■第九十六夜:高鳴りは気づかれてしまうから。
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「ほんもの、なのだな」
胸の傷を膏薬で労りながら、スノウブライトという姓を持つ、もうひとりのシオンが呟いた。
それは問いというより、言い聞かせる言葉に思えた。
まだ眼前の男が、本当にアシュレダウなのかどうか信じられない自分自身への。
「信じてくれたかい」
「信じたくない。いや、信じたくなかった」
戒めを解かれたアシュレは、ようやく人心地ついた。
優しく塗られるバラと桃とミルクの匂いがする軟膏のおかげか、それともアシュレのなかを流れる夜魔の血のせいか、傷は急速に塞がりつつあった。
代謝というか肉体の復元力は日に日に向上していて、この程度の傷は一日もあれば完全に消えてしまう。
「信じたくないってのは、なぜなんだい?」
「こんなにも良い男だったなどと……。こんなに優しくて、はじまりの日のそなたを、これほどに愛しいと感じるなどと……知りたくなかった。こんなの、こんな気持ち、苦し過ぎる」
「良い男、愛しいって言ってもらえるのは、素直に嬉しいけど……。まさかその想いが苦しくて、苦し紛れにボクを鞭で打ったりした?」
「そ、そんな、そんなわけがあるかッ! ただ信じられなかっただけだ! アシュレダウという男子が、はじまりの日にあっては、こんな、こんなにも光を感じさせる若き騎士さまだったなんて! それで取り乱しただけ……だ」
あきらかに心を乱した様子で言い訳するシオンに苦笑してから、アシュレは訊いた。
いまの話題で聞きたいとこがあるんだ、と。
「それ。はじまりの日のボク? あのヒト? さっき血を確かめる間もなんども呟いてたけど、それってどういう意味なんだい?」
瞬間、夜魔の姫の肉体が硬直した。
繊細な銀細工を思わせる頭髪が怯えるようにさらさらと鳴り、金の針を集めたがごとき虹彩が揺動する。
それは、と言い淀む。
アシュレは辛抱強く言葉を待った。
シオンは答えない。
罪悪感に押しつぶされそうな顔で、胸をしきりに押さえている。
耐えるようなシオンの仕草に、アシュレは胸が締めつけられてしまった。
シオンとスノウ、ふたり分の苦悩を見せられているかのように。
思わず抱き寄せようと手を伸ばせば、夜魔の姫は自ら頽れるように腕のなかに飛び込んできた。
それから言った。
押し殺すように小さく、でも、ほとんど絶叫して。
「それは、それはッ、ここが地獄だからだッ! そなたの終着点。そなたという存在の持つ可能性の終わりの場所だからだッ! 永劫に繰り返す《意志》の地獄……」
夜魔の姫は泣いた。
なにを言われているのかアシュレにはさっぱりだが、放っておくことなどできるはずがない。
そっと涙を唇ですくい取る。
静かに吸う。
初めて逢ったあの日のように。
ぶるりっ、とシオンは身を震わせたかと思うと、拒むように両手でアシュレを突き飛ばした。
さすがに礼を失していただろうか。
現実のシオンとは初対面のときそうだったから、距離感が掴めていない自分がいた。
腕のなかからすぐに彼女を解放する。
彼女の気持ちを害する気など、さらさらなかった。
「ごめん」
「ななな、ななああああ?! な、涙を吸うとか、ダメだダメだダメだ! いきなり、や、優しくするとか、いかんいかんぞ! 貴様たらしかッ?! 許さんぞ!!」
だが、夜魔の姫の反応は、アシュレの予想よりも好意的な感触だった。
不躾な対応に怒っているというより、照れているらしい。
ただちょっと激しめに。
それなら言葉で言って欲しかった。
アシュレは治りかけた傷口を両手で強く突かれ、その痛みに悶絶するしかない。
自ら腕のなかに飛び込んできておいてこの仕打ちは理不尽極まりないが、こんな照れ方をするシオンをアシュレは初めて見た。
この反応はまるでスノウだ。
美貌を一瞬で朱に染め、肌も桃色に上気させる。
左手は心臓を押さえ、アシュレの唇が触れた場所を所在なさげになんども確かめる。
間違いなくこの初心過ぎる反応はスノウ本人のものでしかあり得ない。
だとすると、シオンに対するように振舞うと、ちょっと困ったことになりそうだとアシュレは思った。
そんなアシュレの思いに気がついたか、そうでないのか、シオン(?)が一喝した。
「心臓の高鳴りで気付かれたらどうする?!」
「?!」
またまたアシュレは仰天した。
高鳴りで気付かれるとはどういう意味か?
