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■第二十二夜・エピローグ2(あるいは、騎士の帰還)

 イズマが去った食堂で、アシュレはしばらく呆然として、時を過ごした。

 

 イリスが点てなおしてくれた二杯目のカフアが目の前に出てくるまで、アシュレはイズマの出ていった食堂の出口を自失したまま眺めていたのだ。

 

「どうぞ」

 カップから立ち昇る芳香が、アシュレに現実感を取り戻させてくれた。

「なんだか、いろいろあるみたいです、話せないことが――だって、何百年も戦い続けてきたヒトなんですもの」

 とりなすように、イリスが教えてくれた。

「体力を回復させなくちゃ、っていうのはアシュレにだけ言った言葉じゃありませんよ、きっと。イズマ自身も相当に消耗しているはずなんです。だから、焦らないで」

「いや、ボクは……ただ」

 アシュレは続く言葉を飲み込んだ。

 アシュレ自身の思いや考えがどうであれ、イリスの指摘は正しい。

 肉体の消耗は、すなわち精神の消耗でもある。

 思考のタフネスを欠いたままのアシュレに、イズマは話すことはできない、と言ったのだ。

 それは同時に、イズマ自身の消耗も言い表していた。

 

 こんなときに重要な案件を話しあうことは、まず、最悪だ。 

 仕切り直そう、そういう意味だとアシュレはイズマの言葉を捉え直した。


「ふふっ、それでもちゃっかり二、三個掠めていくとこが、イズマですね」

 そういえば、たしかに菓子の量が減っている。

 打たれていた針も、いつのまにか抜き取られていた。

 抜け目のないイズマらしい。


 ふふふっ、とふんわり笑ってカフアのカップに口をつけるイリスの微笑みが、心の荒れた場所に染み入るのをアシュレは感じた。

 たしかに、ボクは疲れているんだな、とそこではじめてわかる。

 精神が疲弊し、失調しかかっている証拠だ。


「そういえば、このお菓子、シオンにも食べてもらいたいんだけど……あれ以来、じつは出会えないんですよね。後ろ姿を見かけたりはするんだけど、すぐ見失っちゃって」

 今日のこれも、じつはアシュレの快気祝いを口実に、シオンを釣り出せないかなー、って思ってですね、というイリスらしからぬ失礼な物言いに、アシュレは思わず吹き出してしまった。

 夜魔の公女を釣り出すのに甘いお菓子を用意するという発想は、きっと前代未聞だろう。

 あはは、とアシュレは笑った。

 イリスの気遣いが嬉しくて、笑いながら泣いた。

 ふふふ、とイリスは笑い、アシュレにその菓子を数個託したのだ。


 いわく、

「わたしじゃだめでも、アシュレなら釣れるかも」とのことだった。


 シオンの名を聞いて、アシュレは愛しさが募るのを覚えた。

 そういえば、目覚めてからまだ一度も会っていない。

 ずっと近くに感じていたのに。

 いや、近くに感じすぎるせいだ。

 まるで自分の一部に彼女がなってしまっているかのようだ。

 ことシオンに関することだけなら奇妙な安堵、安心が胸中にあった。


 これが信頼というやつかな、とアシュレは笑った。


 それなのに、お菓子を持ってシオンを探しに行こうと言うと、挙動不審にイリスはなった。

 一緒にいこう、と誘ったのに断られた。

 自分の寝ている間に本妻争奪戦などという恐ろしい闘争が繰り広げられたのではないのか、と想像をたくましくしてしまったが、イリスの態度からはそういう敵愾心てきがいしんは一切感じ取れない。

