■第九十五夜:アシュレダウ・エクセリオスを倒す者
「嘘だ、嘘だ、嘘だッ!!」
なぜそうまでして必死になって、ボクがアシュレであることを否定しなければならないのか。
気がつけば、夜魔の姫が泣いていた。
泣きながら、アシュレに訂正を求める。
いっぽうで、苦痛の嵐にさらされ歪められながら、アシュレは微笑みを投げかけた。
泣きながらアシュレに理不尽をぶつける彼女が、もうシオンとスノウのふたりにしか思えなくなっていたからだ。
きっと、ふたりがひとつになったせいでうまく感情が表現できなくなっているのだ。
そうでなければ、どうして自分が罪を犯したような顔で、キミは泣くんだ?
その不器用さが愛しかった。
騎士は傷に笑み、姫君は泣きながら血塗れの鞭を振るう。
すべてがあべこべで、だからこそ、切なかった。
「うそだ、うそだ……うそだと言ってくれ」
ついに少女の手が止まった。
ぽたり、ぽたり、と手にした鞭の先端から血と脂が滴り落ちる。
「キミは夜魔だろう。ボクが本当はだれなのか、それは血に訊くといい」
まるで相手を思いやるかのような口調でアシュレは言った。
実際、苦痛はひどい。
息をするたび、痺れるような痛みが脳髄を走り抜ける。
だが、それより目の前にいる少女の心のほうを癒してやりたかった。
どうしてだかわからないが、この娘はひどく傷ついている。
思えばアシュレが昏倒している間、アシュレの知らない時間を、シオンとスノウは過ごしたのだ。
英雄譚の側から来たという《理想》のアシュレから、現実の傷ついた汚れた英雄、つまりここで拘束され吊るされている冴えないほうのアシュレを守るために。
そのためにふたりが払ってくれたであろう代償の結果が、いまの彼女と千々に乱れるその心のありさまなのだとすると、この程度の苦痛、なにほどのものでもないと思えた。
なんどでも言うが、ごまかしようのない苦痛であるにも関わらず、だ。
そして、血に訊けと促された少女:シオンはひどく狼狽するのだ。
「なぜ、なぜそんなことを言う。わたしを、わたしを誘惑するなッ!」
鞭を振り下ろす。
びしゃり、と鮮血の滴が床に叩きつけれ、血臭がむうと香った。
その匂いにむせたように、誘惑に抗うように、目をつぶりしきりに首を振る。
「やはり、キミはシオンなんだな」
「知ったような口を、利くな」
「断血の誓い……ヒトの首筋に牙を立て、命を啜ることを己に禁じた。その誓約はまだキミのなかで息づいている」
なぜわたしの過去を知っている、という顔をシオンはした。
揺れるその瞳を、アシュレはじっと見据えた。
頽れそうな彼女の膝を、視線で支えてやろうとする。
慈しむ。
「でも、確かめることくらいはいいはずだ。ひとくち、ボクを知るくらいは」
「バカな、バカなッ、ありえん」
「ああ、キミがつけた傷が痛む。これ以上は、ボクだって冤罪で傷つきたくはない。そういう趣味もないしね」
わざと煽るように言いながら、アシュレは天を見上げた。
夜魔の姫が見られていることで吸血に対して、余計な羞恥や罪悪感を抱いてしまうのではなかろうかと思ったのだ。
それにしても、とアシュレはかすかに震える。
最初の高揚が去ると、痛みは残酷だった。
いっそ鮮やかと言っていい。
キレイな刀傷と違い、かきむしられた傷跡の痛みは長く尾を引く。
不安定な体勢のせいで意識せずとも身がよじれる。
そのたびに痺れるような激痛が脳天に突き抜ける。
ぐ、っとついにうめきが声になった。
アシュレの提案に、シオンはたとえようのない顔をした。
真実を知ることに怯える子供のように。
あるいは禁断の味を知ってしまうことに対し、高揚を抑え切れない自分を恥じて。
「たのむ、シオン。知ってくれ」
ボクを。
アシュレは天を向いて痛みに耐えながら、静かに懇願した。
その言葉に押されるように、少女が一歩踏み出した。
手から、鞭が滑り落ちる。
飛び散ったアシュレの血が、表皮が、肉片が素足に触れるたび、官能に震えるように瞳を閉じ、喉を喘がせて熱く息する。
そうやって、己が描き出した血の河を渡り切る。
真っ白な指が、アシュレの傷に、触れる。
ずぬり、と犬歯が伸びる音がした。
「ぐ、うっ」
「いた、むのか」
「あたりまえだけどね」
「貴様が誘惑したのだ、自業自得と知れ」
言葉は辛辣だったが、シオンの運指に粗雑さはなかった。
むしろ、大切な宝物に触れる少女のように繊細で慎重さに満ちている。
はあ、とアシュレは傷口で吐息を感じた。
舌が、差し込まれる。
内部に。
なぜ夜魔がヒトを堕落させる人類の敵として認識されてきたのか、アシュレは本当の理由を、いま知った。
脳髄を痺れさせる漆黒の電流にも似た傷の痛みを、シオンのくちづけが蕩かして行く。
耐えがたい苦痛が雪が陽の光に溶けるように退いて、その舌が己の皮膚の下を探ることを、快楽と感じてしまう。
少女のほうでも、それは同様らしかった。
喜悦に泣きながら、娘はアシュレの傷を啜る。
白い喉がこくり、こくりと動いては脈打ち、官能に震える。
熱い吐息が、絶え絶えに肌を撫でる。
だめだ、だめだ、許されないことだ、こんなの──。
知る。
知ってしまう。
知り過ぎて、おかしくなる。
まさか、これがはじまりの日のあのヒトなのか
うわごとのような呟きと懺悔を、アシュレは白色の光りを伴う悦楽のなかに聞く。
少女の瞳が潤んでは決壊を繰り返すのを、断片的な意識のなかで見る。
「ボクは、だれだ?」
熱に浮かされたまま、アシュレは問うた。
口元を血で汚したシオンが、焦げてしまうほど熱い瞳でヒトの騎士を見上げて言った。
「アシュレ……アシュレダウ、バラージェ」
夜魔はその血に溶けた夢を観る異能を持ち合わせる。
血は真実の貨幣。
そこには生命の記録と記憶がすべて記されている。
だからこそ。
信じられない、いや信じてはならないと、シオンが首を振る。
イヤイヤをする子供みたいに。
血に塗れた指で、己の頬を包む。
つう、と朱に染まった唇から、生命の一滴が滴り落ちる。
「じゃあ、キミはだれだ」
問われ、夜魔の姫が大きく目を見開いた。
自分は血で名乗った。
今度はキミの番だ。
アシュレはそう言ったのだ
追いつめられた獣のようにシオンは身を強ばらせた。
だが、そこに拒絶はない。
先ほどまでのような怒りも。
あるのはただ、観念したかのような、運命の残酷さに怯える瞳だ。
「教えてくれ」
アシュレは苦しい息の下で言った。
これが失血のせいなのか、苦痛のせいなのか、シオンの唾液と舌から与えられる官能のせいなのかもうわからない。
そして、シオンのほうもそれは同じだった。
もつれる舌で、絞り出すように、なんとか言葉にする。
「我は……わたしは、シオン。シオンザフィル・スノウブライト。アシュレダウ……このバラの神殿に封ぜられし、最深部に巣くう世界の病根──アシュレダウ・エクセリオスを倒す者」
そう告げた少女の瞳に、傷だらけの自分が贖いの聖者のごとく映りこんでいるのを、アシュレは見た。