高鳴りに気付かれる、ならまだわかるのだが。
またまた虚を突かれて混乱した。
頭を捻ってみても、さっぱり理屈がわからない。
ここまでわからないことだらけだと、いっそ爽快ではある。
痛みに歪んだ唇から、思わず笑いが漏れた。
「女たらしなのは、アレと変わらんということか」
そんなアシュレを逃さず、すかさず追い討ちが来た。
爽快などと状況を笑った罰か。
こちらのほうは心当たりが多すぎた。
初めての経験だが、シオンとスノウの特徴を合わせ持つ彼女に「たらし」と指弾されるのはかなりキツい。
永遠を誓った女とその妹(しかも恐ろしいことに、どうやらそちらからも想われているらしい)に、不実をなじられるようなものだ。
実際、シオンとスノウのおふたりにご報告申し上げねばならん事案を、アシュレはまだ三件も抱えていた。
蛇の姫:マーヤ、真騎士の妹のふたり:キルシュローゼとエステリンゼ。
レーヴとのことまで含めると四件だ。
思わず胸を押さえて目を逸らす。
傷が痛むのは物理的な損傷だけからではない。
「いや、その、ほんとにごめん。でも、ボクにはキミが泣いてるのは耐えられないんだよ」
本音がそのまま転がり出た。
再びの過剰反応をシオンが見せる。
「なああッ?! なな、なにを抜かすか唐突にッ!」
「シオン?!」
アシュレとしては心底そう思っての、というか思うなどというレベルではなく、ほとんど生理的反応と同義の言葉だったのだが、ズササッ、と飛び退かれた。
広い天蓋付きベッドの上で、ヒトに馴れない野良猫のように夜魔の姫が威嚇体勢を取る。
「そ、その甘言を止めろと言っているッ!」
「甘言?!」
わけがわからない。
胸の内を正直に話しただけなのに、どうしてこうなった?
ついにシオンはベッドの隅まで後退して、天蓋を支える柱にかじりついてしまった。
「シオン?」
「よるな、寄るでない! 動くな、しゃべるな! 息をするのもダメだ!」
「息をするな、は無茶だよ。死んじゃうから」
埒が開かないと見て、アシュレはベッドから降りようとした。
自分が半裸だと思い出したのだ。
たしかにこんな姿で淑女に迫るのはマナー違反だ。
自分はスノウとシオンを知っていても、彼女のほうはほとんど初対面なのだ。
初対面の男に、こんな姿でベッドで迫られたら逃げ腰になられても仕方がない。
「まてッ?! どこへ行く?!」
「どこって……服を着ないと。キミだって困ってるんだろ? ボクだっていつまでもこの格好はよくないと思うよ。ああそうだ、シオンもそうしてくれないか。そんな無防備な格好でいられると、目のやり場に困る。というかボクのなかの男性を理性で抑えておくにも限界があるんだ。キミ、もうちょっと自分がどんなに魅力的なのか知ったほうが良いよ。性別なんか関係なく犯罪的なんだって自覚はしてほしいナ、その姿」
だいたいボクは、キミのことが愛しくて、欲しくて、奪いたくて堪らないんだぞ。
キミはボクを狼にさせたいのか。
後半は口のなかで呟いただけだったが、シオンには伝わってしまったらしい。
ななあ、なななああああ、とか細く叫びながら、こんどは天蓋に上る勢いで後退った。
いや、実際に登る。
天蓋の暗がりでもわかるほど、その肌は上気している。
これもいままでのシオンでは見たことのない反応だ。
彼女の言動にはスノウの影響が色濃く反映されている。
まいったな、とアシュレは嘆息する。
もしいまの彼女を愛してしまうと、アシュレはスノウの因子の部分にも愛を注ぐことになってしまうのではないか。
自分が彼女からどれほど想われているかは、ヘリアティウムの地下図書館で骨身に染みて思い知らされているとはいっても、それはこれ、これはこれだ。
シオンだと思って行動すると、取り返しのつかない事態に発展する恐れがある。
想像するだけで、あまりの背徳にめまいがする。
あとでふたりが無事に戻ったとき、誘爆確実の火種になる。
アシュレは厳しく己を戒めようと誓った。
それはともかく、だ。
由々しき問題だが、まずはふたりが生きていてくれるだけで嬉しい。
生きてさえいてくれれば、なにか解決策があるはずだ。
それよりもいまはまず、なんとしても現状を把握しなければならなかった。




