■第四十六夜:汚泥(ウーズ)の騎士たち
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「なんだ……ここは」
空中庭園に来てからというもの口癖になってしまった感のある言葉が漏れるのを、しかしアシュレは止めることができなかった。
粘液にぬめる部分を踏まないよう注意しながら暗い階段を飛び降りるようにして駆け下ると、そこに広がっていたのはまたもや巨大な空間であった。
「なんだここ……聖堂? これがこの空中庭園の下水道なのかッ?!」
聖堂とアシュレが見まごうのも無理はない。
そこはどうすくなく見積もっても数万トロン、いやもしかしたら桁があとふたつは違うくらいには膨大な量の水を蓄えておけるほどに広大な空間を持つ地下の河=暗渠であった。
そして、その壁面は拗くれた廃材や金属を組み合わせてつくられた奇怪だが、それゆえに凄みある装飾で飾り立てられていたのだ。
「古代の下水道施設って……こんなのだったっけ」
聖騎士という職務の関係上、幾度か足を踏み入れたことがあるエクストラムの地下下水道との差異に、アシュレは圧倒され呆然と断ち尽くした。
だが、呆気に取られていたのは一瞬だった。
為すべきことを忘れたわけではない。
暗闇に目を凝らせば、イズマが残してくれたであろうアラクネの糸が、燐光を放っているのが見えた。
燐光はごく微かなもので、注意していなければ見ることは難しい。
その理屈はまったくわからないが、こういった場合に非常な助けになってくれる土蜘蛛の道具の数々とイズマの機転にアシュレは感謝を捧げた。
ブランヴェルに飛び乗り、残された糸を頼りに暗闇を走る。
心臓を共有する夜魔の姫:シオンからの影響で、アシュレの瞳は暗がりでもかなり正確に状況を把握することができる。
シオンはアシュレが夜魔の特徴を獲得していくたびにひどい罪悪感を感じてしまうらしいが、とんでもないとアシュレは思う。
ランタンを準備する時間のロスや光源を携帯する不利を考えると、これもまた自分に与えられたギフトなのだとしか感じられない。
自分を信じてついてきてくれたみんなを助けられるなら、自分がヒトでいられなくなることなど──ちいさなことだと、いまアシュレは本気で思っている。
「キルシュ、エステル──どうか無事でいてくれ」
祈りながらアシュレは聖盾を走らせた。
不可視の力場を動力に、ブランヴェルは疾風の速度で暗い地下下水道を駆ける。
その過程で奇妙なものをたくさん見た気がした。
天上や壁面に描かれた巨大な神話。
この地下空間の始まりや、そこに巣くう者どもがいかにしていまのような姿になったか。
そういう寓話めいた物語が巨大な絵巻となって、そこには焼きつけられていた。
彼らはいったい、だれにそうされたのか。
描かれている場面は、地上世界との争いへと移り変わる。
それらはやがて、いつの日にか地下と地上とを裏返しにする──そういう祈りへと辿り着く。
この地下世界に住まう者たちの悲願。
理想の結末。
物理的世界転覆。
狂気に彩られているからこそ純粋で、執拗で、吐き気を催すような美。
間違いない、とアシュレは確信する。
ここに住まう者どもは、かつてアガンティリス王朝によって、いや──世界の総意──《みんなのねがい》によってそうされた者たちなのだ。
アシュレの脳裏に、ヘリアティウムの地下書庫での体験が甦る。
いまやスノウと同一化した魔導書:ビブロ・ヴァレリに記されていた、この世界の不都合な真実。
魔の十一氏族がいかにして産み出されたのか。
人々の《ねがい》によって役割を練りつけられた者たちこそが、アシュレたち人類が長年仇敵だと信じてきた存在の正体──。
だが、だとしたら。
キルシュとエステルのふたりをさらった、この先に潜むであろう者どもとは、いったいどんな連中なのか。
どんな姿、どんな思考、どんな思想。
あるいはどんな理不尽な役割と狂気を、その身に帯びているのか。
胸中に沸き起こってくる暗雲のようなおぞましき想像を振り払うように、アシュレは聖盾:ブランヴェルの速度を上げた。
果たしてどれほど走ったか。
暗がりのなかに閃光が走ったのは、そのときだった。
続いて、ドンッという衝撃波が頬を、髪を嬲る。
空気が焼ける臭いが続いて、立ち昇った紅蓮の火柱が、暗黒だった世界を赤々と照らし出した。
アシュレはそのなかに佇む人影を認めた。
「イズマッ!」
叫びながらブランヴェルで駆けつける。
それに気がついたのか人影も、一瞬、アシュレを振り返った。
火の粉から目を守るように手をかざした相手の顔に、アシュレはすこしだけ笑顔を取り戻すことができた。
それこそは間違いなく土蜘蛛の王:イズマガルム・ヒドゥンヒであった。
「やっぱ一番最初に追いついてきたのは、アシュレくんだったか」
「ごめん、ボクが目を離したばっかりにキルシュとエステルが──完全な管理不行き届きだ」
「いやコイツはしょーがないって。奴さんがた、かなり厄介な連中だ。たとえキミがついてても、防ぐのは難しかったサ。トイレのなかにまで同行するでもしてなきゃネ」