 むしろ、シオンを案じる、思いやるような言動だった。

「だから、アシュレがひとりで行ってあげてください」と頼まれてしまった。

 それでようやく、アシュレはイリスから遠回しに「シオンを探して」と示唆されていたことに気がついたのである。


 冗談めかしてイリスは言ったが、その裏に隠されたシリアスなサインを悟ってはじめて、アシュレは不安を覚えた。


 それから、一日中、シオンを探して彷徨さまよった。

 食事を忘れ、勝手のわからぬカテル島の方々を歩き回った。

 もっとも、施療院とそこに付随する教会、宿坊とその庭、あとは裏側の山くらいしか外出できなかったが。


 ときどき動悸がして、眩暈めまいがした。

 当然だ。病み上がり。本調子ではないのである。

 それでもアシュレは探すのをやめなかった。

 借りたままだったゲッコー・ブーツが役に立った。

 いや、壁面を歩く、という意味ではない。

 純粋に歩きやすかった。


 とうとう、夜になってしまった。

 気をつかってもらってもいたのだろう。

 イリスもイズマも、夕食の時刻を回ってもアシュレを呼びに来なかった。


 どこをどう歩いたのか、気がつくと山の頂上に出てきてしまっていた。

 夢中で一〇〇〇メテル近く登ってしまっていたのだ。

 そこは月台うてなのようになった場所で、実際、星を観測するのに使うのかもしれなかった。 


 うっすらとかいてしまった汗に、秋の風がしみる。

 一緒に登ってきた月がアシュレを見ていた。


 と、アシュレはそこに影を見た気がした。

 それから、その物体が飛びついてきた。

 ヒラリだった。


 ぺた、とヒラリは身を合わせアシュレの体温を慈しむかのように味わう。

 首筋の白い柔毛にこげ、なにより全身から発される気品とバラの香りは間違いようがない。


 アシュレは胸にとまったコウモリを撫でた。

 さすった。なんども、やさしく。

 ヒラリが無事なのなら、シオンが無事であることは間違いなかった。

 安堵と同時に、たまらない切なさに襲われた。


 だったら、どうして会いに来てくれないのか。

 顔が見たかった。声が聞きたかった。抱きしめて、体温を、匂いを確認したかった。


 会いたいよ、とつぶやいた。

 記憶のなかの彼女をなぞるように、指がヒラリの首筋を撫でていることをアシュレは自覚しなかった。


 ちいさな悲鳴があがったのは、そのときだ。

 背後で。近くで。

 振り返ろうとしたが、そのまえに体当たりをくらった。


「くくく、首筋は特に敏感だと、言ったであろうが、この大馬鹿者!」

 いきなりののしられた、顔も見ずに。


 うれしさと同時に生じた突発的な怒りで、アシュレは混乱した。

 爆発するみたいに感情が湧いたのだ。

 血が沸騰するような感覚を味わった。

 アシュレの背中に、だれかの体温があった。

 風がバラの香りを運んだ。

 シオンだった。


「く、これでは綿密な計画が台無しではないかっ、ヒラリめっ」

 声しか聞こえないシオンは、ヒラリに八つ当たりした。


 かちん、とアシュレは来た。

 ヒラリに当たるなど、お門違いだ。

 こしこし、と怯えてちいさくなってしまったヒラリの首を撫でてやった。

 さっきよりすこし強く、長く。


「んんッ~~~~~~~~~!!」

 必死に声を押し殺した悲鳴をアシュレは無視する。

 指の腹で喉の下を撫でてやるとヒラリは身の強張りを解いて、恍惚とした表情になる。

 

