■第六十一夜:悪意を光に変えて
ごおっ、という唸りが地下下水道最下層に鳴り響いたのは、アシュレたちが速力を落とし、天井にあるはずの出口を丹念に探しはじめて、すぐのことだった。
「なんだ? なんだこれ?」
「聞こえる。これもしかして──羽音?」
アシュレには、いったいなんの音か判然としなかったそれを、キルシュは一瞬で聞き分けた。
ごうっ、ごうっ、とわずかな間を置いて強弱を繰り返すそれは、たしかに言われて見れば鳥の羽ばたきのようにも感じられる。
「でもだからって、なんの羽音なんだッ?!」
地下下水道内がいかに音を反響させやすい環境だといっても、これはいくらなんでも予想される音源が大き過ぎる。
もし鳥だとしたら全翼長で、数メテルはなければならない。
それほど大気を震わせる羽音は大きかった。
「こんなの、伝説のロック鳥でも飛んできているとでも、そういうのか?!」
「いいえ、騎士さま、この羽音は……間違いない。真騎士です。真騎士の乙女のもの。白き翔翼の──」
アシュレのカラダの下で身を起こしたキルシュがそう告げた瞬間、その音の主がアシュレたちの視界に飛び込んできた。
それは紛れもなく真騎士の乙女。
いいや、少女だ。
「エステル!」
キルシュが歓声を上げるのと、その光り輝く翼が宙でバランスを崩すのは、ほぼ同時だった。
「エステルッ!!」
ふたたびキルシュが悲鳴を上げた。
チカッと一瞬の光が瞬いたかと思うと、それまで木立を擦り抜けるように器用にカラダを逸らしながら地下水道の空中を駆けていた真騎士の少女の肉体が、まるで糸かなにかに羽根を接触したように不自然に回転した。
そのまま水面へ向かって落下しはじめる。
なにか攻撃を受けたのだ。
この瞬間、すでにアシュレは聖盾:ブランヴェルに全速を命じていた。
「くっ、うっ」
急加速にキルシュがうめく。
「キルシュ、頭を下げて。そして、助力してくれッ!」
「!」
その一瞬でキルシュはなにを言われたのか即座に理解した。
あるいはそれは体内に焼きつけられたアシュレとの契約の印が可能にした、言語を介さない意思伝達の結果であったのかもしれない。
ゴウッという唸りとともに、白き翔翼が展開した。
いまの聖盾:ブランヴェルは翼の生えた天翔る船だ。
それは間髪置かず、すぐさま最大戦速を発揮する。
チュンッ、と水面で聖盾:ブランヴェルが跳ねた。
喫水は、ほとんどないと言っていいだろう。
航行するというより、子供たちがよくやる水切りの石のように、水面を跳ねているというのが正しい。
果たして、アシュレは上空よりエステルに襲いかかる軟体生物の魔手より一瞬だけ早く、失速して墜落する少女の肉体を抱き留めることができた。
「キルシュ、白き翔翼は、そのままの出力を維持ッ! 全速で逃げるぞッ!」
エステルを抱き留めたアシュレには、わかっていた。
いま自分たちの頭上には、奴らが──汚泥の騎士たちが潜んでいる!
そしてその予測を裏付けるように頭上からの襲撃が始まった。
「オオオオオオオオオッ──!!」
アシュレは己の喉が自然と雄叫びを上げるのを感じた。
アスカとレーヴ、ふたりの戦乙女の契約が授けてくれた全方位的殺気感知が、そしてシオンの心臓から流れ込んでくる血がもたらした暗視能力が、アシュレにいま自分たちに襲いかかる汚泥の騎士たち、その小戦隊の姿を克明に見せてくれていた。
それはさながら頭上より襲い来る、実体を得た悪夢そのもの。
汚泥の騎士たちの不定形の肉体はしかし、凄まじい膂力を内包している。
なにしろそれは、数十ギロスに達する彼らの肉体を天井にて保持することを可能にするほどの力だ。
これを筋力と言い換えていいのかどうかわからないが、人間とは比べ物にならぬそれを彼らが有しているのは間違いないことだ。
そしてその恐るべきパワーを誇る肉体がぶるり、と身震いしたかと思うと、伸ばされた触腕がどこに呑んでいたのか忽然と現れた刀剣を握り込んだ。
アシュレは完全に理解した。
汚泥の騎士たちは、抜かりなく得物を携えてこの最下層に降りてきたのだ。
それは己の骨格にするには足りなくとも、標的を仕留めるには充分な装備だ。
なにしろいま、アシュレは甲冑の類いを身に付けておらず、その手元にある武器は二本のダガー、ハンドアクスが一丁、小さなナイフ、たったそれだけだ。
「フッ」
鋭い呼気とともにアシュレは足さばきだけで聖盾:ブランヴェルをスライドさせた。
汚泥の騎士たちの落下地点を予測しては巧みに躱す。
直撃は完全に避けた。
だがそれだけでは触腕と得物が生み出す長いリーチの攻撃を躱すには不十分過ぎた。
聖盾:ブランヴェルを操るアシュレだけを狙って、的確に突きが繰り出される。
《スピンドル》の伝導はない。
生身の人間を殺すだけなら異能は必要ない。
むしろアシュレは確信した。
彼ら汚泥の騎士たちはやはりキルシュとエステル、つまり真騎士の少女たちをなんとしても生きたまま手に入れたいのだ。
自分たちの花嫁として。
アシュレがもし、本当もう完全に武具を失っていたなら、あるいはそれは実現していたかもしれない。
だが、まだヒトの騎士には頼れる武具が残されていた。
「オオオオオオオッ──!!」
アシュレはすれ違いながら繰り出される斬撃と刺突の嵐を、水面で踊るようにステップを切りながら右手の竜皮の籠手:ガラング・ダーラで受けていった。
なめした皮のように柔軟でありながら、鋼など比べ物にならない強度を誇る竜皮は汚泥の騎士たちの繰り出す切っ先をすべて受け流した。
いや、それだけではない。
アシュレは敵の攻撃が右腕に接触した瞬間、逆に《スピンドル》を流し返した。
結果──汚泥の騎士たちの触腕のなかで握り込まれた刃たちは赤熱し、これを焼き抜いた。
ギシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア。
胸の悪くなるような叫びが地下下水道の壁に反響してこだまする。
「騎士さま!」
アシュレの腕から気絶してぐったりしているエステルを抱き取ると、キルシュがなにか手渡してくれた。
それは使い慣れた得物の感触。
ハンドアクスだ。
そして、なぜそれが手渡されたのか、アシュレには瞬時にわかった。
もう目の前、あっという間に交差する地点に網があった。
恐らくはここを通過してきたエステルを逃さないための蓋としての、あるいは退路を断つ保険としての罠。
汚泥の騎士たちがついさきほど設置した網だ。
「押し通るッ!!」
叫ぶが早いか、アシュレはハンドアクスに《ちから》を込めた。
ヴォン、という音とともに手斧は光の白刃と変じた。
空気が焼ける匂い。
アシュレはそれを投擲しながら伝達する《スピンドル》の出力を最大値化した。
そして、次の瞬間。
張り巡らされていた蜘蛛の巣のごとき包囲網がすべて光に転じた。
水面に映る鏡像も相まって、それはさながら暗闇に咲いた花のようであった。
次の更新は週明けになるかと思います。
土日は基本、更新しませんので、あらかじめよろしくです。




