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■第二十夜:《魂》の秘蹟


 速力だけが頼りだった。


 アシュレ自身、こんな恐怖を味わったのは初めてだった。

 隊のだれも甲冑を身につけていなかったし、盾もない。

 それどころか、ノーマンもアシュレも上半身は素肌である。

 突撃前、男たちの刃傷、槍傷だらけの肉体にアスカが見蕩れて、ほぅと溜息をついた。

 ふたりの肌にアスカは戦士としては細すぎる指を這わせたものだ。


「誉れ傷ばかりではないか。なんと美しい肉体だろう。勇敢な騎士たちとともに戦えること、光栄だ。断じて世辞ではないぞ」


 ノーマンもアシュレも、そう言われて悪い気がするはずがない。

 異教・異国のとはいえ、アスカは美貌の姫だった。

 その絶賛を受ければこれは、騎士冥利に尽きるというものだろう。

 意識してかしらずか、アスカは騎士に命を賭けさせる術を心得ていた。


 だが、実際にポジションに着けば、絶望的な突撃に武者震いが止まらなかった。

 思えば騎士の乗騎である軍馬たちは、ずっとこの恐怖を味わっていたのだ。

 戦場では上に乗った騎士よりもまず、真っ先に騎馬が的になる。


 馬から下ろしてしまえば、重装の騎士を取り囲むのは容易だ。

 さすがにプレートメイルで転んだら立ち上がれないなどというのは、どこで付いた尾ひれか冗談の類いだろうが、落馬のダメージは生身に受けると死に至ることもあるほど強烈だ。

 衝撃に朦朧もうろうとする騎士たちの姿から、そのような話が広がったのだろうか、とアシュレなどは思う。

 この場にはいないが、愛馬:ヴィトライオンのありがたさをアシュレはしみじみと噛みしめた。

 生きて帰れたら、しっかりブラシをかけてやろう。

 そう心に誓う。


挿絵(By みてみん)


 そうして、三人は駆け出した。

 アスカが三人全員に、超常的な移動能力を授ける異能:《ムーブメント・オブ・スイフトネス》をかけた。

 さきほど、指を這わせたときのことだ。


「下手な司祭の祝福より、よほど効きそうだ」

「そなた、僧職だろう。バチがあたるぞ!」

 ノーマンの直截な物言いに、アスカが便乗して容赦なく笑った。

 からり、とした性格のアスカはノーマンとも馬が合うらしい。


「アスカ姫の《スピンドル》はスミレのようですな」

「……体臭を嗅がれたようで、気恥ずかしいな。今後、使う相手は選ばせてもらおう」

 ノーマンが思わず陶然とつぶやき、アスカは恥ずかしげに目を伏せる。

 あー、これは失敬、とノーマンが慌てた。

 アシュレは、こんなふうに慌てるノーマンを初めて見た。

 アスカがイクス教徒ならば、あるいはアシュレたちがアラムへ亡命すれば、良き友、いいチームとして共にあれるだろうかと考えてしまった。


 見てはならぬ夢だと首を振り、未練を払った。


 しかし、とアシュレは嘆息する。

 甲冑なし、盾なし、無手で怪物の軍団と相対する恐怖は並大抵のものではない。

 装甲するものがなにもないのだ。

 剥き出しの自分を刃にさらしている恐怖。


 ナイフファイトの教練を思い出す。

 だが、それとは比較にならない重圧にすくみそうになる自分を叱咤した。

 おまけにイズマから借り受けたブーツ(?)と《ムーブメント・オブ・スイフトネス》のおかげで、やたらと速度が乗る。

 風になったようだ。

 恐怖は速度の二乗に比例する。


 フラーマの落し仔たちがアラムの英霊たちを迎え撃つため、自らの組織を編み上げ直して肉の槍衾を作りつつあった。

 方陣を敷き、騎馬の攻撃をキノコの傘のような肉の盾で搦め捕り、一騎ずつ引きずり落として捕らえようとしているのだ。


 いったん陣を組んでしまった重装歩兵の群れは強靱きょうじんだ。

 英霊たちも手を出しあぐねていた。

 そこをフラーマの異能:《エレメンタリィ・コラプション》が襲う。

 徐々に不利な局面があらわになりつつあった。


 そこにアシュレたちが突っ込んだ。

「バカめ! 《スピンドル》能力者のいる戦場で密集方陣を組むなど、自殺行為よッ!」

 ごう! とノーマンが吠えた。獰猛な笑み。

 アシュレは、その両腕に《スピンドル》が伝達され、ふたたび励起した〈アーマーン〉が凶悪な顎門あぎとのカタチに変形するのを見た。


「《ブレイドリィ・タービュランス》!」


 アシュレは激しい耳鳴りを憶えた。

 前方を駆けるノーマンが行使した技が、敵前の気圧を急激に低下させている証拠だった。

 強力な破滅の力が吹き荒れる領域が生まれたのだ。

 空間に存在する全てを貪り喰らう破滅の穴。

 そこへ激しく風が吹き込む。

 効果時間と範囲を計算し尽くしたうえで投じられたその技は、アシュレたちを増速させつつ、敵陣を崩す技でもあった。

 

 直後、恐ろしい光景を見た。

 敵の一角が、ついに耐えきれなくなってそのなかに引きずり込まれ、次々と捻じ切られては弾け飛んだ。

 一瞬、肉片混じりの血煙が渦巻く柱となって天に伸びるが、それさえも破滅の力によって構成される竜巻が飲み込んでしまう。

 落し仔たちの血の色は白く、そこに断末魔の金切り声が重なるさまは、悪夢そのものだ。


「《シャイニング・ヴァラー》!」

 そこへ、己の怯懦を打ち払うかのように腹の底から声を出して、アスカが続いた。

 振り抜いたジャンビーヤの軌道そのままに白光が爆発し、敵は視界を奪われ、次の瞬間には超高熱のエネルギー流に焼き払われる。


 ノーマンの指摘の通り、密集方陣は効果範囲の広い異能に極端に弱い。

 新兵器=大砲の隆盛もある。

 もしかしたら主戦場からは、やがて姿を消してしまうかもしれない戦術だった。

 戦法も用兵も常に移り変わる。

 フラーマとその落し仔たちは陣形を誤ったのだ。これでは一〇〇年前の戦い方だ。

 彼女が、伝説に謳われた救済の聖女だったことをアシュレは事実だったと痛感していた。

 端的に言って、戦いに疎いのだ。


 アシュレたち、たった三人の戦いが、敵の肉で築かれた城壁に穴を穿うがち凄まじい速度で食い破っていくのを、イズマとイリスは羊にまたがり、バラのつたの上から見守っていた。