 五秒、十秒、三十秒、悲鳴は続いていたがアシュレはやめなかった。

 がくがくがく、とシオンが脚に来ているのを知ったが、それでも。

 謝ればすぐにでもやめるつもりだったのだが、謝罪の言葉はなかった。

 さんざん探し回ったのに出てきてくれなかったことへの怒りも相乗した。

 シオンはもうアシュレに全体重を預けなければ立っていられない様子だった。

 それなのに降参しなかった。

 強情なお姫さまだな、とアシュレは思う。


 しかたなく振り返って抱きしめようとした瞬間だった。


「ダメだ、まだ、ダメだッ!」

 拒否された。何か言う間もなく、指を絡められた。

 細い指、小さな手だった。

 自分の傷だらけの指とはまるでちがう、剥き身のゆで卵に触れているような感触だった。


「せ、説明を――釈明をさせてくれ」

 シオンは背中合わせになった。

 アシュレは無言で従った。

 シオンはフラフラで、ときおり膝が抜けそうになるのがわかった。


 アシュレは罪悪感に襲われた。

 いくらなんでも意地悪をしすぎた。

 抱き上げて楽な姿勢にしてやりたかった。

 せめて、どこかに腰かければと思ったが、どうしてもシオンはこの姿勢にこだわりがあるらしい。

 きちんと、筋を通すまでは面とむかえないのだ、というシオンの心が伝わってきた。


「そなた――元気か?」

 とぎれとぎれにシオンが訊いた。

 荒い呼吸が妙につやっぽくて、アシュレは掌に汗をかいた。

「おかげさまで。傷だらけだけど、生きてるし、五体も満足だよ。朝までミイラ男みたいになってたけど、いまじゃノーマンのほうが、ひどいくらい」

「――そうではない」

 アシュレの受け答えをシオンは頭から否定した。


「そなたは死んでいた。いや、一度、死んだ。五体も満足ではなかった。〈シヴニール〉からのエネルギー逆流導線になった右腕は表面が炭化していた。

 竜皮の籠手:〈ガラング・ダーラ〉がなければ、肩まで消し飛んでいただろう。

 肺と心臓が破裂、肋骨は外開きになって爆発していたし、神経網は衝撃でズタズタだった」


 え、とアシュレは耳を疑った。それは重傷と言うレベルではない。シオンが言った通り即死級の負傷だ。

 いくら《スピンドル》が運命を変えうる力だといっても、通常の技の範疇では、その傷は癒せない。消え行く命を救うことはできない。

 たとえ可能だとしても巨大な代償が必要となる。

 たとえば、治療者の命そのものだ。


「どういうこと」

「言った通りだよ、アシュレ。そなたは一度、死んだのだ」

「生きてるよ」


 ぶるぶる、とシオンの手が強張りに震えているのをアシュレは感じた。

 いや、震えているのは手だけではない。全身だった。


「繋ぎ止めた者がおるからに、決まっておろう!」

「奇蹟、だね」


 なるべく軽く言ったつもりだった。

 だが、だめだった。

 イズマのようにうまくやれない自分が情けなくて、アシュレは涙が出た。


「奇蹟ではない。外法だッ」

「……たとえ外法でも、支払う代償にかわりはない。ボクは感謝するよ。その代償を支払ってまで、外法に身を染めてまでボクを助けてくれたヒトに」

「たとえ、人外と成り果てたとてか」

「……だれかな、シオン、知っているなら教えてほしい。そのヒトに、お礼が言いたいんだ」


 ぱたたた、と液体が石畳をたたく音がした。

 シオンの頬を伝った涙が、落ちた音。

 それは止むことがなかった。


「バカがッ、そのような、ヒトを人外のモノに作り替えるような外法を知る者が、この世においそれとおる訳なかろうがッ! ましてやそれを使いこなし、実現する者などなおのことよッ!」

 はっ、はっ、と荒い吐息をアシュレは背後に聞く。

 ましてや、ましてや、そなたの仲間のなかに、そのような外道は、おってはならぬはずだ。

 シオンが叫んだ。


「だれがおる。ほかにだれがッ、夜魔の姫:シオンザフィルを除いて、だれがそれを成し遂げうると思うのかッ」

 そなたを、そなたを、バケモノに――。

 そこまで告げて、シオンは必死で泣き声を噛み殺した。

 そんなことで許されてはならないと。

 涙で許されてはならないのだと。


 反対に、アシュレは冷静だった。

 自分でも驚くほどに。


「じゃあ、ボクはいま、夜魔? キミの眷族かい?」

「いや――そうではない。もっと、悪いかも、だ」

「シオン、これは純粋な知的好奇心からなんだ。教えてくれ、それほどの損傷を負ったボクの身体を、夜魔にすることなく、どうやって再生させた? どうやってボクの命を繋ぎとめた?」


 アシュレは自らの裸身に縦に走る傷跡を意識した。

 なるほど、これほど大きな切開痕、縫合痕は見たことがない。

 だが、一度死んだ身であるというのならば、納得だった。


 言い淀むシオンの気配が手に取るように判った。

 震える唇の奥で奥歯が鳴っていた。

 限界だった。

 アシュレは強引に振り返る。

 つられて倒れ込みそうになったシオンを抱きとめた。

 背中を押されるように、シオンが言った。

 アシュレの胸に顔を埋めて。


「わ、わたしの臓腑ぞうふを注いだ。そなたの失われた心臓を、わたしのもので補った。肺腑はいふも。血も」

「それじゃ、キミが」


 アシュレは青くなった。

 つまりアシュレは現在、人間と夜魔のハイブリッド、継ぎ接ぎの合成人間ということになる。

 どうしてそれが可能だったかはわからない。

 わからないがアシュレは現に生きている。


 だから、それはいい。


 だが、臓器を提供してくれたシオンはどうなるのだ? 

