■第四十八夜:君よ、我が同志となれ
「不浄の──王」
脳裏に飛来した言葉をそのまま、アシュレは呟いていた。
これまでの道程に描かれていた壁画のなかのに、彼の姿があったことを思い出す。
アシュレの囁きに、異形異貌の偉丈夫は人類とは構造の違う口腔を歪めて見せた。
「我らを不浄と罵るか」
「でなければなんだ。ふたりを放せッ!」
「我らは正統なる対価を求めただけ。不当は貴様のほうだ、地上人よ」
「正統なる……対価?」
キルシュとエステルが吊り下げられた祭壇の脇に立ち、腕を組み胸をそびやかす壇上の魔人にアシュレは困惑した。
「なにを言っている?」
「我らは対価と引き換えに、この空中庭園:イスラ・ヒューペリアの地下世界を清浄に保ってきた。気が遠くなるほどの歳月、屈辱に塗れながら、な」
「対価と引き換え? 長き歳月? 清浄を保つ? イスラ・ヒューペリア……? どういうことだ?」
「貴様は、あのいまいましい竜王の血に連なる者か?」
ぐぼ、と音を立てて魔人のひとつ目がアシュレを睨め付けた。
琥珀を磨いて作ったような瞳は、虹彩の部分が金色で魔眼のごとき《ちから》を持つ。
魔人がなにを言っているのかにわかには理解できなかったが、竜王の名には憶えがあった。
「竜王──竜王って、まさかスマウガルドのことか?!」
「ほかに誰がいる。愚か者め」
アシュレの問いかけを魔人は一蹴した。
これ以上問答を続けるには名乗るしかない。
魔の十一氏族のなかにはその名前を足がかりに呪詛を編んでくる連中がいることは、先に土蜘蛛の姫巫女たちから充分注意を受けてきたアシュレだ。
だが、ここは名乗るしかない。
名乗りの順序・作法にこだわりを見せる以上、いま眼前にいるこの異形異貌の騎士たちの行動原理には「騎士道」が関係しているのだ。
そこに賭けるしかなかった。
「我はアシュレ、アシュレダウ・バラージェ。かつての聖騎士。いまは故あって流浪の身。そして──上水を司る蛇の姫に、貴方たちが敵視する竜王:スマウガルドを倒すことを誓った者だッ!」
果たしてアシュレの名乗りは、想像以上の効果を上げた。
ザワリッ、と周囲を取り囲む騎士たちの口から、次々にうめきとも唸りともつかぬ声が漏れた。
「スマウガルドを倒す、と言ったか、地上人よ」
問いかけたのは、壇上に立つあの魔人であった。
「いかにも」
「上水を司る蛇の姫に誓った……まことか」
立て続けに黒き魔人は訊いた。
訊かれたからと言って、素直に答えればいいというものではない。
今度はアシュレが突っぱねる番だった。
「わたしは名乗った。ヒトにものを問おうというのであれば、今度はそちらが名乗る番だ」
この切り返しに周囲の騎士たちは色めき立ち明らかに殺気立ったが、壇上の魔人は別の反応を見せた。
「ハッハッハッ、これはこれは、一本取られたな。たしかに、それが道理か──名乗ろう」
この相手は手強い、とアシュレは踏んだ。
安い挑発に引っかかったりしない。
さらに敵の言葉を認め、呑み込む度量。
それをヒトは王気、あるいは王器と呼ぶ。
彼、彼らを汚泥、原始の海で生まれた下等な生物と侮ったら痛い目を見る。
アシュレは認識を新たにした。
魔人は名乗る。
「我が名はキュアザベイン。キュアザベイン・ルシルーク」
「キュアザベイン……ルシルーク?」
その名乗りに、アシュレは違和感を覚えた。
どこかで見聞きしたことのある名のように思えたのだ。
だが、現実は記憶を辿ることを許してくれるほど悠長ではない。
「これで対等ということだな、地上人の騎士よ。では、改めて問おう。上水の蛇の姫と結んだと貴様は言った。あの忌々しい竜王:スマウガルドを討つと誓った、と」
腕組みをしたまま上体を逸らして、魔人……いや不浄王:キュアザベインは詰問した。
「なるほど大言だ。しかし、貴様は本当は小人で嘘を吐いているかもしれん。その誓いが本当だとどうやって証明する?」
「彼女の名ではどうだ」
ほう? と不浄王:キュアザベインのひとつ目が細まった。
きゅう、と爬虫類のそれのように縦に。
「言ってみろ。それで貴様が彼の姫に直接謁見したのかどうか、すこしは知れよう」
「マイヤティティス・ジャルジャジュール。愛称は言えない」
数秒、不浄王:キュアザベインは動かなかった。
それからゆっくりと頷いた。
「その名を知ってここにいる、ということはすくなくともかの姫に謁見したか、我らと同じく言の葉の呪いを受け取った者ということになる……」
ふむん、と不浄王はアゴに手をやった。
「貴様、もしや上水施設を作動させた者か?」
「いかにも。それはボクの仕事だ」
間髪入れずアシュレは答えた。
巨大な空間に音を立てて流れ落ち、足下に流れる水の流れのいくばくかはアシュレが開放した上水施設からのものに相違あるまい。