 脚長羊ムームーの足の裏は棘に影響されないという。

 半分、夢の側の生き物だからねえ、とはイズマの談だ。

 もう何百年もつきあっているけど、いまだによくわからないよ、とお手上げのポーズをした。

 当の羊:ムームーは、またなにか反芻しては、むしゃりむしゃりと食んでいる。


 そういえば、と戦況を見守っていたイリスが、突然慌てたようにイズマを振り返って訊いた。

 イズマといえば戦況を見守るふりをして、イリスの体温やら体臭やら柔らかさやらを堪能してはご満悦だった。 

 イリスが振り返ったところを聞き取るふりをして覗き込めば、絶景が待っている。

 サイコーっすね、とイズマはつぶやいた。ヨダレが垂れそうだ。

 呂律ろれつが怪しい。


「んあ、なんんでしょ?」

「? いえっ、そうではなくて、シオンはどうしたのかなって? シオンは、どこ? わたし、薄情すぎる。アシュレのことばかり気にして……どうしようっ」

 あー、それなら、とイズマは笑った。

「だーいじょうぶ。イズマに、お・ま・か・せっ。あのマントに込められてる能力を使ったから、絶対だいじょうぶ!」

「マント? あ、そう言えば、イズマって上着の下、スケイルメイルだったんですね? でもこの鱗って……アガンティリス期の古金貨じゃないですか! なにこれ! 宝飾品も……やだ、この玉、ルビーだ。三〇〇カラルはある。

 え、この肩口のは、本物のエメラルド? じゃあ、これもサファイア? 装甲じゃなくて宝飾品じゃないですかッ?」

「袋虫の王が『流通貨幣、希少な貴石の類いを傷つけることまかりならん』ってかけた呪いで括られてる金貨・財宝たちだよ。これはゾウが踏んでも壊れません! たぶんドラゴンブレス喰らっても、鎧だけは残るんじゃないかな?」

 アスカ姫の陣羽織タバードにも天上の王国が封ぜられて、英霊に護られてたでしょ? イズマが言う。

「王族の衣装てーのにゃ、大概たいがいから保険がかけてあるもんなんだよ」

 だから、それに包まれてる姫は無事です。

 心配しなくて良いんだよ、とイズマはイリスを撫でた。


「どういう……原理ですか?」

「原理はわかんないけど、効果は説明できる。《アストラル・コンシールメント》。アストラル秘匿ひとく、とでもなんのかねえ? 

 一時的に着用者の位相をずらしてあらゆる害悪、攻撃、探知から、その対象外にするってやつ。

 包まれてる間はそこから移動したり、外部への干渉をしたりとか出来なくなるんだけれども、緊急退避措置としたら、充分でしょう」


 ま、一回使ったら、また満月の光に何度もさらして、力をチャージしないとダメなんだけど。そんくらい強力な《フォーカス》なんだよ? 

 イズマは、にやり笑いをする。


「ボクちんが効果を解除するか、姫が自分で出てこないかぎり、敵もそうそう手は出せないよ」

 すごい、とイリスは目を輝かせた。

 でしょ、ボクちんかっこよいでしょ、とイズマは胸を張った。

「惚れてもいいんですよー」

「そうしようかな」

 さらっと予期せぬ答えが返ってきて、イズマの喉が変なふうに鳴った。

 イリスが噴き出す。


「ホントは奥手なんですよね? かわいい。知ってますよ?」

「あーんま男を挑発しないほうがイイと思うよー、イリス姫。そのけしからん胸の突出を、こう、こういうかんじにッ」

「どうぞ? イズマならいいかな? お礼しなくちゃだし。胸くらい」

 あうー、とイズマは空中で指をわきわきさせる。

 あはは、とイリスは笑った。

 それからあらたまって訊いた。


「あのとき、どうして嘘ついたんですか?」

「あのときぃ?」

「ごまかしてもダメです。わたしが《侵食》されたんじゃないかって話のとき」

 あー、とイズマはいま思い出したように声をあげた。

 ぽりぽりとその鳥の巣のような頭を掻く。


「むかし、《侵食イントルード》を受けたことがあってね……そのとき起こった事件や、周囲の人間関係が崩壊してくさまとかさ。だから、軽々しい断定はだめだよねって」

「やっぱり、優しいし。つらい経験をされたんですね。だから思いやってくれたんだ。でも――それだけですか?」

 イリスの指摘に、ふー、女のコって恐いねえ、とイズマは肩をすくめて言った。

「もちろんそれだけじゃないさ。呪いの話、したよね? 憶えてる?」

「解くことで、さらに致命的な状況になってしまう“呪い”のこと、ですか」

「そう、それ。なーんかさ、やな予感がしててね。まるで、ボクちんが“それを指摘するのを待たれてる”気がしてさ。

 ここで、対象を確定して指摘することが、やばいトリガーだったりしない? いまのこの状況、ほんとうに最終局面なのかな、って思ってね。

 なんだか、ヤバげな意図を感じるんだよねー」

 ここにはいない“誰か”の。そうイズマは言った。

 イリスは息を呑む。


「それにね、ボクちんの基本行動理念は『巻き込まれて巻き込み返す』なのよ。だから、毒杯かもしれないけれど飲んでみようって、わけ。それにこうしてれば、イリスはボクちんが管理できるし、姫はあちら側に秘匿していられるしさ。もちろん、あとでじっくり検査しちゃうぞー」

 ま、なんかあっても、そんときゃボクちんひとりで被害が済むかなって思ってさ。

 こともなげに笑うイズマに、イリスは尊敬の念を抱いてしまう。


「……イズマ、わたし、アシュレとのことがなかったら、絶対、あなたに恋をしてました」

 イリスが偽りのない表情でイズマを見上げた。

「うっひょー、マジで? 不倫は文化ですよ奥さん?」

「どうしても、さびしい夜が来たらお願いします。でも、それまではダメ」

 ふふっ、とふたりは顔を見合わせて笑った。


「危険な賭けをあなたにさせてしまっていたんですね、わたしたち」

「まあね。こっちも好きでやってることだから、いいんだけど。たださ、どうも気になることがあるんだよ。さっきの呪いの話がらみで」

「気になること?」

「この漂流寺院に辿り着いてからの皆の言動がさ、ちょっとヒロイックすぎやしないかってね」

「ヒロイック? どういう……意味です?」

「神話や伝説をなぞっているように見えてしょうがない、って言えばわかるかな? どこかにだれかが書いた脚本があるみたいだって言ったら、信じてくれる? 

