■第一夜:聖なる会話
その女は輝かしかった。
完璧に均整の取れた裸身を惜しげもなくさらし、聖典にある天の御使いのように光を放つ清らかな水の流れとともに、現れ出でた。
だが、その瞳は神敵を見出した怒りに燃えており、周囲でごうごうと渦を巻く激流と、なだれ落ちる大瀑布が、その性情の穏やかならざるをあらわしていた。
「このわたし、ジゼルテレジアを袖にするとは良い度胸だ、アシュレダウ――それも、よりにもよって夜魔の姫:シオンザフィルの手に落ちるとは――やはりあの日、無理にでも手折っておくべきだったか」
人間の背丈に匹敵するほどの高さを持つ水瓶のカタチをした《フォーカス》:〈ハールート〉とのリンク関係にあるのだろう。
そこから噴出する大量の水を震わせ響かせる声で、まるで悪鬼のごときセリフを吐くジゼルテレジアの姿は、しかし、神懸かり的な美しさを放っていた。
アシュレは背筋を走る冷たい戦慄を止めることができない。
エクストラム法王庁:聖遺物管理課の誇る最強騎士:“聖泉の使徒”・ジゼルテレジアの戦場への介入は、あまりに唐突であった。
アシュレはいま、本来は盾として使用すべき〈ブランヴェル〉の上に乗り、南方の異民族が行うという波乗りのようにして、荒れ狂う水面に立ち向かっている。
右手には、愛用の竜槍:〈シヴニール〉ではなく、カテル病院騎士団団長より託された聖剣:〈プロメテルギア〉を握りしめ、左手にはシオンを庇う格好だ。
戦場には場違いな強い薔薇の芳香が弾けるように鼻腔に届く。
それはシオンの体臭、その血、その肉の香りであったが――いまアシュレの感じるむせ返るほどの匂いは、シオンに襲いかかる恐るべき苦痛がもたらしたものだった。
異空間から莫大な純水を召喚し続けるジゼルテレジアの《フォーカス》:〈ハールート〉が異能:《アクア・コンセクレイション》。
それによって極限まで聖別されたその水流は、人体に対しては清浄で安全な性質を示すが、ひとたびいくつかの異種族に対したとき――特に、病魔、夜魔に対しては――苛烈な反応を引き起こす。
すなわち、硫酸のごとき反応を、である。
足下で暴れる水流が跳ね掛かるたび、食いしばったシオンの唇から小さく苦悶のうめきが漏れる。
飛沫でさえ肌が焼けただれ、肉がのぞくほどの効果をあげるのだ。
シオンがいかに夜魔の最上位種・大公の血筋として驚異的な再生能力を持つとはいえ、いやだからこそ、その苦痛をいつまでも感じ続けなければならないのだとすれば、これは残忍極まりない攻撃であった。
対象が病魔や夜魔であるならば、その周囲一帯をこの聖別された水流で満たし無差別に殲滅可能な〈ハールート〉は、エクストラム法王庁が門外不出としてきた神器である。
それをこの局面に、それも聖遺物管理課最強と謳われた聖騎士:ジゼルテレジアとともに送り込んでくる法王庁の強烈な意志を、アシュレは感じ取らざるをえなかった。
すなわち、アシュレを抹殺するという意志を、だ。
「夜魔の姫の毒牙にかかり穢されたというのなら――その肉体からすべての血液を絞り出し、この聖別された我が秘蹟の水を――“汁”を流し込んで、身も心もわたしへの愛で満たしてやろう」
強大な神器である〈ハールート〉との同調を高めるためであろう。
騎士として鍛え上げられながらも、女性としての美しさを合わせ持つ肉体を隠すものは、濡れそぼった己の豪奢な頭髪のみ。
神話に現れる天使さながらの姿で言い放つジゼルテレジアのセリフは、その内容の獰悪さと外観との対比によって、眩暈のごとき効果を生む。
幼少のみぎり、姉のように……いや、どちらかといえば気まぐれで奔放な貴族令嬢としてアシュレを翻弄しながらも、ユーニスやレダマリアとともに愛を注いでくれた彼女が、己に剥き出しの殺意をぶつけてくる。
そこにアシュレは震えた。
しかし、もう戻れなかった。
アシュレは選択したからだ。
方便といえ、夜魔の姫:“反逆のいばら姫”=シオンザフィルの隷属者として、エクストラム法王庁に対する反逆者への道を、選んでしまったからだ。
ギリギリの選択肢。
バラージェの家と使用人たち、血縁、そしてなによりそこに残された母:ソフィアを守るために、アシュレはシオンによって「穢され堕ちた聖騎士」とならねばならなかった。
そのこと自体に忸怩たる思いは、ない。
いや、たとえあろうとも、振り返ることはない。
それはこの狂言の共犯者となってくれたシオンに対する礼節、いや、愛ゆえにだ。
シオンはアシュレのほとんどイクス教世界に対して翻した叛旗を、ともに支えてくれることを選んでくれた。
その片棒を担がせた男が、後ろを振り返っては、ならない。
わかってはいた。
