている。
アシュレは困ったように笑うのが精一杯だった。
「いまのはボクは見下されたの? それとも可愛いって褒められたの?」
まあ騎士的には「可愛い」は罵倒語に属するわけなんだけど……。
笑みに苦いものが混じるのも仕方がない。
どうやらこの世界のアシュレダウ、つまりエクセリオスというのは、相当なやり手らしい。
その推測をシオンがステキに肯定してくれた。
「狡猾で抜け目がなく遠謀深慮の持ち主で、謀を息をするように行う。涼しい顔で当然とばかりに眉ひとつ動かさず。冷酷で残酷で、必要なら底なしに残虐になれる」
「すごいなそれ……。ボクのどこにそんな才能が眠っているんだろう」
「そうだな。そんなエクセリオスと目の前のそなたがどうやって等号で結びつくのか、わたしにはさっぱりわからない」
「……地味に傷ついたよね、いまの」
だが、貶しているのか惚気られているのかわからない調子で、シオンが並べ立てるエクセリオスという男の統治者としての資質の数々を聞きながら、アシュレはなにか引っかかるものを感じていた。
たしかいま、すごいことをさらりと言ってなかったか?
あわてて記憶を遡る。
シオンの完全記憶とはいかないが、アシュレだって記憶力は人間としては標準以上のはずなのだ。
そうでなければ聖騎士にはなれない。
そして、気がついた。
「それだ! たしかいまさっき一代で帝国を築き上げる、って言ってたね、エクセリオスは。それも……永劫に繰り返す……って言ってなかったっけ? “永劫の理想郷”だったか? それとも地獄?」
でも、それってまさか──このバラの神殿の内部ではエクセリオスという男の年代記が繰り返されているってことじゃないのか?
アシュレは核心を掴んだ人間がしばしばそうであるように、瞬間的にひとり自らの思考に浸りこんで、呟いた。
たぶん遠回しに嫌味を言っているつもりだったのだろう夜魔の姫が、ヒトの騎士の反応に目を丸くした。
「いまのが皮肉だと気づかないのか?」
だが真理に近づいたアシュレはびくともしない。
これが彼の天才性の根源だ。
「どんなに嫌味を言われても、見たこともない他者と比べられても、いまのボクにそういうのは、そういうのがないんだから仕方ないさ。ダメかい?」
それよりも、とアシュレは続けた。
「教えて欲しいんだ。そのエクセリオスがどんな人物なのか。どこから来て、なにを為す男なのか。ここでどんなふうに王となり、皇帝の座について、それを繰り返すのか──キミの言葉を借りれば“地獄”に辿り着くことを繰り返してしまうのかを。なにより、どうしてキミの敵なのか。それを教えて欲しい」
前提条件を共有させて欲しいんだ、とアシュレは言ったわけだ。
夜魔の姫はふむん、と唸った。
それは盲点だったかもしれん、と非を認めるように呟いた。
発端であるからといって、己がどのような偉業と覇業と陰惨を為しえるか、その動機を自覚しているわけではないということか、と。
「どうもそなたには見せたほうが早いようだ。言葉による理解より目の当たりにしたほうがいいのだな」
「見せる? 見れるの?」
「見ることも触れることもできるぞ。覚悟さえ決めればな」
ただし、と卓上に今度は自分から身を乗り出して、シオンが言った。
び、と指を振り立てる。
「なにがあっても、これから目にする場面にわたしの許可なく足を踏み入れるなよ? その瞬間に、そなたは劇中のヒトとなる。帰り道を見失うと戻れなくなるぞ」
理屈はよくわからないが、どうやらアシュレは、たったいまからそのエクセリオスの顔を拝みにいくことになったようだ。
しかもそれは劇仕立て。
加えて、その道中はとてつもなく危険らしい。
さいわいにも部屋の片隅に武具の類い、装備の類いが積まれていた。
戦いが予想されるなら、戦仕度は絶対だ。
家宝であるふたつの《フォーカス》が無事なのも嬉しかった。
やっぱり、このシオンは敵ではなく、ボクらの味方なのだな。
アシュレは確信した。
そうでなければこんなに丁寧に、アシュレの武具を保管していたりしてくれるわけがないではないか。
さっそくにも武装を整える。
夜魔の姫が自然にそれを手伝ってくれた。
それはかつての戦場に赴くときのふたりの儀式。
直近ではそこに、従者としての義務を主張するスノウが挟まっていた。
三者で互いの装備を点検し合い、留め金や結び紐に不具合がないか念入りに調べたものだ。
アシュレはまた自然に口元が綻ぶのを止められなかった。
一方のシオンはその顔を見て、初めて自分がなにをしているか知ったようだ。
「な、なあああ、ち、違うぞこれはわああ!」
「うん、ボクはまだなにも言ってないよね」
「い、いつもしていたからクセで、自然に」
「いつも? 憶えているの、ボクのこと?」
「そうではなく、そうではなくて! あああ、どう言えばいいのだ?! こちらのエクセリオスになる途中の、まだ人間の心を持っていた時代のアシュレに!」
必死に弁解するシオンがおかしくてアシュレは笑ってしまった。
ふくれっ面さえ、愛しい。
それに、いまのやりとりでわかったことがあった。
「どうやらこちら側のボクは、この閉じた世界のなかで、だんだんと心を失っていくんだな、その様子だと」
そして、と続けた。
自然と、すこし沈痛な面持ちになって。
「そうやってエクセリオスとキミが呼ぶ存在に成り果ててしまう。キミが倒す、と決意しなければならないような男になる」
シオンがぴくりと身を震わせ、身を固くした。
「その過程を、キミはなんども体験したんだ。そうだろう、シオン?」
アシュレの問いに、シオンは答えなかった。
ただくるり、と振り向くと「来い」とアゴをしゃくった。
「この先に答えがある。覚悟しておくことだ」
先導を始めたシオンの腰には、彼女の守り刀であるシュテルネンリヒトが光っていた。
さて第七話に入り平日は毎日更新させてもらっている燦然のソウルスピナですが、お盆休み期間中は基本的に10日、11日の更新に留め、連続更新そのものは明けて17日よりの再開とさせて頂きます。
何卒よろしくお願いいたします。




