■第六十二夜:切り札
「エステル、大丈夫かい。安心して。指標は全部──取り除いたよ」
アシュレは、ぐったりとしなだれかかってくるエステルを優しく抱きしめた。
その肉体は施術の余韻にまだ、びくりびくりと痙攣している。
キルシュと同様、その体内に潜り込んでいた忌むべき魔具を認めるや、アシュレはすぐさまこれを除去した。
説得にキルシュが加勢してくれたおかげで、事情説明は極めて速やかだった。
「おねがい、エステル。わたしたちにあなたを助けさせて! 今度は、わたしが助ける番、そうでしょッ?!」
涙ながらにそう訴えられて、心が動かぬ者はいない。
「キルシュが泣いてくれたから、そして騎士さまだったからっ! わたくしこんな、こんなこと受け入れられるのであって、そうでなかったらもうとっくに自害しているんですからね! それを忘れないでくださいましねッ!」
耳まで朱に染め、固めたまなじりに涙を浮かべてそう言われれば、騎士としては誓うほかない。
「貴女の尊厳と名誉のために戦う──戦うよ、エステル」
そう口にするとわっと泣かれた。
それからなんども「騎士さまでよかった、よかったです」と耳元で繰り返された。
素肌の抱擁を甘受しながら「必ず不浄王:キュアザベインを討ち果たす」とアシュレは決意を新たにした。
さて、三名はいま身を寄せ合い、水面を進む。
指標の除去そのものは狭い岸に上陸して行ったのだが、そのとき上がった悲鳴やエステルが強制された宣誓の声の大きさを考えると、汚泥の騎士たちがこの下水道最下層のどこにいようとも察知されたであろうことは、まったく想像に難くなかった。
「あんなに大きな声で、誓った。誓ってしまいましたわ……それもキルシュの目の前で……」
呆然とエステルが呟く。
キルシュは頬を染めて明後日の方向を見る。
「わたくし、もうどこにもいけません。騎士さまのものになってしまいましたの……」
うっ、とアシュレは罪悪感の鏃に胸を貫かれてうめいた。
キルシュのときもそうだったが、地上に生還したとき、どうやってこれを説明したらいいのか考えはじめるとおかしくなりそうだった。
「と、ともかく、無事でなによりだった。その、あの……うん。でも、どうやって助かったんだい? そしてなぜ、ここに?」
黙っていると間違いなく罪悪感に押しつぶされてしまう。
アシュレはまず、現状と経緯を把握することから始めた。
なによりも最優先で救い出すと決めた対象=エステルがどうしていまここにいるのか。
それは大きな謎だった。
騎士の問いに、それはですね、とエステルは深呼吸してから答えた。
「助けてくれたのは──蜘蛛おじさん──イズマさんですわ」
「蜘蛛おじさん?! イズマ?! イズマがッ?!」
予想外の答えにアシュレは小さく叫んでしまった。
いや、冷静に考えればそれ以外はあり得ない。
が……それにしたって、だ。
「イズマが、どうやってキミを?」
「おふたりが下層に落とされた直後、汚泥の騎士たちが後を追って飛び込んだ瞬間、魔法のようにかたわらに現れて『逃げるんだ』って。そのときにはなぜか両手両脚が鎖から自由になっていて──」
「イズマ……そうか」
エステルの解説は断片的で主観的だったが、それだけでアシュレには充分過ぎた。
イズマは謁見の間に乗り込んできたアシュレが周囲の耳目を集めている間に、そっと影に潜み回りこんでキルシュやエステルを助け出す算段を進めていたのだ。
そして、それをエステルの機転とキルシュを救おうという勇気が後押しした。
キルシュが危機を脱した瞬間、エステルの無事も実は確保されていたのだ。
すべては偉大なる土蜘蛛王の作戦。
場の状況を最大限に利用し、敵の虚を突く救出劇。
惚れ惚れするような手際。
並み居る敵戦力の最大集中点、その眼前にこそ隙はある。
大胆不敵。
神出鬼没。
いくら賛辞を贈っても、褒め称え過ぎということはない。
まあ──相変わらず無断で他人を的にするというところだけは頂けなかったけれど。
そうアシュレは苦笑した。
「あの切迫した状況下で瞬間的によくそんなことを思いついたな……。悪知恵ではダメだ、ボクはまったくあのヒトには敵わない……」
一瞬で縛鎖を解錠してしまう手練の見事さ、悪辣さも考えれば、アシュレは一生、この手の業ではイズマには勝てないだろう。
「でも、だとしたら。もう一度聞くけど、どうしてここにいるんだい?」
アシュレは素朴な疑問を口にした。
そう、脱出するだけなら、なにもわざわざ下層に降りて来ることはない。
イズマと一緒に下水道そのものから抜け出せたはずだ。
いや恐らく、イズマだってそういう算段だったろう。
「あの……それは、なんというか必死で。気がついたら飛び込んでいたんです、あの縦穴に」
えーっとそれわ……アシュレは思わず天を見上げた。
つまり、この娘さんは自分の意志で下層部に降りてきてしまったということなのか?
「無我夢中で、騎士さまとキルシュを助けなくちゃ、ふたりの助けにならなくちゃって……」
どうやらこの娘は、うわべは冷静沈着・クールビューティを装っているがその中身はかなり熱血少女らしい。
そうアシュレは判断した。
もう苦笑するしかない。
「ダメ、でしたか?」
「ダメというか、なんて無謀な。キミ自身の安全を考えたりはしなかったの?」
「だって、ほんとに夢中で。ふたりのところにいかなきゃって……」
なるほどこれが英雄を好むという真騎士の乙女の性質なのだ。
大事、と思った人間の危地には考えるよりも先に身体が動いてしまう。
責められることではなかった。
むしろそれは、真騎士という種そのものの美徳だ。
アシュレが困惑しているのを嗅ぎ取ったのか、エステルの表情が陰った。
眉根が寄せられて、泣き出す一歩手前だ。
「やっぱり……お邪魔でしたか。バカなことをしでかしてしまいましたか」
「いや、違う。逆だエステル。キミたちの献身は、いつもボクを助けてくれる。今回もそうだ」
「いつも、助けになっている? わたしたち、が?」
「ああ、キミとキルシュが揃った。これがボクが待っていた最後の切り札だったんだよ」
「最後の……切り札?」
話の意味が理解できないエステルが不思議な表情をする。
その隣ではキルシュがまったく同じ顔をしている。
アシュレは思わず、小さく吹き出してしまった。
「おかげで脱出できそうだってことサ」
自信満々の笑顔で言い切った。
 