「にわかには信じがたい」
「事実だ。信じようが信じまいが……ここに流れ込む水の量が増えているのじゃないか? それも清浄な」
「…………」
不浄王はまた沈黙した。
その表情からはなにを考えているものか、アシュレにはまったく伺えないが思案しているらしい。
「いかにして彼の姫の心を溶かした?」
「武勇と知恵、そして我が心血にて」
ここで言う心血とは、文字通りアシュレ自身の心と血液のことだが、そこまで説明する義理はない。
それよりも、とアシュレは聞き返した。
上水施設の最深部に囚われているマーヤのことを、なぜ地下下水道の底に住まう連中が知っているのか。
それが聞きたかった。
「知れたこと」
こともなげに不浄王:キュアザベインは言った。
「姫の嘆きの言の葉、恨みの言の葉は上水に混じり、呪いとして舞い落ちたる木の葉に結実し、我らが帝国にも流れ込んできた。それを喰らった同胞は込められた姫の呪詛に心を焼かれ、竜王への怨恨を新たにした。同じ心の持ち主。顔も見知らぬ姫ではあるが──いわば同志ということだ」
マーヤについて語る不浄王:キュアザベインの口調には、ほのかに熱があった。
汚泥の騎士たちの眼差しにも、微かだが変化を感じるアシュレだ。
もしかすると、この騎士たちにとって、蛇の姫:マーヤは崇拝の対象であったのか。
人間の騎士たちが自らが守り抜くべき姫君や聖女たちを、そう見做すのと同じように。
だとしても、だ。
アシュレは異論を口にした。
「彼女の心は──憤怒も憎悪も彼女のもの。それはオマエたちの勝手な投影に過ぎない」
思わず口走ってしまったのは、アシュレの内にマーヤへの想いがあったからだろう。
「なるほど、実際に彼の姫に謁見し、復讐の誓いを立てた者は言うことが違う」
わずかに口惜しげにだが、不浄王:キュアザベインは異論を認めた。
アシュレは内心、ホッと胸を撫で下ろしていた。
我ながら、いまのは売り言葉のなかでもなかなかに上等なケンカの売りつけ方だ。
狭量な相手であれば、一触即発の事態に発展してもおかしくなかった。
だが、そんなアシュレの心中とは裏腹に、状況はさらなる激変を見せる。
不浄の王の思考は、アシュレの想像をはるかに超えていたのである。
「で、あればこれは遠回しな話になるが、貴様は我らが同志と言えなくもないわけだな」
「なッ?! なぜそうなる?!」
「我々は竜王:スマウガルドに復讐したい。貴様はこれを倒し誅する誓いを立てた。我らの利害は一致している」
「同志というのは利害が一致している関係のことではない! 志を同じくするとは、そういうことではない!」
一足飛びに関係性を詰めてこようとするキュアザベインのやり口に、アシュレは言い表しようのない嫌悪感を覚えた。
マーヤとだけ結んだ親密な関係性の間に、土足で上がり込まれたような気分になったのだ。
すげないアシュレの返答に、すう、と魔人の瞳が細められた。
「ほう……ではどうあっても我々の同志であるとは認めないというのだな? では、我々との協調路線を拒む、とそう言うのだな?」
「協調するというのなら、キルシュとエステルのふたりを返せッ! すべてはそこからだッ!」
アシュレの一喝に、漆黒の魔人は三度沈黙した。
しばしの間。
奇怪な蛆虫が不浄王:キュアザベインの漆黒の肉体の体表面に顔を覗かせ、また潜り込んでいくが本人は身じろぎひとつしない。
人間なら表情からすこしは感情が読み取れるのだが、汚泥の騎士たちのそこからはなにも感じ取れない。
「まず、ふたりの姫を返せ、か。それは……受諾できない申し出だな、地上人の騎士よ」
どれほどの時間が過ぎただろう。
恐らくそう長い時間ではなかったはずだが、アシュレには無限のように感じられた沈黙のあと、キュアザベインは答えた。
「な、に?」
「最初に言った、そのままだ、地上人の騎士よ。貴様の要求には応じられない。この姫君たちは我々がこの地下下水道世界にて果たしてきた屈辱的な苦役に対する正当なる報酬。屈辱的で不平等であっても固く結ばれた契約に基づくもの──しかも、そのごく一部でしかないのだからな」
それに、と不浄王:キュアザベインはアゴをしゃくった。
応じるように騎士たちが包囲を狭める。
「それに……同志ではないのなら、貴様の言葉に従う理由などまるでないというわけだ。我が同胞の命を数十にも渡って奪った男を、同志として扱おうという我が慈悲と敬愛の心を無下にしたのだ。ならば、当然の報いを受けるがいい」
さらばだ。
そう不浄王:キュアザベインが言うのと、広間が閃光で包まれるのと、アシュレの足下の床が失われるのはほとんど同時だった。
そして、なにか柔らかくてあたたかい羽ばたきが、腕のなかに飛び込んできた。