 物語に取り込まれてるカンジ、あるいは物語が降りてしまっているカンジ――この場合は聖女:アイギスとフラーマ姉妹、騎士:ゼ・ノの物語ってとこかな? ノーマンには、もすこし詳しく話したんだけど……ああ、ダシュカマリエ大司教のこと、聞き忘れてた……いや、まさか、」


 え、とイリスはイズマをまじまじと見た。

 んー、とイズマがイリスに解説する。


「あー、かつてあった物語を演者を変えて上演することで、再現する……いや、再編集する。結末を書き換える誘導装置としての神話と、その再編集のエネルギーを練るための炉としての舞台――って寝言がイキすぎかな?」


 さあ――と血の気が引いていくのをイリスは感じた。

 イズマの発言は妄言・寝言の類いにしか思えなかっただろう。

 もし、その物語の登場人物として、自分が取り込まれてさえいなかったなら。

 ここが、漂流寺院、《ねがい》を押しつけ現実の存在を変質させるオーバーロードの所領:《閉鎖回廊》でさえなかったら――。


 恐ろしいことに思い当たって背筋が寒くなった。

 イクス教やアラム教に駆逐される以前、各地にあった異教ではその神話を神楽として上演することが教主や巫女たちの職務であり、祭りの本旨だったからだ。

 そうすることで、神憑きとなり、神託や奇蹟を地上に降ろしていたのだ。

 たとえば土蜘蛛の巫女たちは、その体現者だ。


 オーバーロードの所領:《閉鎖回廊》は、その舞台としてこれ以上ないほど条件が整った場所だと断言しても構わないだろう。

 なぜなら《そうする》力=《ねがい》に満ちているからだ。

 イリスの推理は、じつはイズマがノーマンに行った説明とぴたり、と吻合ふんごうしていた。


「降臨王:グランのときと同じように、〈デクストラス〉や〈パラグラム〉と同じようにヒトを書き換えてしまうような装置があるんじゃないか、とイズマは言うんですね?」

 この一連の事件にはそれが関わっているんじゃないかって、イズマは言うんですね? イリスが訊いた。


「ごめんね、イリス、キミが賢いコだから損な役回りを――しなくていい心配や、思い出したくもない記憶を掘り起こしてしまうようなことになっちゃって。でも、その通りさ。ボクちんが危惧してんのは、まさにそこさ」

「――じゃあ、これが用意された筋書き、再現された舞台だったとして……その結末は……は?」


 問いかけられた土蜘蛛の古代の王は、激しさを増した伝説の戦いを、じっと見守っていた。

 無言で。ひたすらに。


         ※


 アシュレたち三人がくさびとなり、戦場に血路を切り開いていく。

 アラムの英霊たちが、その好機を逃すはずがなかった。

 アシュレたち三人の働きは、伝説の英霊たちの刮目に値していたのだ。

 つづけッ、と腕が振り下ろされ、金色と純白のつむじ風が戦場を駆け抜けていった。


 騎士たちの雄叫びと、軍馬のいななき。

 蹄鉄の唸り、そして、槍を突き込まれた異形のものどもが上げる断末魔が場を支配していた。


 どこをどう駆けたのか、アシュレは思い出せない。

 ノーマンが両腕の〈アーマーン〉を振い、アスカの掲げるジャンビーヤに灯る輝きが、アシュレを導いた。


 怯懦きょうだはいつの間にか意識の片隅に追いやられ、奇妙な高揚が神経を支配していた。

 戦場で感じる高揚はいつものことだったが、今回のそれはいつにも増してアシュレをたかぶらせた。


 酷使された肺が軋るように痛んだが、脚は疾風のように走り、雄叫びが腹の底から轟き出る。

 まるで自分が伝説の英雄の一員に加わったかのような気分だった。


 爽快だ、とアシュレは思う。

 汗だくで、熱い返り血を浴び、汚れても、心は澄んでくるようだ。

 不思議だった。

 まるで自分たちは、幼い日にいつか聴いたあの英雄譚の登場人物にでもなったのではないか、とアシュレは思った。

 ノーマンの顔に笑顔があった。

 信ずる友と戦場をともにする喜びに満ちていた。

 アスカの顔にも笑顔があった。

 もし、アシュレの思い上がりでないのなら、愛するヒトとともに白刃の下を潜り抜ける歓喜がそこには見てとれた。


 そして、アシュレ自身も笑っていたのだと思う。


 行けッ、とだれとはなく言われた気がした。

 振り仰げば頭上に“槍”があった。

 見紛うはずがない。アシュレ自身の武器だった。

 竜槍:〈シヴニール〉! 


 応、とアシュレは吠えて増速した。

 落とし仔たちの肉体を壁面に見立て、ウォール・ライドの要領で〈シヴニール〉を目指した。


 同時にノーマンが《フラーマの坩堝》に取り付いた。

 取り込まれれば変成を強制され、おそらくはフラーマとの結合体に繋がれてしまう恐ろしい融合力を前に、臆さなかった。

 ごうごうと渦を巻くエネルギーの奔流をその両手が受け止めていた。ノーマンの両腕:〈アーマーン〉が司る破滅・消滅の力と、フラーマが発動し続ける強力な現象としての異能:《フラーマの坩堝るつぼ》の司る創造の力がぶつかり合い、激しい火花を散らす。

