■第五十一夜:貶められし者
さて、静かにキルシュが水浴びをはじめたころ、アシュレは後ろ髪を引かれるような感覚を覚えた。
罪悪感などではない。
それはアテルイからの念話の合図。
内心、これを待っていた。
実は汚泥の騎士たちとの戦闘中のどこかで、アテルイとの連携が切れたのだ。
おそらくは高出力な《スピンドル》が体内の導線を流れた際に流入して、念話の糸を焼き切ってしまったのだろう。
だからいま、アテルイはふたたびアシュレとの縁を手繰って、切れてしまった糸を結び直しに来てくれたのだ。
念話は一度糸を結んでもらえば、こちら側も好きなときにコンタクトすることができるが、焼き切れた糸を結び直すことだけは、霊媒ではないアシュレには無理な話だ。
安全保障のため、意識の片隅にキルシュの気配を感じ取りながら、目を閉じる。
こうしないと未熟なアシュレはアテルイから送られてくる言葉だけならともかく、ビジョンを上手に受け取ることができない。
「アテルイ、うまく繋がったかい?」
『アシュレ、遅くなってすまない。戦闘中の《スピンドル》導線から逆流したエネルギーが想像以上で、リンクが焼き切れた。それを結び直すのと人員を呼び戻すので手間取った。突入するなら装備も調えなければならなかったからな』
「かまわないさ。そちらもこちらも手いっぱいだったんだ。むしろこんなに手早く、よくやってくれた」
『作戦会議の結果、殿下とレーヴの航空部隊を先行させることになった。竜槍はベルトで吊り下げて、なんとか送り届けられるようにしたぞ』
アテルイの口調からは、焦りと疲労がうかがえた。
いまや航空部隊の一翼を担うアスカとの念話を通じて真騎士の乙女たちと連絡を取り、それを利用して空中庭園の広域に展開していた戦隊メンバーを呼び戻し、この短時間で再編して突入計画を立てたのだ。
アシュレたちが汚泥の騎士たちと戦いを展開していたのは、半刻にも満たない時間だから一時間あまり。
正直に言って神速の手腕である。
普通、この手の手配は半日はかかるものだ。
「アテルイ、それについてなんだけど。突入は……急がなくていい。というか状況が変わった。じつはいまボクたち、どこにいるのかさっぱりわからないんだ」
『な、に?! どういうことだ、どうなった?!』
急き込んで言うアテルイに、アシュレはここまでの出来事のあらまし、要点を報告した。
具体的には不浄王:キュアザベインのこと、そして、そのあと落とされた地下帝国下層の空間について。
『不浄王:キュアザベイン──下水道に住まう汚泥の騎士たちの王。なんてこと……なんてとんでもない存在と刃を交えることに……』
あまりの急展開にアテルイも言葉を失ったようだった。
無理もない。
お手洗いの点検から、こんなことになるなんて、いったい誰に予想ができただろう。
饗宴の穴での出来事まで報告したら、気絶してしまうかもしれない。
『それでアシュレ、真騎士の妹たちふたりは無事なのか?』
「すくなくともキルシュの無事は確保した。囚われたままのエステルは──命に賭けて奪還する」
アシュレは囁くように、しかし力強く断言する。
実際、できる限り速やかに奪還しなければ、大変なことになるとわかっていた。
だからといってキルシュの前で取り乱してはならなかった。
それでは、友人の危地を知る彼女の心をいたずらに乱して傷つけるだけだからだ。
ここで自分が焦ってはいけない。
最善手を最速で打つしかないのだ。
『では、こちらにできることは?』
「今後パレス内には、戦闘要員以外を入れないようにしてくれ。キミと真騎士の妹たちは、特にダメだ。できたらレーヴもアスカも戦闘準備なしでは入らないほうがいい。たとえ準備ができていても地下世界に足を踏み入れるのは持ってのほか。無闇に奴らの王国に足を踏み入れたら思うつぼだ。不浄王:キュアザベインは間違いなく強力な能力者だ。《スピンドル能力者》かオーバーロードか。その取り巻きの騎士たちもただ者ではない」
『つまり、装備と志気を保ちつつ、そちらの連絡を待て、ということか?』
「待ってる間にできることがあるはずだ。ノーマンとバートンに、天使の間の前にある戦利品というか物資を回収して欲しいと頼んでくれ。きっと山積みのままだからすぐにわかるだろう。アスカとレーヴには合図があったら緊急突入してもらうよう、休息しながら待機してもらっておくとして……あとは……そうだな……」
暗闇のなかでアシュレはアゴに手をやった。
「不浄王:キュアザベインという名について、キミはどこかで聞いたことないかい? なんだか記憶にある気がして……思い出せそうで思い出せないんだ……こういうとき夜魔の完全記憶が羨ましくなる」
『まってくれ。いまスペクタクルズで調べてみよう』
「ッ! そうかその手があった」
スペクタクルズとは眼鏡のカタチをした《フォーカス》だ。
この世ならざる知識の宮殿──“庭園”にあるという図書館、その索引からこれまでに記録されたあらゆる情報に触れることが出来る古代の叡知の結晶。
有名なものだとアシュレの師匠に当たる“教授”:ラーンベルト・スカナベツキが所持するオータム・リーヴスが有名だが、かつてイリスが所持していたメガネウラなどすこしずつデザインを変えた同機能の品が、ゾディアック大陸にはいくつか現存する。
待っていたのは数分だった。
言葉とともにアテルイが見ているスペクタクルズのビジョンが共有される。
