■第九十一夜:“理想郷”は王の姿
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それは王の姿をしていた。
すべての始まりを、スノウは回想する。
あの出来事がどれほど昔のことだったかなどもはや定かでないが、あのとき起きたことだけは、いまでも鮮明に思い出せる。
それは《魂のちから》を過剰に放出して昏倒したアシュレの胸から、そこに開いた次元の穴から、噴き出した。
強力な《理想のちから》。
本来の現実世界ではそのあまりの「望みの高さ」から、実現することなど叶わず、ただただ人々の心のなかにだけ──夢想のなかにだけ存在を許されてきた《夢の側のちから》。
それが間欠泉のように噴き出し、荒れ狂う嵐のように渦を巻いて暴れ回り、その果てにパレスの暗がりで受肉した。
ヒトのカタチに凝った《それ》。
その似姿を言葉によって表現するなら──もうひとりのアシュレと評するしかない。
いや、より正しく名付けるなら「人々から期待された《ねがい》に到達し、完成体となった理想の王としてのアシュレダウ」と呼んだほうが適切だろうか。
事実、ひとたびそれと相対したスノウは、すでに目を離すことが出来なくなっていた。
本当の《理想》とは、他者に無視を許さぬものだ。
なぜならそれは目の当たりにした人間が、心の奥底で願い、到来を渇仰した体現なのだから。
圧倒的な王気、存在としての圧が、スノウを捉える。
強い《ちから》に、カラダがそちらへと引き寄せられる。
比喩ではなく、物理現象として引き込まれる。
ああ、とスノウは唐突に理解に及んだ。
あれは穴だ。
すべてを飲み込み、我がものとしてしまう時空間に開けられた縦坑。
魅力的で蠱惑的で、だれしもが「あの手中に収められたい」と願ってしまう。
それは、たとえヒトとしての姿を持っていたとて、理想の領域に繋がる通路以外の何者でもない。
どこかかつて憧れた夜魔の騎士──自分の父ではないかとさえ夢想していたユガディール──を彷彿とさせる眼差し。
そんな青年を前にして、少女は震え上がる。
王の衣装をまとって立つ彼は、たしかにスノウの思い描いた理想、そのもの。
わたしだけのアシュレダウ、だった。
「ご苦労だった、スノウメルテ。オマエたちのおかげで、わたしはこの姿を現実のものとできた。礼を言いたい」
掌を上にして、理想の男はスノウを呼ぶ。
抗いがたい畏れのようなものを含んだ声音で。
まるでダンスに誘うように優美に。
ズズ、ズズズッ、と吸引力が働いて、実際にスノウは背中を押される。
一、二歩、そちらへと歩み出してしまう。
自分の意志ではない。
あの男は自らの《ねがい》を手に触れずとも言葉にするだけで、他者に押しつけることができるのだ。
超常の存在が振るう、現実をねじ曲げる《ちから》の発露。
かつてのスノウでは思いつきえなかったであろう理解が、脳髄を震わせる。
荒唐無稽な《ちから》の理屈が、いまではまるで当たり前のようにわかる。
それはスノウのなかに息づく、魔導書:ビブロ・ヴァレリが持つ《ちから》であり、その肉体を頁として書き記された歴史の蓄積が可能にした業であった。
スノウはもう無意識のうちにそれを身体感覚として検索し、閲覧できる。
いや、してしまう。
ぶうんうううん、と理想に侵食され干渉された現実がその境界、つまり男の輪郭の部分で歪んで光って唸りを上げる。
男の瞳は光彩の部分が金色に輝いていて、まるで虚空に瞬く星のようだ。
普通ではありえなかった。
すくなくとも、現実のアシュレではあれはない。
「ちがうわ。貴方は、貴方は、あなたはわたしの騎士さまじゃない! アシュレじゃない!」
背後で横たわる傷つき憔悴しきったアシュレを想い、スノウは叫んだ。
苦しげにうめくアシュレが現実であるなら、目の前のこの現象が「どこから来たのか」「なに者なのか」など明らかだった。
かつて自分たちが希望の星と仰いだ夜魔の騎士:ユガディールを、そうやって喪失したスノウには、もうわかっていたのだ。
これは“理想郷”に属する者、いいやモノ、現象であると。