わかってはいたが、かつての同僚にして、尊敬すべき教官、あるいは先達――そして、アシュレの関知せぬところで取り決められたとはいえ――許嫁であった女性に、叩きつけられるような敵意を向けられることは、やはりどれほど覚悟していたといっても、アシュレの心を、ちょうどいま眼前で荒れ狂う水面のようにかき乱していた。
知らず、食いしばった歯茎が、キリリッ、と鳴った。
アシュレの心の動きを察知したのか、ぶるりっと震えた聖剣:〈プロメテルギア〉の柄を手綱を取るように握りしめる。
これら《フォーカス》は道具だが、ヒトの《意志》の《ちから》である《スピンドル》によってその能力を解放する。
だから、使い手の心の動き、高揚にも、動揺にも反応を見せる。
「すまぬ」
あのときは、あれしか思いつけなかった。
どうしようもなかったとはいえ、ひどい嘘を。そなたに残酷な選択をさせた。
苦痛に耐えながらシオンが言った。
「後悔はしてない」
それに遅かれ早かれ、ボクは決断しなくちゃならなかったんだ。
アシュレはジゼルから目を逸らさず、言いきった。
強がりでも、シオンがいま感じてくれている痛み、せめて心のそれだけは受け止め、和らげなければならないと、アシュレは思う。
「そなた……優しい男だ」
瞬間的に再生するとはいえ、シオンは跳ね掛かってくる聖水の飛沫によって焼かれている。
いかにその人材登用に性差の区別がない夜魔の世界に育ったとはいえ、やはり女性として、そのさまをだれかに見られたくはなかった。
特にアシュレには。そうシオンは思う。
それでなくとも、いまその肉体には土蜘蛛の暗殺教団:シビリ・シュメリから遣わされた凶手:エレとエルマ姉妹によって打ち込まれた醜悪な人体改変装置:〈ジャグリ・ジャグラ〉が、実に十三本も突き立ったままなのだ。
それはシオンの肉体を蝕み、次元跳躍系の異能の使用を封じている。
短距離テレポート:《影渡り》で逃げることもできない。
「ジゼル姉は聖遺物課の聖騎士だ。聖遺物の目録に目を通す権限を持ち、ラーン先生……“教授”の片腕として働いてきた。
だから、ボクの持っている《フォーカス》の特徴、すべてに精通してる――でも、そこが狙い目だ」
「知るがゆえの死角がある、とそなたは言うのだな」
「そうだ。ボクが〈ブランヴェル〉を使って立体的に機動できる応用技を持つことを、彼女は知らない。
目録を読み、そのスペックに精通するがゆえ、情報に捕らわれる。
用法を知りつくしているという思い込みが、死角を作る」
シオン、ボクの合図で、上へ――〈ローズ・アブソリュート〉を使って逃げてくれ。
アシュレはそっとシオンに耳打ちする。
シオンはその意図を瞬時に理解する。
頭上にはこのカテル島:奥の院に位置する儀式の間に資材を搬入するための巨大な移動式の滑車が備え付けられていた。
アシュレはシオンの避難と陽動、そして、多重攻撃への派生、その可能性を見せ技に、この激流を突破してジゼルへと攻撃を仕掛けるつもりなのだ。
「委細承知」
簡潔にシオンは了解を告げる。
次元の捩れによって互いが心臓を共有するふたりの間に、もはや細かいやりとりは必要ないほど、わかりあえていた。
特にこれほど近くで身を寄せ合い、戦いへ向かう意識が研ぎ澄まされている状況では。
「おまえたち――状況が呑み込めていないようだな。いいだろう、飲ませてやろうさ、状況を、物理的に、直接なッ!!」
もしかしたら、仲むつまじく身を寄せ合うアシュレとシオンの姿に、嫉妬を覚えたのかもしれないジゼルが吼えた。
巨大な水流がまるで怒れる竜のように伸び上がり、アシュレたちを打ち据えようと迫った。
総重量数十タロスに達するその尖端の一撃を受ければ、生身の人間などひとたまりもない。
高速で迫る水塊は、巨大な岩塊に匹敵するパワーを秘めている。
ただし、アシュレはこの強大無比の攻撃の弱点を見抜いていた。
加速するための予備動作が必要なのだ。
運動エネルギーを得るため、大きく伸び上がる必要があるのだ。
そこが狙い目だった。
「いまだ、シオンッ! 上へッ!!」
アシュレの号令とほとんど同時に、シオンが〈ローズ・アブソリュート〉を鞭のように展開させ、頭上へと飛び去る。
「おのれッ」
口から漏れる怨嗟をジゼルが言い終わらぬうちに、アシュレは切り札――聖盾:〈ブランヴェル〉の力場操作による立体的機動を発動した。
その手には聖剣:〈プロメテルギア〉の纏う光刃。
すべてが決しようとする瞬間――アシュレの脳裏には、これまでの戦い、カテル島を巡る長いようで短かった激動の日々が甦っていた。
そして、時間は――巻き戻る。
物語の端緒、語られるべき英雄譚の、その始まりへと。
※
言葉を交すのは一組の男女。
片や、その両腕を厳めしい装具に包んだ巨躯の男――カテル病院騎士:ノーマン・バージェスト・ハーヴェイ。