 ノーマンの肉体はその飛沫に触れるたび火膨れを起す。

 それでもカテル病院騎士団の筆頭は一歩も引かなかった。


 先陣を切ったノーマンの体を、独楽のように回転しながら避けて、アスカが間合いを詰める。

 その直前に、しんがりを守り、ノーマンの背に群がる軍勢を足止めする最後の技を放って、数十秒を稼ぐために。


 アスカの振うジャンビーヤから光刃が弧を描いて放たれる。

 つい先ほどまで自分たちが切り開いてきた血路に向かって。

 殺到するフラーマの軍勢を押し戻す。


 直後、アスカの口元から血が流れ出る。

 傷を負ったのではない。《フォーカス》の求める代償だ。

 強力な技には、代価が必要なのだ。

 血や傷、ときには四肢や重要な器官を取られることもある。

 最大の代価となれば個人や、複数の命、あるいは国土を消耗させるものさえあるという。


 本来人類には発現しえない能力で、現実を強制的に書き換えるには《意志》の力だけでは、不可能なのだ。


 そこからもわかるように《意志》の《ちから》=《スピンドル》は強力だが万能の力ではない。願ったり祈ったりするだけでは、どんなことも叶えられない。

 肉体を持って物理現実相手に成されるすべてのことと、原理的には同じなのだ。

 つまり《意志》には行動が伴わなければならない。


 いや、こうとも言える。

 困難に立ち向かう行動を選び取らせ、引き起こしうる心の動きだけを《意志》と呼べるのだと。

 重大な局面に相対し、その選択肢に迷うこと。

 そして、決断すること、なによりも、選択肢を作り出すこと。

 それらをひとまとめにして、ようやく、《意志》と定義できるのだと。


 いま、この一瞬、一瞬が、その貴重な《意志》と代価を支払って得られた時間だった。

 アスカは光刃を推進力に肉体を回転させ、柔軟な肉体を最大限に屈めて、風を切るツバメのように、持ち上がった《フラーマの坩堝》の下面へ潜り込んだ。

 そうして、下面すれすれをすり抜けながら、アスカは理解する。

 これは、この頭上で回転し続ける超エネルギー塊こそは、フラーマの子宮・胎内だと。

 常時発動し続ける異能:《フラーマの坩堝るつぼ》とは、つまり外部化された女性機能、その戯画化カリカチュアでもあったのだ。

 

 存在を再編するためのアトリエ――取り込まれれば、文字通り“我を失う”――禁忌の宮。

 

 その真下を潜り、さらに深奥を突こうとするアスカの行動は、イリスが体感したフラーマとの感応と〈スペクタクルズ〉からもたらされた情報を聞いていなければ、だれの目にも狂気の沙汰――特攻に映ったことだろう。

 それでも、とアスカは思う。

 たとえ、あの助言がなくとも、わたしは飛び込んだ。

 アシュレたちと出会えなくとも。

 たとえだれの助力を得られなくとも。

 飛び込んだはずだ。


 己の勇敢さ、勇猛さを見せつけたいからではない。


 アスカには理由があった。

 祖国:オズマドラには、このはさみ――〈アズライール〉が必要だった。

 国家のため、臣民のため、どうしても持ち帰る必要があった。

 いや、とアスカは思う。ごまかすのはやめよう。

 父には、どうしてもこれが必要なのだ。

 大帝:オズマヒム・イムラベートルには。

 助けるのだ。取り戻すのだ。父を。

 やつらから。やつらの思惑から。


 はたして、そこにははさみがあった。

 巨大な異形の。


 それは義足の姿をしていた。

 美しかった。

 いっそ優美であると、言ってもよいほどに。


 だが、その外観とは裏腹に残酷な部分を、神器である:〈アズライール〉は義足として使用者と結びつく箇所に秘めていた。

 形容することもはばかられる恐ろしい凶器の群れが――端的に言って、拷問具の群れが――垣間かいま見えた。

 

 いまだ、生身の脚を持つものが、それを使おうということが、どれほど不遜な望みか思い知らせるように、それはおぞましい形状を有していた。

 肉に食い込み、骨と同化するとはどういうことか――体現していた。

 アスカが、一瞬、ほんの一瞬にせよ、固めたはずの決意に躊躇を抱くほどに。


 形容しがたい轟音が頭上を掠めた。

 ノーマンが戦っている。

 いまこの瞬間も、己を焼く焦熱のエネルギー流と。

 一秒にも満たない逡巡の間、アスカの脳裏を掠めたのは、この義足のカタチをしたはさみ:〈アズライール〉の持ち主であったフラーマと騎士:ゼ・ノの物語だった。


 フラーマはどのような想いで、これをまとったのだろうか。

 イリスほど長い接触を受けたわけではないアスカだが、《スピンドル》伝導を中継とした感応の瞬間、たしかに廃神となる以前のフラーマのヴィジョンと、その心に触れた気がした。

 優しい、本当に優しい娘。

 そして、天使などという超越者的な存在では、彼女はなかった。

 あれは人間そのもの。アスカやアシュレと同じ、《スピンドル》能力者。

 強い《意志》の《ちから》である《スピンドル》は有していても、その肉体も心も、人間のもの。

 彼女:フラーマや、その姉:アイギス、そして騎士:ゼ・ノを、廃神に、あるいは天使に、あるいは英雄に改変したものは、ひとびとの《ねがい》、そしてその媒体としての伝説そのものなのだ。

 

 だとしたら。

 

 男ですら震え上がるような姿の《フォーカス》の内側、〈アズライール〉の本性を見て、フラーマがためらわなかったはずがない。

 好いた男に、損なわれていない自らに触れてもらいたいと、葛藤かっとうしなかったはずがない。

 アシュレに己の胸中をぶつけてしまったアスカには、それが痛いほどわかる。

 

 それなのに、フラーマは選んだのだ。

 この恐怖を、苦しみを。

 役割を。

 人々を救済するという。

 

 フラーマが携えていたとされる、もうひとつの神器:〈セラフィム・フィラメント〉は、未来予知を可能としたという。

 そうであるなら、〈アズライール〉をまとったとき、どのような苦痛が彼女を襲うか、それは、まざまざと知らせたことだろう。

 

 未来を知りえることは、叡知えいちであると同時に、業苦だ。

 

 知らねば、無知を頼みに蛮勇に振る舞うこともできる。

 けれども、ひとたびその結果を知りえたなら――未来の姿を垣間見たなら――大抵の人間は怖じ気づく。

 

 異能は、《フォーカス》の技は、必ず対価を要求する。

 そして、強大無比のそれである〈アズライール〉の対価・代償は、先払いなのだ。

 人生の可能性を対価として、それは求める。

 

 この装具:〈アズライール〉をまとうと決めたとき、フラーマはその人生の幾割かを、代償として支払ったのだ。

 ただの人間としてあったなら、得られたかもしれない可能性を、捧げた。

 

 そうして、ひとびとの望む天使となった。

 

 廃神すたれがみ:フラーマを巡る神話のクライマックス、騎士:ゼ・ノは、彼女から銀の仮面:未来予知の神器:〈セラフィム・フィラメント〉を奪う。それを持って、姉:アイギスは聖務の完了を認めた。

 

 その慈悲が、裏目に出た、それが、フラーマを迷わせた、とイリスは感想した。

 そうであるかもしれない、あるいは、とアスカは思う。

 しかし、そうではないかも、とも思うのだ。

 

 騎士:ゼ・ノは、フラーマを未来予知の業苦から、残酷過ぎる世界の惨状を直接、心中に流し込み続ける《フォーカス》の縛鎖から、フラーマを救いたかったのではないか。

 あるいは、もしかしたら、その仮面こそが、フラーマを廃神にしてしまった装置だと、考えたのではないか。

 