「心にもないことを。駄々を捏ねるものではない」
理想の男は心底不思議げに半夜魔の娘を眺めた。
その振舞いには滲み出るような余裕が感じられて、男の器の大きさがイヤでも分かってしまう。
スノウにはそれが恐ろしい。
実在の人間より「はるかに理想的」であることがなによりも恐ろしい。
そんなスノウの様子に、そうか、と男は顎に当てていた拳を外すと微笑んだ。
「なぜわたしを拒むのか、わかったぞ。そうか、わたしの関心を引きたいのか。そうだったな、オマエはそういう娘だった」
ならば、もうそんなことをする必要はない。
「わたしは、《ねがい》に従い、オマエたちの元へと来たのだから」
わたしはもうここにいるのだよ。
快活に笑って男は一歩、踏み出した。
ズッ、ズズズッ、と引力が強まる。
スノウは両手を広げて男を阻んだ。
「く、くるな。こっちにくるな! いかせない、いかせないんだから!」
この男、理想のアシュレの目的がスノウにはハッキリ分かっていた。
なぜここに来たのか。
これからなにが起ろうとしているのか。
「なぜそれほどに頑なになる? わたしの行いは、オマエたちの理想の実現、そのものだぞ。恐れることはない。身を任せればよいのだ」
当然のように言い切って、男がゆっくりと二歩目を踏み出した。
ズズズズズッ、とまたカラダが引き寄せられる。
まるで腰に腕を回され抱き寄せられるように。
先ほどよりずっと強く。
靴底がすり減るのがわかる。
強力な《ちから》が働いている。
スノウはもう、踏ん張るだけで精一杯だ。
「だめ、来ないで! さもないとさもないと!」
「さもないと、どうするというのだ」
よしなさい、と男は微笑みを広げる。
イノセントに笑う。
心を蕩かすように甘い声。
だからこそ、スノウは拒む。
いつかアシュレにしてもらった《スピンドル》が軋みを上げる痛みを思い出して。
あれがわたしたちの繋がりの感触だ。
互いの心が軋んで、火花が上がる。
自我が消し飛ぶような痛み。
でも、触れ合わずにはいられない。
求めて。
求め合って。
だから、こんな甘さは違う!
「渡さない、アシュレは渡さないんだから!」
駄々っ子のように首を振って泣くスノウを、困ったなという顔で理想の男は見つめた。
「渡さない、ときたか。だがな、見るがいい、愛らしきスノウメルテよ。地に倒れ伏したその男を。《魂》の開放によって得た凄まじき《理想のちから》の代償は、彼の者のすべてだった。すべてを投げ打って彼は奇跡を可能にしたのだ。わたしはその代償のすべてであり、彼の成し遂げた成果そのものでもあるのだよ」
つまりこれは公正な取引なんだ。
「彼は……その人間、アシュレダウはすべてを捧げてわたしを召喚した。“理想郷”を大地に下ろしたのだ。そのかわりに彼は《理想》の側へ引き渡される。偉大なる英雄譚の一部として、永劫に語り継がれるだろう」
「そんなこと言って──わたしは知っているんだから。あなたは虚構なの。物語なの。理想に見えるけれど、アシュレダウってヒトが、わたしの騎士さまが、自分のすべてを投げ打って引き受けてくれたわたしたちの《ねがい》が生み出した理想の王! でも、それはそれは、違うの!」
あなたはわたしたちの理想かもしれないけれど、生きててわたしに微笑んでくれた、あのアシュレじゃないッ!
「関わってくれた女のコを助けようとして、いっつも厄介事に巻き込まれて、優柔不断でスケコマシのクセに鼻血垂らして気絶して、死地に飛び込んで傷だらけになってズタボロになって、それでも約束を守ろうとして何度でも立ち上がってくれる、あの騎士さまじゃない!」
スノウは昏倒したまま戻らないアシュレを振り返った。
弱い脈、だれかが添い寝していなければ低くなっていく一方の体温、苦しげな呼吸。
いまの彼は、全身傷だらけで、ボロボロになってしまった布きれのように見えた。
だけど、
「わたしが好きになったのは、こっちの騎士さまなんだから、勝手になんかさせない!」
「その娘の言う通りだ。帰ってもらおうか、偉大なる王よ、そなたの本来居るべき場所へ」
スノウを支えるその声は、低いところからした。