 自分のためにシオンが命を投げ出してしまったのだとしたら、それこそアシュレは悔やんでも悔やみ切れなかっただろう。


 それなのに、シオンはいる。いま目の前に、こうして。


「な、なぜか、生き恥をさらしておる」

 イズマが言うには、次元捻転的二重体だというのだ。

 臓器の一部を共有して存在する生き物だと。

 だから、いまのわたしには、心臓がないらしい。


「耳を当てると鼓動は聞こえるのだが。この心音はアシュレ、そなたのものと完全に同じなのだ」

 異能の奥義に、完全な別体を生み出す技があってな。

 たぶん、その応用なのではないか、と言うのだが。


「つまり、われわれは別人の別体、別心にして、同一の生を生きる者となったのだ」


 わたしの完全な死は、そなたの死に。

 そなたの死は――どうなるか、わからない。

 ねじれがずっとそのままなのか、解けてしまうのか、それもわからない。

 いつまでこの状態で安定していられるのかも。

 もっとも、イズマが言うには、そなたの胸から心臓を取り出せば、わたしだけは確実に助かるらしいが。


「許せとは言わぬ……ただ、ただ、生きてくれ。ほかには、なにも望まぬ」

 愛してもらえなくてもよい。蔑視されてもかまわない。疎まれても当然だ。

 涙を堪え、アシュレを見つめて懇願するシオンの装いに、アシュレはこのとき初めて気がついた。


 いつもは頭頂にまとめられている長い黒髪が下ろされていた。

 王冠はなく、ラインはシンプルだが手の込んだレース織りの白い夜会服をまとっていた。

 肩も脚もき出しで無防備だった。

 首筋に巻かれたチョーカーだけが唯一のアクセサリーだった。

 葡萄の蔓が刺繍ししゅうされた瀟洒しょうしゃな品だった。


「すごく似合ってるよ」

 抱き寄せてアシュレは言った。

 見計らったように月が雲に陰る。

「でも、ボク以外の男に見られたくない。見せたくない」

 アシュレは言った。

 こんなに独占欲が強い男だとは思わなかったよ。恥ずかしい。そう告白した。

 あ、あ、とシオンが震えた。

 アシュレが己の境遇について、なにひとつ言わず、シオンをなじることさえなく、すべてを甘受したからだ。

 堪えられなくなって、シオンは泣いた。


「どうしていいかわからなくて、どうやってあやまればいいのか、わからなくて、なにでつぐなったらいいのかわからなくて――」

 震えながら、歯の根を鳴らしながら言うシオンの独白を、アシュレは黙って受け止めた。


挿絵(By みてみん)


「かわりになにをさしあげたらいいのか、だって、わたしはもう、ぜんぶ、なにもかも、アシュレのものなのに――イリスが、どんなに苦しかったのかやっとわかって――それで、それで、もう、これしか、なくて」

