■第八十八夜:合流
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「なるほど、そんなことがあったのか」
キャンプ地に戻るとノーマンの姿があった。
全身返り血と脂に塗れた男のために、アシュレはヴィトラに跨がり泉との間を三往復もした。
シオンと名乗った少女も狼たちもすっかり姿を消していた。
全身を携帯した石鹸でよく洗い、ノーマンは人心地ついた様子だった。
オリーブオイルを原料にした石鹸は、イダレイア半島では古くからその製法が確立していた。
上着はいまテントを固定するロープにかけられ、乾かされている。
「ノーマンがあの泉をキャンプ地にしなかったのは、こういうことを想定していたんだね」
「そうだな。昼間、ざっと下見したときあの街道を見つけた。これはなにかある、と踏んだのだ」
問えば肯定が返ってきた。
「なにかある、とは?」
「道というものは行きたい場所があるから繋げるものだ。となれば、そこにはいずれ道を造ったヤツが現れるに決まっている」
宗教騎士団の男の話は神学者たちの問答に似ていたが、見事に真理を突いていた。
「まあまさか、拠点を空にして水浴びには行くとは、思ってもみなかったが」
「それはそのう……すみません。すみませんとしか言葉がありません」
アシュレは直裁に謝ったが、アスカはそっぽを向いて口笛を吹いていた。
「いいのだ。責めているのではない。おかげで進展があった。予想を確信に変えられた。やはりシオン殿下の身になにかあったのだ、というな」
オレも水浴び出来たのだし。
水源を戦弾頭の血で汚すわけにはいかん、とノーマンは泉での水浴びを勧めるアシュレとアスカに対して固辞した。
未知の肉食竜との戦い。
その最中で浴びた返り血や肉片のなかに、どんな寄生虫や病魔が潜んでいるかわからなかった。
全身に走る小さな傷のひとつひとつを丹念に調べ、土蜘蛛の姫巫女謹製の軟膏を塗り込んでいくノーマンは、野生動物との戦闘でなにが一番恐ろしいかを熟知した手練の探索者であった。
野生動物や魔獣を相手取った戦いでは、傷の手当てや消毒を怠ってはならない。
爪牙に潜む病魔や唾液のなかに含まれる毒素が、たとえ勝利を収めたとしても、後々肉体を蝕むからだ。
常在戦場とはつまり、そういう危険をどうすれば遠ざけることが出来るのか知り尽くした者だけが掲げることのできる看板だ。
「そういえば戦弾頭はどうしたんです、ノーマン」
「もちろん仕留めたとも。首級だけでも持ち帰ろうかと思ったが、重い上に《フォーカス》で鎧われていてうっかり触れん。鱗の下に見たこともないような悪虫も潜り込んでいて、とてもではないが持ち歩く気にはなれなかった」
エレやエルマであれば薬剤や触媒の素材として喜んで採取しただろうが、わたしにはそちらの知識はないからな。
そうひとりごちると、ノーマンはアシュレの胸にしがみついたままの小さなコウモリに視線を向けた。
「しかし、ヒラリ……どこから来たのだ。ベースキャンプに預けていたのではなかったのか」
「そのはずだったんですが。どういうわけかついさっき、ボクの頭に落ちてきたんです。飛んできたとしか思えない」
男ふたりはふわふわの体毛を持つ愛らしい小動物に注目した。
漆黒の体毛、その首筋だけが純白でまるで上等の襟巻きをしているようだ。
なによりその肉体からはさきほど出合った少女──シオンと同じ匂いがする。
「そのへんにいたコウモリが偶然落ちてきたのではないのだな? 間違いなくヒラリ、なのだよな?」
アシュレほどにはヒラリのことを知らぬノーマンが、確認するように訊いた。
なにしろ普段はシオンのスカートの下にいるのだ。
ノーマンは詳しくなりようがない。
「はい、ヒラリです。シオンの使い魔の」
アシュレは断言する。
こんな高貴なオーラを漂わせるコウモリは二匹といない。
ただ、と付け加えた。
「ただ、注意深く匂いを嗅ぐとちょっと以前までのヒラリとは違うというか」
数日前、ヒラリはアテルイのもとに一匹で飛来してきた。
それまでどこにいたのか、あるいはシオンとともにあったのかわからないが酷く衰弱して冷たくなって。
それをアテルイがずっと胸元に入れて温めていてくれたのだ。
「あのときはアテルイの匂いと混じって判別できなかったんですが、いまは違う。青いバラに混じる桃の果実と新鮮なミルクの匂い。これは──」
アシュレはヒラリを撫でていた手を止め、ノーマンに視線を戻して言った。
「スノウのものです。彼女の《スピンドル》の匂いだ。それがシオンの薫りと入り交じっている」
アシュレの断言にノーマンは沈黙で応えた。
やはりな、と目だけが言う。
「どうやらオマエたちの仮説と推測が正しいようだな、アシュレ」
ノーマンに夕食を振舞いながら、アシュレはアスカと立てた仮説を披露していた。
英雄を獲りに来る英雄譚の話。
それを引き受けたであろう、魔導書:ビブロ・ヴァレリ=スノウのこと。
そして、その彼女と行動を共にしているハズのシオンの変貌について。
結果「ふたりの因子は混じり合ってしまったのでは」という仮説。
だとしたら、ふたりの匂いが混じり合ってこんなことになっているのでは、と。
宗教騎士団の男は、これを一笑に伏したりはしなかった。
むしろ、あり得ることと捉えた。