これは便利を通り越して驚異だ。
『従わざる者、まつろわぬ民の王──キュアザベイン。苦痛の棘の冠を与えられ、不浄の國を版図とするよう定められん……』
「それだッ!」
アテルイが突き止めてくれたのは不浄王:キュアザベインの伝説にまつわる最初の一説と小さな図説だった。
だが、アシュレにはそれで充分だった。
「不屈王:キュアザベイン。統一王朝:アガンティリスの統治に最後まで従わなかった蛮族の王だ。その時代に君臨した偉大なる統一王:アルスマグナス・ウルリク・カナーンに最後まで抵抗した蛮族王のひとり。版図を失ったあとも王朝の地下世界に隠れ潜み、配下たちを率いて戦い続けた……それも何百年も。お伽噺だとばかり思っていた。特に後半の何百年も続いた彼の地下帝国のくだりは……」
『いまオマエと、ほとんど同じ文献の同個所を読んでいる。なんというか……。繰り返しになるが、とんでもないものを引き当ててしまったな』
そしてわたしは、おまえの記憶力にもびっくりしているぞアシュレ、とアテルイは溜め息をついた。
「好きだったからね、古代史の勉強」
『それにしたってオドロキというやつだ。ウチの殿下も相当な本の虫だが、おまえのそれも大概だな』
「それほどでもないよ。むかしよく尼僧だったアルマと研究してたからね……こういうの。無事に帰還できたら、アスカも交えてゆっくりオズマドラの書庫の話もしたいけど」
それはともかく、だ。
アシュレは話題を切り替えた。
「じゃあもし仮にあの魔人が不浄王:キュアザベインの成れの果てだとしたら……この空中庭園はホントにアガンティリスの街とそれが属した地域を、丸々ひとつ天空に切り取って上げたものなのか……この地下空間までも」
『苦痛の棘の冠を与えられ不浄の國を版図とされた──なるほど、そういうことか。不浄の國とは地上ではなく、地下下水道のこと。ではその役割は……』
詳細に文献を当たっていたアテルイが大事なことを言った。
同じ部分を共有しながら、アシュレは頷いた。
「だとしたら、これまでにボクたちが辿り着いたこの世界の秘密と同じ経緯で、彼らは下水道を清める者としての役割を押し付けられてきたんだな。《ねがい》によってそうされて……何百年も何千年も汚濁に塗れて生きてきた……。具体的には下水やゴミの処理係として……」
こちらは文献にはない。
ただアシュレが知り得たこの世界の秘密と、不浄王:キュアザベインの伝説、そして実物が発した言葉を総合するとそうなる。
そうとしか言えなくなる。
確信に満ちたアシュレの言葉に、アテルイはしばし黙り込んだ。
『だとしたら奴らの言う正当な報酬というのは……』
「おそらくアガンティリス時代には用済みになった奴隷や、ときには妾や妃や小姓……戦利品として連れ帰っただれかを、生贄か撤饌のように地下世界に下げ渡す制度があったんじゃないかな。だから、そういう意味で屈辱的だが正当な対価、と不浄王は言ったんだ」
では、とアテルイが言葉を継いだ。
『それを竜王:スマウガルドは引き継いだ』
「あるいはアガンティリス人たちが放棄した王の責任と役割をなすりつけられた者が、スマウガルドだとしたら?」
ハッと息を呑むアテルイの仕草がアシュレには感じられた。
『これまでの常識が覆る……そして耳目を覆いたくなるような話だ』
「これがボクたちの生きる、この世界の真実だ」
だけど、とアシュレは言った。
「だからといって、ボクたち戦隊が奴らの取り決めたカビの生えたような約定に従う必要なんてさらさらない」
うん、とアテルイは頷いた。
「さて、脱出経路を探ろうか。心強いことに、こちらには空を飛べる真騎士の乙女もいてくれる。道さえあるなら突破して脱出を果たして見せるさ」
アシュレはキルシュに聞こえるように、わざと声を大きくした。
こういう場面で大事なのは互いの信頼感だ。
『それについてだが、いま土蜘蛛の姉妹から提案があった。彼女たちふたりだけ先行で潜入したいと言っている。交戦を前提としない隠密作戦で、蟲どもを展開して突入に先んじて地図作成を行いたい、と』
「なるほど……。こういう場面では俄然頼りになるな、エレとエルマは。でも充分に気をつけてくれ。いくら手練だと言ってもふたりだって女性、それも見目麗しい姫君たちなんだ。汚泥の騎士たちにとっては、まごうことなき獲物であるには違いない。血眼になって群がってくるはずだ。もし見つかったら大変なことになる」
『では、そのように。ほかになにか伝言はないか?』
そっけなく話を切り上げようとするアテルイの態度に、アシュレはなにか感じるところがあった。
あるいは他の女性陣を心配するアシュレの態度に、思うところがあるのか。
だから付け加えた。
「ありがとう、アテルイ。キミの支援があればこそ、ボクらはいまこうして平静でいられる。いつも頼りにしてるよ……はやく帰ってキミの手料理が食べたい」
そのひとことに、アテルイが息を飲むのがわかった。
よし、とアシュレは思う。
夫としては及第点だろう。
『わ、わかった。では行動を開始してくれ。こちらも動きがあり次第、連絡を取る』
「助かる。ホント、アテルイを頼りにしてるからね」
『ほ、ほめてもなにも出ないからな!』
これは帰ったら山盛りのご馳走責めだな、とアシュレは苦笑して念話を切り上げた。
水辺から悲鳴が上がったのは、そのときだった。