 これ? アシュレは少女のように泣きじゃくるシオンの涙を、唇ですくい取りながら聞いた。それから気がついた。

 チョーカーの意味に。これは装飾品ではない。

 プレゼントにかけられたリボンだ。


「夜魔の婚姻は、互いの首筋の血を確かめあうことで結ばれる。ほとんど絶えてしまった古式な風習だが……」

 最古の血に連なる夜魔の姫は、その伝統を継承する者だった。


「その血を飲む者は、相手の《夢》を体験することができる。互いが互いの所有者となることができる。その血に溶けた記憶までも」

 相手の記憶をのぞくという、あまりに倒錯的、残酷・淫靡いんびな儀式ゆえに廃れゆくのは当然だと思っていた。

 あまりにヒトをヒトと思わぬ所業ゆえに、すたれゆくのは当然だと思っていた。


「だが……そうではなかったのだな」

 さしあげてもよい、いや、さしあげたいと思えるほどの相手に出会えなかっただけなのだ。先代の王族たちは。

 だから、すたれたのだ。


「受けて、いただけるだろうか」

 震える指がアシュレのそれを首筋へ導く。


「条件がある」

 アシュレはそのチョーカーの肌触りを確かめながら言った。

 シオンはじっと待った。

「ボクのそれも、受けてほしい」


 シオンはこぼれてしまうのではないかというほど、瞳を大きく見開いた。

 それから誓いを立てた。


「いずれか灰に還る、その日まで」


 汝のかたわらに。

 互いに。

 最期まで。



         ※



「ずいぶんとまあ、世話の焼き甲斐のある姿になったものだ」


 長椅子に腰を下ろしたノーマンの表情は、火傷の痕のせいで読みにくい。

 油断すると右目から意識せぬ涙が垂れてしまう。

 これでもだいぶ症状は改善されたのだ。


 フラーマの漂流寺院を抜け出したときは満身創痍、右目は目玉焼きのように焼けて、表面が白濁していた。

 イズマとイリスの適切な治療がなければ失明どころか眼球ごと失っていただろう傷だった。


 備えつけのキッチンで茶を準備している女性は、だれあろう仕えるべき相手、カテル島大司教位:ダシュカマリエだ。

 ちなみにその姿をノーマンは直視できない。

 丈の短いワンピースを部屋着にするダシュカマリエが背伸びして茶葉を選んでいるのだが、おかげで三十前とはとても思えない美脚が眩しすぎる。目の毒だ。

 朴念仁とはいえ、ノーマンも男であることにはかわりない。

 性欲だって当然ある。


「大司教猊下、その……」

「あー、ちょっとまってくれ、たしか、このあたりに……いかんな、独り住まいだと好き勝手にモノを積んでしまって……うわっ」


 ぐらり、と傾いだ薬瓶が、隣りの大物を動かしてしまった。


 足場の台座がバランスを失い、ダシュカマリエは転倒する。

 その上部から薬草の詰められた重いガラス瓶が落ちかかる。

 頭部への直撃コース。危険だった。


 ごう、と身体が反応した。完全な反射。

 考えている暇などなかった。

 鍛練を積み重ねた肉体が雷光の速度でダシュカマリエと薬瓶の間に割って入った。

 かわりに薬瓶がノーマンをしたたかに打つ。

 場合によっては、割れて――。


 ダシュカマリエは奇蹟を見ていた。


 ノーマンの背が、薬瓶を受け止めていた。

 正確にはコントロールされた背筋とそこに撓められた《スピンドル》エネルギーが羽毛のように薬瓶を受け止めていた。

 それから、ダシュカマリエ自身も。

 ふわり、とそこに不可視のクッションがあてがわれたかのようにゆっくりと着地した。


「ご無事で? 大司教猊下」

 当然のことのように訊くノーマンに、ダシュカマリエは動悸した。

 銀の仮面が頬まで覆ってくれていることをありがたく思った。

 小娘みたいに赤面しているのを見られたくなかった。


「礼を言うぞ。我が騎士、ノーマン」

「薬瓶を」

 言われるまでもない。ダシュカマリエは大ぶりな薬瓶を抱えた。


 薬瓶は正確には、ノーマンに触れてさえいなかった。

 ダシュカマリエはその包帯だらけの肉体が、これまで、どれほどヒトをかばった傷で痛めつけられてきたのかを知っている。


 おそらくノーマンはそうやって、ヒトをかばううちに死ぬのだろう。

 騎士としては本望かもしれない。まるで英雄譚に出てくる理想の騎士たちのように。

 だが、男たちはそれで満足かもしれないが、残された女たちの嘆きとその後について、英雄譚は書き記さない。


 愛する男の死を乗り越えていける女ばかりだとでも思うのか。

 ノーマンがヒトをかばわなくともすむような世界を作らねばならない、とダシュカマリエは思う。


「戻されないので?」

 ダシュカマリエの胸中など思いも知らぬのだろう。ノーマンが訊いた。

 朴念仁め、とダシュカマリエは眉を吊り上げる。

 こちらも表情は見えない。目元がきつくなったのが判るくらいだ。


「戻すさ。ただ……ちょっと、恐いな。さっきの、いまだろう? やはり踵が高い靴は恐い」


 ダシュカマリエは足下を指した。

 女性としては長身で、威風堂々たる美丈夫という印象を周囲に与えがちなダシュカマリエだが、実際はそうでないことを側近たちだけが知っている。


 あの大司教としてのダシュカマリエは、胸はともかく、平均以下の背丈を踵の高い靴で押し上げ、指導者としての威厳を保つべく、姿勢も話し方も涙ぐましい訓練を繰り返して成り立っているものなのだということを。