 それが間違いであったと、過ちであったと、すべての結果を見届けたあと、指弾するのはたやすい。

 けれども、現実において、判断と選択は常に先払いだ。

 後悔が先にできぬのと同じように。

 

 それでも、彼らは選んだ。

 選ばざるをえなかったか、己の《意志》でそうと決めたか――あるいはその両方か。

 

 どれほどの迷い、葛藤が、そこにはあっただろう。

 それなのに、そうであるに、なお、選んで、歩んで行った。

 

 だから、わたしもまた、選ばなければならない。アスカは思う。

 彼らに相対するものとして。

 彼らと正対するために。

 

 わたしの答えをぶつけなければならない。

 だから、選んだ。

 

 救わねばならぬヒトのために、わたしは死の《ちから》を振おう。

 その司となろう。

 アスカは〈アズライール〉に触れる。

 決意を持って。


 ぐんっ、と《スピンドル》が回る音がした。

 ジャラララララッ、という金属音が開演を告げるように鳴り響く。

 

 それは〈アズライール〉に通された《スピンドル》が、その機能を目覚めさせ、数百年ぶりに励起した聖遺物が装着者を認めて展開する音だった。


         ※


 がぎん、ぼぎん、と胸の悪くなる音が《フラーマの坩堝》と〈アーマーン〉の衝突が生じさせる強烈なスキール音を圧して、フラーマの腹部から聞こえてきた。

 獣の慟哭どうこくのようなアスカの叫びも。

 悲鳴とも雄叫びともつかぬ。

 その恐ろしいサウンドは装着音だとノーマンは理解していた。


 己自身、〈アーマーン〉装着者であるからわかるのだ。

 この〈アーマーン〉もまた同じような機構を内部に持っている。

 両親から授けられた、なにものにも替えがたいはずの己自身の肉体を、どのような理由であれ器物と置き換える――そう自身で判断し、選択するとは、つまりそういうことだ。

 不遜ふそんだ、とそしられても仕方がないことを、その使い手は選んだのだから。

 それでもなお、成し遂げたいことと、つまり《夢》と引き換えにしたのだから。

 

 二匹の猛獣に、両脚を付け根まで生きながらにして噛み砕かれる地獄を、アスカは味わっていた。

 ああっ、あああああっ、と《意志》とは無関係に声が迸った。

 強大無比の神器:〈アズライール〉が肉を食み、骨にボルトを打ち込む音だ。文字通り食いちぎられる痛みに、何度も気絶しそうになる。

 結合部から吹き上がる鮮血に短衣が、下着が濡れた。

 

 神器である〈アズライール〉は、そうしてアスカの血肉を食むことで“関係”を構築する。

 もちろん、人体の重量比率にして約四割と言われる両脚を失うことに対し、増血や肉体組織の再構築(〈アズライール〉へのプラグ化)を含む、あらゆる措置を講じてくる。

 死には至らない。

 いや、死ぬことはできない。

 能力者との間に“関係”を構築するとき、《フォーカス》は使い手を死に至らしめない。

 だが、苦痛と恐怖までは緩和しない。

 それすら、代償だからだ。


 己の成すべきことを思い、アスカは拷問のような十秒間に耐えた。

 聖句を唱えようとしたが、なにひとつ言葉にならなかった。

 代わりに口を吐いたのは、アシュレの名だった。

 なんどもなんども、呼んだ。


 しとねをともにする女奴隷たちは、だれしもがアスカの脚線を讚えた。

 嫉妬するほどの美しさだと。

 自分でもまんざらではなかった。

 世辞でないことがわかっていたからだ。

 触れ比べてみればわかることだからだ。


 だから、こうなってしまう前に、アシュレに触れて欲しかった。

 褒めて欲しかった。


 未練と言えばそれくらいか。

 ふっ、と笑いが漏れ、気がつくと苦痛は遠のいていた。

 支払いとその接収は厳格だが、それと同時に道具である《フォーカス》は、支払いに見合った働きを必ず、する。

 払われた代価を裏切らない。

 シュッ、ヒュッ、と独特の駆動音が響いた。

 ――〈アズライール〉。

 神代の武具がアスカを主人と認めたのだ。

 その血肉を、骨を、文字通り飲み干して。

 苦痛が飛び去るのと同時に、〈アズライール〉は、すっかりアスカの両脚となっていた。


挿絵(By みてみん)


 そうして、具合を確かめる間もなく、自らの血で深紅に染まった短衣を翻し、アスカは死の舞踏を舞いはじめた。

 どうすればいいかは、わかっていた。

 同調する際に嗅いだフラーマの《スピンドル》の残り香が、やり方を教えてくれていた。


 空間の断裂する音を、戦場をともにした、だれしもが聞いた。

 

 凄まじい力の衝突が生み出す白熱した光の粒が、フラーマの腹部――回転する坩堝るつぼのあるあたりから吹く。〈アーマーン〉と〈アズライール〉、ふたつの属性の異なる、しかし対なる破壊の力が、ついに創造の力:《フラーマの坩堝》のエネルギーを上回ったのだ。

 光が奔流となり、爆流となってあたりにぶちまけられた。


 戦場は混乱の極みだった。


 フラーマの落とし仔たちは狂ったように走り回り、デタラメな叫びを上げた。

 あるものは膝をつき、己の崩壊を恐れるように顔を、肉体のあちこちを手で押さえる。

 あるものはうずくまり、両肩を自分で抱いた。

 この世の終りに恐れおののく修道士のように。

 共通していたのは、恐慌に襲われた心のひしぎが、声となって現れ出た絶叫である。

 半不死の肉体を支えていたエネルギー、そのパワーソースとしての坩堝るつぼが失われつつあったのだ。


 そして、また天を舞う英霊たちも、自らの領域へ還るときが来ていた。

 異能:《コーリング・フロム・ザ・ファーランド・キングダム》の効果時間が限界を迎えようとしていた。

 一騎、また、一騎と黄金の粒になって還っていった。

 最後に残った一騎――美しい戦乙女もまた、フラーマと戦うアスカの姿を眩しげに目を細めて見つめたあと、消え去った。


 そんななかで、イズマとイリスはフラーマの姿を見ていた。

 ぼっ、ぼっ、と巨体のあちこちに破れ目が生じつつあった。

 青白い超エネルギー塊がその破れ目から間欠的に吹き上がる。

 それらのなかで、もっとも強く持続的な光は、自らを必死に押しとどめようとする乙女の姿をしていた。


「やっべえぞ」

 イズマが目を剥いてつぶやいた。

 やっと言葉にした、というそういう感じだった。

「ま、まずいんですか?」

「んな、生易しいもんじゃない。

 ――《スピンドル》エネルギーの連鎖崩壊だ。

 いままで、フラーマが請け負い続けてきた《ねがい》が逃げ場を失って、空間とその認識が、瞬間的に連続的に崩壊するんだ。

 こんだけの規模だと世界認識が崩落して……《ブルームタイド》が起こる! 

