■第四十五夜:それは血の味の
「ははあ、やはりテリーヌにしたか。そうだそれでいい。素人が腸詰めなどしたら、歪になるのは目に見えている。火の通りにムラができて味以前の問題だ」
一刻もかかってしまっただろうか。
汗だくで厨房から姿を現したアシュレを、ゴウルドベルドは両手を開いて出迎えた。
だが、アシュレの運んできた料理を目のあたりにしたその瞳には、あからさまな失望の色があった。
「おまたせした。これがボクの料理だ──」
「ブータンノワール。血のソーセージだと、そういうのだろう。もういい、下げろ」
アシュレがテリーヌの蓋を開けるより早く、豚鬼の王は右手を尊大に振った。
食べる前から正体を見破ることができるような料理に食べる価値などないと言わんばかりの態度。
たしかに、アシュレの作り上げた料理はまさに血のソーセージ、ブータンノワールであった。
これは一般には、豚の血の一滴までも無駄にしないという始末と美味とが結びついた料理として知られていた。
農村でも、宮廷でも、西方世界では大いに好まれた料理である。
手慣れた作り手であれば腸詰めにして温燻にし保存を利かせるところだが、ゴウルドベルドの指摘通り、悔しいことにアシュレにはその技術がなかった。
むろんゴウルドベルドにとってはあまりに普通、工夫のない、食べ飽きた料理に過ぎない。
「オレは残念だ。貴様の美味への感性と創造性への勇気を買い被っていた。そんなもの……食べるまでもない」
心底落胆したという声音で言い、ゴウルドベルドは両脇に侍るふたりの美少女の肩を抱いた。
キルシュとエステルのふたりはとろんとした目つきで、アシュレを見つめていた。
はああ、とゴウルドベルドの指が触れると艶めかしい吐息がその小さな口々から漏れた。
自分たちが食材にされてしまうということを、まるで理解できていないかのごとき態度。
オーバーロードの生み出した美味に完全に魅了されているのだ。
このままではそれは遠からず我が身に降りかかる悲劇だというのに。
だが、アシュレは背筋を正すと怯懦を振り払うようにして言い放った。
「残念だ、ゴウルドベルド。まさかキミも、実物を食べずに評価してしまう……頭で料理を味わってわかったような気になる評論家だったなんて──」
見下すようにアシュレは首を反らし、腕組みして目を細めた。
もちろん、わざとだ。
効果はてきめんだった。
「なん……だと?!」
「聞こえなかったのからもう一度、言ってやる。頭でっかちの評論家か、と言ったんだ。失望したぞ、美食の王よ」
自信満々で言うアシュレの姿に、それまで退廃のなかに沈んでいた豚鬼の王の瞳に火が入った。
ゴオオオオオオオオッッッ!! という雄叫びは怒りの表明だ。
「なにを抜かすか、この小僧がッ! オレは、オレさまこそは真の美食家、美食の探究者、求道者:ゴウルドベルドなるぞッ!」
「ならば潔く我が挑戦を受けよ! まだ勝負はついていないッ!」
胴間声に負けじとアシュレは叫んだ。
その顔は青ざめていたが、勝利への気概はいささかも衰えてはいない。
若き人間の騎士の意気に打たれ、ゴウルドベルドは大きく息を吸いこんだ。
ビクビクビクッ、とその鼻が痙攣するように動く。
「おもしろい! ならばやってみるがいい! 我が舌を唸らせ、脳髄を焼くほどの美味を味わわせてみるがよいッ!」
だが覚悟せよ、と付け加えた。
「もし、それがつまらぬ出来栄えのものであったなら──貴様の目の前でこの小娘どもを辱め抜き、そののち臓腑を抜いて詰め物をして炙り焼き、貴様の喉に押し込んでくれるからそのつもりでいろよッ!」
興奮に任せて、ゴウルドベルドは両脇にいたキルシュとエステルを掴んだ。
その臭いを嗅ぐように鼻に押し当てる。
痙攣する鼻腔がまるで手のように少女たちの肉体をまさぐる。
おお、蕩けておる、蕩けておるわ──。
バフォフォフォフォフォ、とまたあの哄笑を上げゴウルドベルドは玉座にふんぞり返った。
「さあ、ではご自慢の一皿とやらを頂こうか」
「そのまえに仕上げがある」
言うが早いか、アシュレは大型の鉄鍋に、ブータンノワールの入ったテリーヌ型を入れた。
そこには……なぜか木くずが敷き詰められている。
アシュレはテリーヌ型の蓋を取る。
ゴウルドベルドの指摘通り、チョコレートケーキを思わせるほぼ黒に近い茶褐色のパテが、見事な照りをたたえて、そこには横たわっている。
「ふむ、その色味・艶──湯せんは完璧。して、趣向とは?」
「こうするッ!」
アシュレは鉄鍋の中身、つまり木くずのほうに火を放った。
着火を確認するや否や、鍋の蓋を閉じる。
「む?」
「こうして瞬間的な燻製にする」
「それは理解した。しかし、ほう。この香り……ブランデー樽の古材か」
「勝手にキミの厨房を漁らせてもらった」