 瓶を抱え、倒れてしまった台座と見比べながらダシュカマリエは言った。

 もし、腕があるのなら、ノーマンはなにも言わずそれをもとの位置へ返したことだろう。


 だが、いまやノーマンの両腕には義手はない。

 基部である接合部と骨のようなシャフトが覗くのみ。

 聖遺物:〈アーマーン〉はその強大すぎる破壊力のため、戦時や聖務以外では礼拝堂の奥に封じられているのが常だった。

 大司教と騎士団長の両方の承認を持ってしか開けない隔壁がそれを守っている。

 それに、火傷の治療にも義手は邪魔だったのである。


「肩をお貸ししましょう」

 ノーマンが跪き、半ばまでしかない左腕を広げて見せた。

 こ、これは……騎士に跪かれた姫君のようにダシュカマリエは動揺した。

 こ、腰かけろということか?


「こ、これでいいか?」

「しっかり掴まって。わたしの頭を抱いて」


挿絵(By みてみん)


 立ちますよ、とノーマンは言い、ダシュカマリエを肩口に乗せたままリフトした。


「ノーマン! 傷に障る!」

「平気です。猊下がケガをするより、ずっと平気です」


 また、当然だという口調で言うものだから、ダシュカマリエの胸は痛むのだ。

 ノーマンの肩から見る風景は、これまでと同じ部屋とは思えないほど変わって見えた。


「すごいな、視点が変わっただけで別の部屋のようだ。ひとりではできないことも、ふたりならできるということか」

 きっと世界もそうであろうな、とダシュカマリエはつぶやいた。

 薬瓶を戻し、目当ての茶葉を探し当て降りた。

 茶を点て、ノーマンを労った。


「まずは……これは公式の場でも言ったが……聖務遂行ご苦労だった」

「お褒めにあずかり、光栄です」

「ただ、わたしとの約束を違えたな」

「? 生きては帰りましたが?」

「無事に! 無事に帰れ、と言ったのだ。こんなミイラ男になってしまいおって!」


 あー、とノーマンは思い返した。

 たしかにそうであったかもしれない。茶を飲んで場を濁したかったが、いまのノーマンには両腕がない。


 すると思考を先回りしたようにダシュカマリエがティーカップを取った。

 そう言えば、カップが一組しかないのだが? 

 それからダシュカマリエは自らの口もとにそれを運んだ。

 微妙な嫌がらせを受けている気分にノーマンはなった。


「うむ、いいだろう。ほんとうは熱いのが身上の茶なのだが、それでは飲めまい」

 は? と思う間もなくカップが差し出された。

 ダシュカマリエが身を寄せる。

 これは、とノーマンが横目になって訊いた。


「飲ませてやる、と言っているのだ」

 いや、それは、とノーマンは硬直した。


「なんだ、まさか、いやなのか?」

 傷ついた様子でダシュカマリエが言い、いえ、そうではなく、とノーマンは汗をかいた。

「ならば遠慮はいらん。飲め」


 これまで体験したことのない種類の緊張にノーマンは戸惑った。

 うまいか、と訊かれた。味など判らなかったが、けっこうなお点前で、と返しておいた。

 ふうむ、とダシュカマリエは鼻を鳴らした。

 同じ器から茶を飲む。


「おまえとは、やはりもう少しわかりあわねばならんな」

 そう感想した。なぜだかノーマンは胸騒ぎを覚える。

 ダシュカマリエの瞳が悪戯っぽく微笑んだからだ。


「戻ってからさっそくだが、ノーマンよ、働いてもらうぞ」

 一瞬にして冷徹な大司教の顔に戻ってダシュカマリエが言った。

 ノーマンはダシュカマリエに向き直った。


「聖務を与える」

「なんなりと」

 通常考えれば、ありえないオーダーだったが、聖職者には上位者への服従の義務があった。


「越してこい」

「は?」

 言われたことの意味がわからず、ノーマンは混乱した。

 なんですと? もう一回お願いします、と訊いた。


「越してこい、と言ったのだ。ここにな」


 三度は言わぬぞ。

 それとも命令されるのが好きなのか? 