 くそう、これがこの物語の結末かよッ! 

 隠されていた、揃えてはいけない、解いてはならない“呪い”かッ! 

 フラーマの存在そのものが、そして再現された神話そのものが、爆発直前の世界観攻撃兵器ってことか! 

 それをアシュレたちにつつかせて、起爆させようってのか!」

「ぶるーむ、たいど? せかいかんこうげきへいき?」

「ヒトの意識に、世界認識に、認知の、現実感ってもののに穴を開けちまうのさ。《スピンドル》エネルギーは《意志》の顕現けんげんだろ? 

 そして《ねがい》も根源は同じ。

 ヒトの心から来る《ちから》なんだよ。

 つまり、逆説的に言えば、それは《意志》や、それを生み出している意識に働き掛ける《ちから》でもあるってことじゃないか。

 それを意図的にたわめて、暴走させて、ぶちまけたならどうなる? 

 たとえば消え去りたい、自分をなかったことにしたい、って《ねがい》をぱんぱんに詰めて、爆発させたらどうなる? 

 そうして《ブルーム・タイド》が起こる――虚構に喰われちまうのさ。

 世界という意味ごと。

 ないことに、なかったことにされちまうんだ。

 そこにはたしかにあるのに、もうだれにも認識できない場所になっちまう。

 見ることも、聞くことも、嗅ぐこと味わうこと、それどころか、触れることさえできないゼロ記号――《閉鎖回廊》なんてメじゃない――デカイ穴が世界観に開いちまうんだ!」

「大きな穴って……いったい、どんなことが起きるというんですか?」

 意味がわからないながらも、イズマの言う《ブルーム・タイド》という単語、そして世界観に開く穴という言葉に、いままで体験したことがないほどの悪寒が、背筋を駆け上がるのを感じながらイリスが言った。


「人類は世界観・・・を失う。

 世界を認識する《ちから》を失う。

 正確には一部だけど、こんだけパワーがあるんだ。

 どれくらい無くなるのか、わかんないよ。

 でも、それよりも問題なのは、そこが《通路》になるっつーことだ! 

 そこは世界観の桎梏しっこくから解き放たれた場所だ――どんな荒唐無稽、無茶もまかり通る」

「《通路》ッ? ――なにか……出てくるんですか? そのなかに取り残された人間は、どうなるんですかッ?」

「皆を逃がさなきゃっ、あー、なんでもうちょっと早く気がつかなかったのかー! 

 神話も英雄たちの戦いも、フラーマやアイギスやゼ・ノの苦悩さえ、仕組まれた《通路》開通のための儀式に過ぎないってーのか! 

 やつらめ、《御方おかた》どもめッ! 

 人間の奮戦も、愛するものへの執着も、ぜんぶ、ぜんぶ、自分たちがこちらへ顕現するための供物、生贄、エネルギーでしかねーってのかッ! 

 虚構が、物語が――現実に勝る瞬間を狙ってたっていうのか!」


 考えろ。どうすりゃいい、どうすれば……防げる?

 イリスには理解できない悪態を吐きながら、それでも方策を巡らせ続けるイズマにイリスは畏敬いけいの念を覚えた。

 

 そして、ほとんど同時に、イズマの言を証明するかのような現象が起きた。

 ゆらり、と揺らいだ空間の向こうに、なにものかの影がさした。


 それは――あまりに異質で強大なものにイリスには感じられた。

 イズマの言葉、その断片にあった《通路》が開いたとき――アレがこちらに出てくるというのか。

 全身を震えが走った。


 イリスは、その巨大な影のなかに、眼が生じるのを見た。 

 それは一瞬だった。

 視界をイズマの掌が遮ったからだ。

 

「イズマッ?!」

「視ちゃダメだッ。心を喰われるッ!!」

 

 それでも、その指の隙間から、〈スペクタクルズ〉のレンズ越しに、イリスは、その“眼”を確かに見た。

 

 感情などという概念を、完全に超越した瞳。

 ガチガチガチガチ、と歯の根が鳴るのを止められない。

 それから、声を聞いた。

 いや、叫びというべきだったろうそれが、イリスの心を護ってくれた。

 イズマだった。

 ふたりを見下ろす“眼”に、イズマは吠えかかったのだ。

 

「これは、オマエの仕込みかッ?!

 覗いていたのか、そこからッ!! 

 ニンゲンたちの、オレたちの、戦いをッ!! 

 仕組んだのか、あのときと同じように。

 いいや、うまくことが運ぶまで、過去からずっと、試し続けていたのか。

 いったい、何度目だッ!! 

 何度、ヒトの心を、《意志》を――もてあそんだッ!!」


 そして、それはイズマのものだったが、イリスの知るイズマの声ではなかった。

 血の出るような叫び。イズマの本性、ほんとうの言葉。

 ギリギリッ、と食いしばった歯が軋る音。

 

 怒っていた。あのイズマが。心の底から。

 強く抱きしめられた。護るように。

 実際、それは守護だった。

 視るだけで、心を食い荒らす荒唐無稽こうとうむけいの存在から、イリスを護るための行動だった。

 イリスはおこった炭の、清浄な薫りを嗅いだ。

 イズマの内で《スピンドル》が激しく励起れいきしている証拠だった。

 イズマは続ける。

 

「ようやく、読めたぞッ! 

 哀れな騎士:ゼ・ノも、かわいそうなフラーマも、それを誅せよと命じねばならなかったアイギスの苦悩も、ぜんぶ、ぜんぶ、そうか! 

 望む結果が得られるまで、何度だって、役者を変えて、やり直せばいいって、そういうことかッ? 