「バフォフォフォフォフォ──騎士のくせにコソ泥のようなマネをする。だが、面白い。その覚悟は良し。美味は盗んででも獲得すべきもの。大事なことは善悪に囚われぬ創意工夫。すこしでも足掻け、小僧。それが、それこそがオレが見たいものだ」
アシュレは瞬間的な燻製をブータンノワールに施そうというのだ。
保存を目的とした長時間の燻製の場合、そのあと一日程度は寝かせなければ木酢特有の酸味やエグミが料理の味を阻害するのだが、逆説的に言えば燻製直後に食べることが目的であれば数分の香味づけで充分であり、また最適解とも言える。
アシュレの披露した技は、この時代の調理技法としたら充分に革新的な手法ではあるが……ゴウルドベルドはわずかな歓心を示しただけだった。
「薪窯を使っているのだからその仕上げに木片を加えていたなら、これらはいらぬパフォーマンスでしかないのではないか」
しかし、見せ物としては面白い。
観客は、もしかしたらすこしは沸くであろうかな。
正しく評価を下して、豚鬼の王は、わずかに背もたれから浮かせていた上半身をまた玉座に戻した。
相手を貶めるのではなく、敵であれ味方であり正しい評価を下す相手のほうがよほど手強いということを、アシュレはすでに身に染みて理解している。
そんな思いをおくびにも出さず、手を動かす。
数分の間を空けて鍋蓋を取ってみれば、なるほど良い感じにうっすらと燻製の膜と照りが料理に付加されたのが見て取れた。
アシュレはまだ熱いブータンノワールを丁寧に切り分ける。
心臓や喉の肉、そして血だけでなく脂をしっかりと練り込まれた具は、すんなりと型から外れた。
ナイフにまとわりつくねっとりとした感触は、火入れが完璧な証拠だ。
アシュレはそれを、温めておいた皿にふた切れ乗せた。
皿の上にはすでに副菜であるリンゴのバターソテが乗せられている。
カリッと表面を焼かれ、小麦色に輝く小さなトーストが三切れ。
上等のマスタードシードの酢漬けを添える。
マスの卵と見まごうばかりの大きさを持つマスタードの種は、ツヤツヤと黄金に輝いている。
これとブータンノワールを合わせると、えもいわれぬ美味であろうことは、ひと目で分かろうというものだ。
新鮮なクレソンを色味と香味、口直しの意味も含めて飾る。
リンゴのソテに黒胡椒を削りかければ完璧。
ただ、それは相手が普通の人間であった場合だ。
美食を極めた、しかもそのためにオーバーロードにまで成り果てた豚鬼の王に、こんな基本技が通じるかどうかは……まったく怪しいものだとアシュレも感じている。
だが、それでも基本に忠実にやる。
やるしかないのだ。
「それだけか?」
頭上からアシュレの手元を覗き込んでいたゴウルドベルドが、念を押した。
感情の感じられない声。
先ほどのアシュレの挑発が効いているのだろう。
食べずには判断しない、という態度の現れだった。
しかし、その鼻は絶えずひくひくと動き、本能的に料理の本質を探ろうとしている。
「これが仕上げだ」
アシュレは手かごから採り出したサマートリュフを、惜しみなく削りかけた。
大ぶりの上物、それも特に香りも味もよい白トリュフだ。
季節はいつのまにか六月、つまり夏のキノコの時期にさしかかろうとしていた。
西方世界では最も過ごしやすい季節の到来である。
もっともそれも、ヘリアティウムを巡る戦いのような巨大な戦乱に巻き込まれなければ、という話ではあるのだが。
「ほう、白のサマートリュフときたか──それもオレの厨房を漁ったのか? ふふん、おごったな小僧。しかし、そのどこに驚きがある? ただ豪勢なだけだ」
「それは食べてからだ、と言ったはずだ」
振り降ろされるメイスのごとき講評を実戦主義の盾でいなしながら、アシュレは玉座へと続く階段を登っていった。
皿をゴウルドベルドの眼前に突きつけるようにして差し出す。
「合わせる酒は」
「極辛口のシードル」
「バフォフォフォフォフォ。教科書通りか。その意味では忠実な優等生だ」
だが、と豚鬼の王は目を細めた。
「問題は味だと抜かしたな、小僧。オレの味覚はごまかせん」
「キミが美食という神の前で真に公正な存在であることを願うばかりだ」
「その意気やよし」
言うが早いかゴウルドベルドはアシュレの手から皿を奪い取り、テリーヌ状に切り分けられた血のソーセージをひと切れ指先で摘み上げた。
あっ、と驚く間もなく、それが口中に消える。
むしゃりむしゃり、とゴウルドベルドはブータンノワールを食べた。
指にまとわりついたそれを、ねぶる。
本当に味わっているのかという速度で咀嚼し、飲み込む。
「ふむ、これは……まさしく……ブータン……ノワール?」
豚鬼の王の顔色が変わったのは、このときだった。
「まて……貴様、人間の騎士よ……これはなんだ?!」
なにを入れた?! 驚愕に掠れた声でゴウルドベルドがうめいた。