 そういうことであれば、もう一度言おうか、とダシュカマリエは冷然と言い放った。


「わたしの介抱を受けよ、と言ったのだ。その状態では日々の生活も困るであろう」

「あ、いえ、施療院では充分な治療と、手厚い看護を受けて……」

「カテル病院騎士団の筆頭騎士を支えるには不十分だと我、大司教:ダシュカマリエ・ヤジャスが判断した、と言っている」

「うへえ」


 思わずおかしな声が出た。イズマの癖がうつったのだ。

 なんだ、不満か、とダシュカマリエが言った。


「加えて、今後わたしのことはダシュカ、と呼び捨てるように。統率に問題があるようなら、ふたりだけのとき限定でよい」

 不満そうだな、とダシュカは言った。

 いや、あの、これはいったいどういう任務で? さすがのノーマンでも、これは挙動不審になる。


「二十四時間、つきっきりでわたしの身辺警護をしてほしい、という要請だ。お願い、といってもいい」

 さっきのようなこともある。ダシュカは胸元に手を当てて言った。


「その代償に、わたしはおまえの不便をすべて引き受ける。あらゆる要求に献身的に応えると誓おう」

 不満があるなら言ってくれ。

 献身の意味はわかるであろう、とダシュカの目が言外に言っていた。


「それとも、あの一夜は……あれか……遊びであったか?」

 酒がほしい、とノーマンは思った。前後不覚になりたかった。

 それは聖務に赴く前のこと、半年前の出来事だ。

 あの日も半ば、はかりごとのようにノーマンはダシュカマリエの自室に捕まっていた。


 だが、悪戯っぽく笑うダシュカマリエが継いだ言葉に、その思いは吹き飛ばされた。


「聖騎士:アシュレダウを匿ったこと、また人類の仇敵とも言える二種族の王を迎えたこと、なにより降臨王の孫娘とその腹に宿った運命の子を得たことで、わたしや、わたしを含むカテル病院騎士団は、まちがいなく、これまでの歴史上最大の岐路に立つことになるだろう。

 かつてハイア・イレムでの拠点を失い、流浪の騎士団となったあの頃よりも、はるかに」 

 わたしはそう遠からず、陰謀や暗殺の対象となる。


「そのとき、我がかたわらに、おまえにいてほしいのだ。もし、志半ばで果てたとしても、それなら迷わず逝けるだろうから」

 そう言うダシュカマリエの口調は先ほどまでとは、冷静さは同じでも、込められた熱量がまったく違っていた。


「おまえの命をわたしにくれ」

 そのかわり、わたしのすべてをさしあげる。

「我らカテル病院騎士団が密かに願い、果たすべく働き続けてきた、大願成就は近いのだ」


 この荒み切った世を救いうる者の誕生をたすく、という。

 そのいしずえになろうという。


 ノーマン、とダシュカはさらに身を寄せる。

 ノーマンは失われて久しい自らの手に、彼女のそれが重ねられるのを感じた。

 

「あの疫病の村で、出会ったときのことを憶えているか? 

 妻子も業病に冒され、おまえの両腕も切り落とさざるを得なかったあの日のことを。

 わたしはまだほんの小娘で、司祭でさえなかった。

 聖務を受け、疫病・病魔の駆逐と民の救済に向かったカテル病院騎士団も多くの犠牲を出した。

 領主にも教会にも見捨てられ、最愛の妻と子を病魔に取られ、抜け殻のようだったおまえに、この世のことなどまともに知らぬ小娘のわたしが、無責任にも誓ったことを憶えているか?」


 かならず、かならず、この世界からこのような悲劇を拭って見せる、と。


「あの日の約束を叶えさせてくれ」

 ダシュカマリエの色素の薄い瞳がノーマンを見ていた。

 ノーマンは熱病にかかったように震える。

 そのひび割れ、震える唇にダシュカはそっと自分のものを重ねる。

 どちらからともなく、涙が流れて落ちた。


「ほかのだれにまかせるのではない、わたしたちで《そうする》のだ」

 ダシュカの銀の仮面が、ちりちりと音を立てた。


「視えるのだ。偉大な王の誕生が。世界を導きうる者の生まれ出でる、その瞬間が」


 ともに来てくれるだろう? 

 ノーマンは頷いた。




 がちん、とどこか遠いところで運命の歯車の噛みあう音がした。



                  





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