片や、その美貌を白銀の仮面で鎧った女――カテル島大司教にしてイクス教グレーテル派首長:ダシュカマリエ・ヤジャス。
これはだから、聖なる会話だ。
「どうやら、あの娘が“救世主”を受胎したことは事実のようです」
「ご苦労だった。それでこそ、わざわざ危険なイグナーシュの地に我が精鋭たる貴公を派遣した甲斐もあったというもの。そのうえ間者のような真似事までさせたこと、すまないと思っている」
「大司教猊下はこのことを、ご存知だったのですか。わたしが出立するときには、だだ、法王庁の年若き聖騎士を、無実の罪から庇護せよ、としか」
「未来を見通す〈セラフィム・フィラメント〉とて、万能ではない。貴公を送り出したときはたしかに『法王庁の年若き聖騎士へ、無実の罪が降りかかる』と予言された。そして『彼こそが巨大な運命の歯車の一輪である』とも。
ゆえに、わたしは我がカテル騎士団の派遣を命じたのだ。
だが、予言には続きがあった。
――『かの地にて“救世主”を受胎する聖女が誕生する』加えて『“救世主”の父は件の聖騎士である。救済せよ』と。
貴公を送り出して五ヶ月も経った後だ。どうしようもなかった」
「これは失言でした」
「よい。しかし、ここからが正念場ぞ。法王庁も、あるいは跳梁跋扈する魔の氏族どもも無能ではあるまい。
この〈セラフィム・フィラメント〉ほどではなくとも、占術や神懸かりの法に長けたものどもも多かろう。
必ず嗅ぎつけてくる。時間の問題だ」
「匿いきれましょうや?」
「この世で最後の“救世主”やも知れぬ命だ。我らが血と肉を壁にしたとて、匿いきらねばならぬ。我らが理想を成就するためだ」
「御意」
「だが、それよりもなによりも、大きな懸念がある」
「懸念?」
「“救世主”を宿す娘のことだ。
聖イクスは処女懐胎にてこの世に生まれ落ちたとというが、それが本当かどうかは、他ならぬ天上におわします我が主のみぞ知るところ。
だが、ただの人間であるあの娘が、この世界をその規矩から変格しうる特異点である“救世主”を身篭ったとき、貴公は果たして無事でいられると思うか?」
「それほどの奇跡を、その身に受けて、ですか?」
「奇跡などない――それは貴公がもっともよく心得ているはず。この世に奇跡などない。もし、それが人界に起きるとすれば、それは、そこには必ずヒトの《意志》が、その突端たる《スピンドル》の力が介在している」
「そして、強大な《スピンドル》能力は、強大な異能は、それに釣り合うだけの代償を必要とする……“救世主懐胎”とは、異能の一種であると仰るのか」
「いかにも」
「なんとしたこと。この世界を《救済》するほどのエネルギーを持つという“救世主”を生み出すのだとしたら――いったいどれほどの代償を必要とするのか、わたしには想像もつきませぬ」
「なにで、贖うことになると思うや」
「そこまで、そこまで考えておられたのか。わたしが、浅はかでした。とうてい大司教猊下のお考えにまでは至りませんでした」
「よい。予言に打たれ、考え、思い煩うのは我が役目。貴公は剣ぞ。みだりに思うな、迷うな。それで娘の様子はどうか?」
「つわりがひどい様子で、難儀しています。ほとんど食事が喉を通らぬとか――まさか」
「そのまさか、であろう。拒絶反応の前兆とみて、まず間違いあるまい。介添えのものはどのような処置を?」
「吐き気止めの薬湯を、一日数度」
「気休めだな。すぐにも、わたしが処置せねばなるまい――それはつわりなどでは、ない」
「つわりでは……ない? それに処置、と申されますと? ……まさか。いけません! 〈コンストラクス〉にはまだ不明な点があまりにも多い。御身が危うい!」
「心配してくれるのか? うれしいな。だがな、我が騎士よ、我が身大事さと、世界の《救済》――むかし、貴公に誓った《真世界》の到来を秤にかけて、尻込みするようなわたしだと思ったか?」
「猊下」
「――それほど想ってくれるなら頼みがある」
「なんなりと」
「いまより、どれほど急ごうとも儀式の準備には一昼夜はかかろう。わたしの出番はその後となる」
「はい。すぐに手配をいたしましょう。それでわたくしめへの頼みごととは?」
「貴公、ここまで言ってわからんのか朴念仁? 禊の前に、貴公の愛が欲しい、と言っておるのだ。
エフィメラルカ姉さまのように……とは言わん。
だが、それくらい、命を懸ける女にしてくれても罰は当たるまい。……だめか?」
「(ノーマン、跪いた姿勢の顔に、そっと下腹部を押し当てられ言葉を失う)」
「《救済》の代償を肩代わりすると考えるなら、もはや二度と会えぬかも。そのまえに、せめて、わたしのすべてを貴公に憶えていてもらいたい。
その愛も、献身も、女としてのすべてを――いかんか?」
「(無言で、その細い腰に聖遺物の腕を回す)」




