■第七十九夜:清き流れの岩の上で
「やっと、ふたりきりになれたな」
さんざん水辺で遊んだアスカは、陽に温められた岩場で服を乾かせながら、身を寄せてきた。
身にまとうのは下帯一枚。
ずぶ濡れになった真騎士の衣装を、止める間もなく目の間で脱いでしまったアスカ相手に、アシュレは下を向いていることしかできない。
隣りからはアスカの《スピンドル》の匂い──上等な砂糖漬けのスミレのような薫りがする。
伝わってくる柔らかい熱からは好意しか感じられないのが、余計に理性をぐらつかせる。
「アスカ、その……ノーマンが帰ってきたらまずいと思うよ。服を着ようよ」
ぽしょぽしょとアシュレは言ったが、当然のように言葉には力がなかった。
そんな騎士の弱腰意見にアスカは耳を貸すつもりはないようだ。
返事のかわりに、アシュレは告白される。
「アシュレ。改めて──ありがとう」
唐突に言われて、アシュレは顔を上げた。
隣りに座るアスカの瞳は、どこか遠くを見ていた。
寂寥とも言える感情が、その顔にはある。
「アスカ?」
「あのヘリアティウムから、わたしを助け出してくれたこと。アテルイを救ってくれたこと。そして、ここにさらって来てくれたこと──あらためて、その行いすべてに礼を言う」
「そんなこと」
アシュレは困惑した。
自分のなかでそれら一連はすでにカタがついたハズのことだった。
なぜならそれは、アシュレ自身が自分の望みにまっすぐ従ったまでのことだったからだ。
だが、膝を抱いて隣りに座るアスカの胸中は違ったようだ。
「あの地獄のようなヘリアティウムの地下から、よく助け出してくれた。死地に飛び込み、よくぞわたしを外の世界へ連れ出してくれた。オマエの勇気と行動に感謝と賛辞を。心を救われたことについては前に言ったが、現実としての救出劇とそのために危地に踏み込んでくれたことへの礼を、オズマドラの皇子であった者として、ふたりだけのときに、わたしだけの言葉では伝えられていなかった。そう思ってな」
だから今回の探索行は、絶対に同道したいと思ったんだ。
わずかに頬を染めて、小声でアスカは付け加えた。
「真騎士の妹たちやレーヴ、それに他の男たちの目があるとこういう話は、どうも緊張するし、な」
アシュレと視線を合わせて、ニカッと笑う。
「前にも言ったかもだが、国を追われる前にオマエのものにされてなかったら──身も心も──間違いないけどわたしは狂死していた。アテルイだってきっとそうだ。いやそれ以前に、ここでこうして生きてふたたび笑うことなど、物理的にできなかった」
「そう言ってもらえるのは光栄だな。でも──」
このときアシュレの胸中は、実に複雑だった。
アスカの言葉は裏表がなく率直だったが、それが余計に堪えた。
忸怩たる想いに、口角が歪みかける。
真騎士の乙女の血を引く褐色の肌の美姫が、騎士から機先を奪ったのはそのときだった。
「でも、わたしやアテルイが国を追われたのはボクのせいかもしれない。とか、そんなことをもしかして考えているんじゃないのか、アシュレ?」
なぜわかったんだ?
本音を言い当てられ、アシュレはギクリとした。
その顔がよほど面白かったのだろう。
アスカは声を上げて笑った。
お人好しもバカのウチとはオマエのことだぞ、と。
対するアシュレは憤慨して見せるしかない。
「な、なんでわかったんだよ、アスカ?! しかも笑うなんて、ひどいよ。ボクだって自分の行いが他者に与えた影響について反省したり、後悔したりすることはあるんだ。いつでも自信満々で自分の意志を押し通しているわけじゃないんだよ?!」
あーあー、と今度はアスカが嘆いて見せる。
やはりなあ、と唇の端を歪める。
もちろん演技だ。
「つまり、わたしがオマエと出会ったことで悪いほうに運命を変えてしまったと、そう思っているんだな? やっぱり」
「いや悪いほうばかりかどうかは、わかんないけど。その……なにかを決断させてしまったりとか。特にトラントリムでの一件は、キミを祖国に居られなくしてしまったわけで」
アシュレの自白に、はっはっはっ、とアスカは豪快に笑った。
「ああ、そうか。そういう意味でなら。たしかに──たしかに変えられてしまったな」
オマエと出逢い、もう戻れないところに、わたしは来てしまった。
だがな、と難しい顔をしたアシュレの両頬をアスカが掌で挟んだ。
「オマエに影響されたとして、その途上で世界の秘密に触れたとして、さらに己の血統の後ろ暗さに直面することになったとしても──それらに触れたあとで、決断をしたのはわたしだ。わたしの意志なんだぞ」
アスカが視線を遮るものなどなにもない胸乳を、堂々とそびやかした。
指を振り立て、言う。
「もしかしてだがオマエ、この件に関して意志決定権は自分が持つものであり、つまり全責任は自分が取らなければならない、なんていう妄想に呑まれてたりしないか、ええアシュレ?!」
いいか?
ずい、とアスカは身を寄せる。
陽光に温められた肌から、アスカの匂いが強く立ち昇る。
《スピンドル》の薫り。
それは彼女の《意志》が活発に動いている証拠だった。
「たしかに苦難の道のりだったが、わたしは好きでここまで来たんだ。自分が善かれと思う方を選択して。たしかにオマエから受けた影響の大なるを、否定はしない。過酷な運命に翻弄されていると認めよう。だが、わたしの出逢いと選択・決断は、わたしのモノ、わたしの責任だ。それを勝手にオマエのモノにするなよ? わたしの身も心もオマエのものだと言ったが、それとこれとは話が別だぞ?」
オマエに恋をして、すべてを捧げると誓ったのは「わたしの意志」だぞ?
「わたしはわたしの意志で、わたし自身を差し上げたのだからな? 思い上がるなよ?」
むぎゅう、と顔を潰すくらい両手に力を込めてアスカが断言した。
「むわってむわってアスカさん──待ってアスカ、ほんとに、潰れる」
アシュレは両手で了解と降参を告げた。
「わかればよろしい」
アスカは両腕を組み、満足げに頷き、それから──抱きついてきた。