 ――ゆるせねえッ!! オマエたちは“神さま”なんかじゃないッ、オマエたちはただの、ただの――ッ」


 そこまで言ったイズマが、苦しげに身を折った。

 ぐうっ、と苦悶のうめきが漏れる。

 ぎしっ、ぎしっ、と凄まじい《ちから》が、イズマを拉がせる。

 それは、肉体にだけ働く《ちから》ではない。

 触れることさえなく、心に作用する強制力。

 だから、これはイズマの心が上げる悲鳴だ。

 

「《侵食イントルード》――ごていねいなこった……ほとんど、まるのまま、体ごとすげ替えたってのに……まだ、こんなに効くんだな……肉体にではなく“存在”に効く猛毒……“呪い”――念の入ったことだよ……だけど、このコまでは、渡さねえぞ」


 窮地きゅうちなのだ、とイズマの苦しげな声でわかった。

 いつもの、あの飄々ひょうひょうとした道化役者のごとき余裕を装うことが出来ぬほどの。

 

 なんとかしなくちゃ、とイリスは思った。

 イズマの体を抱きしめ、胸を押し当てる。

 自分の心を、イズマのそれと重ねて、すこしでも苦痛を肩代わりしようとでもいうように。

 うひょう♡、とかなんとかかんとか、そんな言葉を期待した。

 いつものあの飄々ひょうひょうイズマを取り戻したかった。

 けれども、イズマはなにも言わず、いっそう強くイリスを抱きしめるだけだ。

 頭上から叩きつけられる不可視の重圧を弾き返そうとするように、宙を睨み、歯を食いしばっている。

 イリスは、そのイズマの表情を下から見上げた。

 

 なんとかしなくちゃ、ともう一度、イリスは思った。

 気がつくと、とんでもない提案をイズマにぶつけていた。

 あのっ、あの、イズマっ、と急きこんで。


「《ブルーム・タイド》が起きて、世界に穴が空く――それって『“呪い”を解いてしまったら』ですよね? 

 つまり、フラーマのなかにそそがれ、たわめられている《ねがい》を爆発させてしまったら、ですよね?」

 自分でも驚くような発案が、振える唇から言葉になって転げ落ちた。 

「じゃあ、それが、臨界点に達する前に、別の器で受け止めたら――ひとつじゃなくて、分散して受けたら――どうなります?」

「?」

 なにを言われたのかわからず、パニックに陥った表情で、イズマはイリスを見た。


「あの“眼”――《御方》? の思惑は、フラーマをコアにした膨大な《ねがい》の集中が、アシュレやノーマンさんや、アスカ殿下の戦いを起爆剤にして爆破すること――させること、なんですよね? 

 それによって引き起こされる世界観の崩壊――結果としての《ブルーム・タイド》、なんですよね? 

 それじゃあ、この呪いをだれかが受け止めたら、どうですか? 

 ええと、ひとりじゃムリだから、こう、わたしたち全員で。

 つまり、解決して“呪い”をなかったことにするんじゃなく、わたしが、あるいはわたしたちが、すこしずつ分担して《ねがい》を引き受けたなら?」

 ええと、なに言ってるんだろうわたし、イリスがあたふたとする。

 論旨は、意味は、ちゃんと伝わってます?

 だが、イリスのとんでもない提案に、イズマは呆然として、視線を彷徨わせながら答えた。

「そりゃあ……たぶん、すこしずつ“呪い”は薄まって、それから、イリスやアシュレのパーソナリティーから影響を受けて、変質するから、ちょっとはちがう結末にできる――かも?」

 最初は、なにを言われたのかわからない、あるいは半信半疑、という口調・態度だったイズマの視点が、だんだんと定まり、焦点を結ぶのをイリスは見た。

 可能性がある、とイズマが判断したのだ。

 イリスはその表情を見て確信した。

 

 けれども当のイズマは、いや、ちょっとイリス、と慌てた。


「気でも違ってんの? 神話級の“呪い”なんだよ? いままさに爆発しようとしている《ねがい》の塊だよ? 半端じゃない。

 だいたい、キミらなんにも悪かないじゃない。引き受ける義務なんてないんだ。

 ほんとはそういうのは、これまで生きてきた大人の、ボクちんみたいなダメな大人がやるべきことで……もし、そのための器となるなら、成るべきは……!」

「イズマは、もう、引き受けてるでしょ?」

 はへ? とイズマは本気で虚を突かれて阿呆面をさらす。


 イリスは微笑んでイズマの手を裸の乳房に押し当てた。

 大切なことを伝えようとするときのイリスの――その肉体の元の人格:アルマステラの癖だった。

「グランの槍:〈デクストラス〉を防いだとき、いくら強力な異能:《ムーンシャイン・フェイヴァー》の発動シークエンスだったからって、無事に済むはずないもの」


 自分を危うくして、アシュレやシオンを護ってくれたんですよね? いまだって、わたしを護ろうとしてくれた。

 いままで、どれだけそうやって書き換えられたり、押しつけられたりを引き受けてきたんですか?

 イリスのその言葉は、かつてアシュレに同じことをした者であるからこそ、そうやって《ねがい》を押し付けたものであるからこそ、真剣で、真摯しんしな熱を帯びていた。


「その鎧の下、衣服の下が、どうなっているのか、いちど、お互いで確かめ合いますか?」

 いやん、エッチ、とイズマは返した。

 イリスは笑ってイズマに言う。

「だから、急いで行きましょう。みんなのところへ! こんどは、わたしたちが受け止める番です! 

 たぶん、アシュレもノーマンさんも、アスカ姫も、シオンも、みんな言わないけれど、覚悟してるんだと思います。だから飛び込んで行くんです。

 どんなに危なくても、割に合わないと知っていても、もしかしたら――そんなこと思いもせずに! 

 それしかないなら、やるしかないんです。……でも、どういうことなのか、後でちゃんと説明してください。

 あの存在――《御方おかた》や《ブルームタイド》のこと!」

 

 気は付けば、頭上から降る視線――《御方おかた》の眼力が弱まっていた。 

 ふたりの間で交された提案に、にたり、と笑うようにその眼がすがめられるのを、イリスとイズマは見た。

 影が消え去る。

 