見なよ、と挨拶もそこそこにイズマはアゴをしゃくった。
イズマが打ち立てた火柱は壁として通路の大部分を塞いでいたが、その隙間からキルシュたちを馬上に乗せた奇怪な連中の姿が垣間見えた。
「なん……だ、アレ」
想像を絶するとはまさにこのことだった。
猟犬がいた。
馬がいた。
そして、それに跨がる騎士がいた。
だが、そのすべてがヒトではありえなかった。
いや正確には人型生物でさえなかった。
「なんだ、あの肉体は。犬も馬も人も……煮こごりのような……カラダ。中心に見えるのは骨なのか? 金属──宝飾品や剣で出来た骨格? そして、巨大な眼球が頭部(?)にひとつだけ。肉体がゼリーになってしまう呪いにでも冒されているのかッ?!」
アシュレは宮廷料理で見たことのあるテリーヌを思い出した。
パテや茹で上げられ味付けされた野菜を型に入れ、表面を骨髄などでこしらえた煮こごりでコートしたテリーヌは、宮廷では初夏から夏の饗宴を彩る品だった。
涼を感じさせる一品で、これを氷室で保存していた氷を敷き詰め銀の盆を浮かべて出すことが、当時の権力者たちの間では最新の流行であった。
だが、それが動物や人間のカタチを取っているとなると話は別だ。
「いや、ありゃあきっと順序が逆さ。奴さんら、汚泥生物みたいな肉のほうが元々なんだろうぜ」
「汚泥生物?! まさか……渾沌の落とし子とかそういう?」
世界がまだ渾沌の海であったころ。
この世が聖イクスの恩寵を受ける以前。
生物たちは自分たちの姿を明確に意識し、保っていることさえできなかったという。
そこに個別の名を与え、確固たる姿でいられるようにしたのが聖イクス、すなわち至高至善の神であり、その御技である──というのがアシュレたちが信じてきたイクス教の教えだ。
だが、その恩恵に預かれなかった、いや、預かることを拒否した生き物たちがいたのだとイクスの聖典には記されている。
そのように祝福を拒絶した原始の不定形生物たちは、神の栄光と太陽の輝きを避けるように地下世界へと逃げ延び、隠れ棲むようになった。
これを「渾沌の落とし子」と呼ぶ。
一説には地下世界に眠るという財宝の伝説のいくつかは、彼ら不定形なる渾沌の落とし子たちが人類を陥れるために残した罠であり、欲に駆られて地下を目指す者たちを獲物とするのだという。
それがかつてアシュレが信じた、不定形型原始生物=たちに対する見識であった。
だが、世界の秘密に触れたアシュレの認識は、すでに大きく異なっていた。
「彼らもまた世界にそうされた者どもなのか」
「ああ、きっとね。そして、奴らは独自の方法で骨格を奪い返した──骨格がないなら作ればいい。そういう発想に辿り着いたんだ」
分析するふたりを炎のむこうから、汚泥の騎士たちはじっと見返していた。
たぶん、時間にしたらわずかに数秒のことだっただろう。
まるで騎士の狩りを終えた一行のように、連中はキルシュとエステルを分配し抱え直した。
「クソッ、奴さんがた二手に分かれる気だぞッ!」
「させるかッ」
アシュレはブランヴェルに拍車をかけた。
アクロバットめいて壁面を駆け炎の壁を擦り抜ける。
燃え盛る壁の足下では、イズマによって迎撃されたのだろう汚泥の猟犬たちが炙られて死に絶えていた。
「ひゃほーい! 便乗させてもらうよ、アシュレくん!」
その後ろをイズマが木切れをソリにして着いてきた。
いつのまにか結びつけた糸で、犬ゾリのようにアシュレの推進力を利用したのだ。
それを見た汚泥の騎士は一斉に駆け出した。
二隊に別れ、下水道の分岐炉に入っていく
ヒューッ、と口笛が聞こえた。
と同時に、それぞれの隊からさらに別動隊が切り離された。
汚泥の猟犬たち。
彼ら別動隊は驚くべき俊敏さで回頭、反転。
アシュレとイズマを目がけて駆けてくる。
炎の壁に照らし出されぬめぬめと光る煮こごりのような肉体を持つ猟犬の牙は──そのすべてが磨き抜かれた短剣で構築されている。
「気をつけるんだぜアシュレくん、奴らの戦闘能力は本物の猟犬かそれ以上だ。まともにやり合ったら、人間じゃ歯がたたねえぞ! それにどんな病魔と共生してんのか、わかったもんじゃない!」
「了解──でも負ける気はない! 病魔どもと手を結んでいるというのなら、なおのことキルシュとエステルを譲る気はない!」
「よっし良い返事だ。ボクちんはあっち、キミはこっち。お姫さまたちを取り戻そうぜッ!」
雲猿風脚を用いて立体機動に移行したイズマの声は、頭上から降ってくる。
アシュレはスモールソードを掲げて返事に代える。
「ここは奴らの王国だ。あっちこっちで待ち伏せの罠があるから──」
それがアシュレの耳に届いたイズマの最後のアドバイスだった。
道は分かれた。
ここからはひとりひとりの奮闘だけが、ちいさな姫君たちを護る《ちから》だ。
決して負けない、とアシュレは誓い襲いかかる猟犬たちの爪牙を潜り抜け、その奇怪な肉体を切り捌いていった。




