■第五十二夜:獲物の印
「キルシュッ?!」
アシュレは目を開いて跳ね起きた。
腰を下ろし、まぶたを閉じていた時間はそう長くはなかったはずだ。
だとしても、迂闊だった。
油断するなんて──馬鹿者め。
アシュレは自分をなじる。
やはり目を離してはならなかったのだ。
キルシュの元へ駆けつけると、躊躇なく走り込んだ。
水かさは膝の半ばまでもない。
軍用の皮のブーツのまま飛び込むと、耐えるように身を震わせる真騎士の少女の裸身を抱き上げた。
その裸身は美しく、傷ひとつない。
しかし、彼女はなにかに襲撃を受けたかのようにカラダを痙攣させている。
「まさか……毒かッ?!。キルシュ、しっかりするんだッ!」
アシュレは上水道での一件を思い浮かべた。
あのときは確認を怠って大変なことになった。
いや、媚薬の類いならまだ笑い話にできるかもしれないが、致命的な毒素だったら後悔してもしきれない。
だが、アシュレの予想に反して、それは毒による反応ではなかった。
キルシュの命には別状はない。
ただ、ある意味で、それ以上に厄介な状態ではあった。
「騎士さま……ダメ。見ちゃイヤ……触っちゃダメ、です」
アシュレが夜目が利いて、暗闇のなかでも周囲を鮮明に捉えることができるのを、キルシュはまだ知らないはずだ。
だからこそ、いまの言葉で余計にわかった。
いまキルシュが身を強ばらせ、震える理由。
それは羞恥だ。
苦痛もあるかもしれないが、それよりも激しい恥辱に彼女は苛まれている。
だが──なんだ?
なにが彼女をそこまで恥じ入らせる?
アシュレにはまだ、さっぱり理由がわからない。
「おちついて、キルシュ。いまのは、なにかに襲われたわけじゃないんだね?」
じゃあ、いったいなに、がどうしたっていうんだ。
アシュレは彼女を抱き上げてやりながら、優しく聞いた。
キルシュは抗うような、それでいて助けを求めるような仕草をする。
キルシュのカラダからはサクランボとクリーム、そこに松ヤニやそれに準ずる強い匂いの樹脂を混ぜたような匂いがする。
サクランボやクリームのほうはキルシュの《スピンドル》の薫り。
樹脂めいたものは、いま気がついたが汚泥の騎士たちの粘液が、水と反応して出る匂いだ。
その証拠に、その匂いだけはアシュレの肉体からも立ち昇ってきた。
まさか。
アシュレはつぶやいた。
「もしかして……奴らにさらわれている間に、なにかあったのかい?」
問いかけに、びくり、とキルシュが身を震わせた。
アシュレはそっと、腕に力を込めた。
一瞬だが、キルシュが腕のなかから逃れるような動きを強く示したからだ。
「安心して。ボクは……誰にも言わない。でも君を助けたい」
真剣なアシュレの言葉に、キルシュは顔を反らした。
うつむいて、両手で顔を隠す。
「たのむ。早急な処置が必要かも知れない。手遅れにしたくない。どうか教えて欲しい。キミを助けたい」
精いっぱいの誠実さを振り絞って、アシュレは言った。
いまからアシュレがするのは、自らの恥を少女の口から語らせることだ。
そこで役に立つのは誠実さしかない。
なにがあろうと彼女の味方でいる自分を、キルシュに信じてもらうしかないのだ。
どれほど時間が過ぎただろう。
もうほとんど聞き取れない声で、それでもキルシュは教えてくれた。
指標をつけられた、と。
「指標……」
単語をそのまま繰り返して、アシュレは呆然となった。
貴族の子女も顔を見せるいわゆる社交の場としての巻き狩り会などでは、騎士たちは自分が仕留めた獲物の皮に、その場で焼き印を施すことがある。
従者や騎士をサポートした狩人が、家紋を焼きごてする。
札付け、指標付けとも呼ばれ、リボンやスカーフを結びつけたりピンで刺したりもする。
それは会の終わりに、もっとも優れた獲物を仕留めた者を証明する手段として伝統的に行われてきた、一種のならわしだった。
「まさか、キルシュ……どこかに火傷をしてるのか?!」
アシュレは少女を引き剥がし、全身を改めた。
その肉体には懸念したような傷はどこにもない。
すくなくとも見える場所には。
安堵とともに両手から力が抜けた。
だが、問題はもっとずっと深刻だったのだ。
それを証明するように、キルシュがぶつかるようにして抱きついてきた。
「焼き印とかじゃ……ない。ないんです」
アシュレは、にわかに混乱した。
焼き印でない……指標とは……なんだ?
「たぶん……《フォーカス》だと思います。そうでないなら一等級下がる、疑似的ななにか……それが……」
そこまでが少女に口にできるすべてだった。
つまるところ、狩られた獲物の指標として自分の肉体には《フォーカス》が打ち込まれている、とキルシュは言ったのだ。
では、どこに?
そこまで考えて、アシュレはまた呆然となった。
外見からは伺うことができないなら……それは決まっている。
戸惑いを振り払うように、アシュレは首を振った。
大人の自分が取り乱してどうする。
「キルシュ。それはもしかしてキミの内側にあるのか」
意を決して聞いた。
数秒の間。
こくり、と首肯で返事があった。
「さっきキミは水浴びのとき、ボクに知られないように取り外そうとした?」
またためらいを含んだ沈黙。
かわりに、跳ねるように震えた肩がすべてを語っていた。
アシュレは大きく息を吸って、吐いた。
「キルシュ、お願いだ。ボクにキミを助けさせてくれ。たのむ」
ぎくり、と腕のなかで少女が身を強ばらせるのをアシュレは感じた。
いまアシュレにできるのは懇願することだけだ。
そして、もし彼女が拒絶したなら──そのときの覚悟を決めることだけだ。
返ってきたのはすすり泣きだった。
言葉にならない嗚咽。
「わかった。見ない。ボクは目をつぶっている。だから、キミの手でボクの指を導いてくれ。キミを辱める原因を取り除きたい。忌むべき欲望からキミを自由にしたいんだ。手遅れにしたくない」
頼む。
アシュレの懇願に対する返事には、それでも時間が必要だった。
返答は、震える指によって行われた。
可哀想なくらい震える指先が、アシュレのそれを掴む。
まさか竜皮の籠手:ガラング・ダーラで触れるわけにはいかないから、アシュレも素手だ。
指先と同じく震えるキルシュの肉体を支える。
その導く先に、たしかにそれはあった。
忌むべき拷問具。
およそその名を口に出来ぬ箇所に、ふたつ。
埋められていた。
それがアシュレの指に反応して、ぞるり、と蠢いた。
海辺の悪虫がヒトの気配を察知して身を隠すような動き。
小さな悲鳴とともにキルシュの膝が崩れる。
抱き留めるしかなかった。
キルシュを蝕む魔具。
それは考えられる最悪の展開ではなかったにしても、ヒトの尊厳を損なうには充分過ぎる所業。
すべてを理解したアシュレは、忌まわしき器物を己の《スピンドル》によって制御し、これを取り除いた。