わらいやがった。やってみろ――そう、小馬鹿にしやがった」

 イズマが、まだ怒りの残る口調で言った。

 けれども、そこにはもう、心にやすりがけされているようなあの苦悶くもんや激しい憎悪はない。

 ただ、イリスの提案に賭けてみることを決めた、決意した人間特有の晴れやかさがあった。

「いこう、やってみよう。《フォーカス》を導体にしたら、たしかに、可能性がある。どうなっちゃうか、わからないけど、足掻いてみよう! 諦めるには、早過ぎる」

「はいっ」

 イズマはイリスを抱いたまま、脚長羊ムームーの腹に拍車をかけた。


 ドンッ、と閃光が吹いたのはその直後だった。


 アシュレが〈シヴニール〉に辿り着いた瞬間、《フラーマの坩堝》が崩壊をはじめた。

 ノーマンとアスカの奮闘とその代価が、《スピンドル》の振動となって伝わってきた。

 ノーマンはひどい火傷を負っている。

 アスカは自らの両脚を〈アズライール〉基部として捧げた。

 フラーマに伝導した《スピンドル》の律動がそれをアシュレに理解させた。


 アシュレの肉体はこれまでになく《スピンドル》に順応している。


 ノーマンの騎士としての矜持、そして、だれか愛しいヒトを想う心がアシュレを奮い立たせた。

 アスカの偽りないアシュレへの恋慕があった。アシュレは想われていることに感謝した。


 それから、唐突に声を聞いた。


『逃げてッ! 逃げてくださいッ!』

 この周辺の現実が、世界観が崩壊する、と声が告げていた。

 肉声ではない。《スピンドル》伝導が形成した、一時的な生体間ネットワーク。

 それが脳裏へ直接、声を響かせていた。


「フラーマ!」

 アシュレは声の主に呼びかけていた。


 その途端、アシュレの脳裏に、美しい乙女の姿が、鮮やかに投影された。

 痛々しい姿だった。

 両脚は根元から失われ、全身が傷に覆われていた。

 暴れ回るエネルギー流を、華奢きゃしゃなその身体で必死に押さえていたからに違いない。

 頭髪は抜け落ち、傷は尊顔そんがんにも及び、汚濁と汚泥にまみれていた。

 だが、汚されても汚されても、なお輝く美が彼女にはあった。


『逃げて、逃げて、騎士さま! 消え去りたいと――なかったことにしたいという《ねがい》が――わたしを操って、ここを消し去ってしまう前に』


 懇願こんがんされた。

 彼女は血塗れになりながらもなお、自らより、自分以外のだれかを案じていた。

 ああ、とアシュレは納得した。

 そのだれかとは、彼女と彼女の姉が愛してしまったヒトの騎士のことなのだ。


「あなたを置いては行けないッ! 助けると誓ったッ!」

 アシュレは叫んだ。


 脳裏にアルマの姿があった。

 国を失い、暴徒に穢され、それでも恨みを飲んで、静かにひとりこの世から消え去ろうとした。

 それなのに過去に追いすがられ、理想を求められた。

 死毒に侵されたアシュレを救おうと、聖遺物の力を振るった。

 結果としてそれはアシュレに理想を押しつけるカタチになってしまったが、そうでなければアシュレは確実に死んでいた。


 ユーニスのイメージが去来した。

 アシュレの幼なじみだった。

 家系という呪縛に捕われながらも一途にアシュレを想ってくれた。

 かたわらにはべるため、従者として志願した。

 ともに赴いた聖務の地で襲撃を受け離別し、非業の死に襲われた。

 死に瀕しながらもアシュレを想い、アルマとひとつになった。


 夜魔の姫:シオンが記憶のなかにあった。

 夜魔の真祖の姫として生を受けながら、永遠生の呪縛から同胞を解き放とうとした。

 そして《ねがい》に蝕まれたアシュレを文字通り身を持って救ってくれた。


「こんどは、ボクが、ボクが助ける番だッ!!」

 フラーマの両目が、これ以上ないほど大きく見開かれた。


 どうして、と。なぜ、まだ、こんなに想っていてだけるのですか、と。

 わたしは、あなたさえ、あなたさえ――。


 末期の、フラーマの思念は最後まで届かなかった。

 臨界を迎えたエネルギーが爆ぜる。

 暴走する《ねがい》が彼女の腕のなかで跳ね回り、やがてその細い腕を食いちぎり飛び出して――。


 刹那、アシュレは計算し、決断した。

 この暴走するエネルギーには捌け口が必要なのだと。

 このまま、無制限に、無秩序に制御されない力が解放されたなら、一帯は消し飛ぶ。

 いまここには、世界法則をねじ曲げかねない超エネルギーがたわんでいる。

 それが突き立った〈シヴニール〉を通して感じ取れた。

 このままでは超弩級のスピンアウト――制御不可能の《スピンドル》暴走――つまり《ブルーム・タイド》によって現実が食い荒らされ、予測もつかない最悪の現象を引き起こしてしまうかもしれない。


 そうなったとき、いま生還を信じて死地を戦う仲間たちはどうなるのか?

 ノーマンは? イリスは? アスカは? イズマは? シオンは? 

 死? いや、もっとおぞましく、いたたまれない結末が? 

 なかったことにされてしまう、とフラーマは言った。


 させやしない、とアシュレは思った。

 いや、思うなどという曖昧で、責任の所在の不確かな感情では、それはない。

 がちん、と脳のどこかで歯車が噛み合い、意識が切り替わる音がした。

 精神と肉体が合一する音――それは《魂》が、そこに生まれる音だった。


 助けたいという想いと、助けようとする肉体の働きが、ごく一瞬、まさしく刹那だけ合一し、散らした火花――。


 それが《魂》の秘密――その一端だった。

 そこへ至るための、きざはしだった。

 それにアシュレは触れたのだ。

 最期の瞬間、アシュレは、かつてイズマが夢のなかで告げた言葉を思い出していた。


「ヒトに《魂》などない。この世界のすべてのものにさえ、だ。オマエのような小僧になど言わずもがなだ。――ただ、《魂》に近づくことはできる」


 ああ、これがそうか、と納得した。《魂》などないというその言葉に、アシュレは理由のわからぬ憤りを感じたものだった。

 いま思えばそれは、自分たち人間の存在の基底を攻撃されたと感じたからだ。


 だが、その憤りが激しければ激しいほど、あきらかになることがある。

 ヒトは、嘘を言うことで、ほんとうのことを言う。

 憤るのは、それを指摘されることを恐れているからだ。

 図星だからだ。


 ほんとうは、ないのではないかと怯えているからだ。

 そんなもの――《魂》など、自分には。

 だから、無条件に、無制限に、その所在を認め、証明を発行してくれるなにものかに依存する。


 イズマは、そのヒトの性根を一撃したのだ。

 たしかめろ、と言ったのだ。

 オマエが、オマエ自身を燃焼させて、と言ったのだ。


 なにもかもが、鮮やかだった。

 たったいま、手に入れたものを手放さなければならないのに、ふしぎと恐くなかった。

 いまを逃したら、どうせ、これは消えてしまう光なのだ。

 だから、いま、つかう。

 アシュレはもう一度、〈シヴニール〉の柄を握りしめた。

 

 そして、つかった。

 

 次の瞬間、アシュレダウは死ぬ。

 

挿絵(By みてみん)


 最大出力の《スピンドル》エネルギーが、生じたばかりの《魂》を代償に、その肉体を通路に、文字通り、心臓を破砕し、胸を内側から裂いたからだ。







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