■第四十二夜:アミューズは背徳の薫り
「さてまずはアミューズ。前菜の前の前菜。小さなお楽しみだ。ヤマシギの脳みそに粉を叩いてバタでソテ、その軽い燻製に内臓と赤ワインを煮込んだソース。横に青足茸と春菊のムースを添えてある。食前酒は自家製のオレンジリキュール。白ワインを蒸留した火酒をベースに、上等の砂糖や薬草類、香り高いオレンジを漬け込んだものだ」
あの太い指でどうやったらこんなに繊細な仕事ができるのかわからないが、物音ひとつ立てず、ゴウルドベルドは美しく盛りつけられた小前菜を三人の前に差し出した。
そのあまりの出来栄えに、アシュレは愕然とする。
ジビエのなかでも珍味中の珍味、いや美味と言われるヤマシギの脳は粉を叩いてバターでソテした後、軽く燻製されたようで極めて小さい品ながらぷっくりと膨らんで、内側に閉じこめられた官能を主張する。
燻され香味を付加されたサクサクの外壁の内側に、濃厚な旨味と野趣を秘めた艶めかしい姿は挑発的ですらある。
いっぽうムースは淡い紫と春菊の緑のコントラストが美しい。
春菊はアシュレたちの暮らすファルーシュ海沿岸では薬として扱われ、食卓にはまず上らない。
だが、こうして旨味の強い青足茸を煮てすり流しムースに仕立てたのだろう一品と合わさると、視覚から飛び込んでくる色彩が、すでに強烈に食欲を誘う。
まるでアンチョビのような香りを持つシギの内臓を用いたソースと強い山の香り──そこに青足茸と草原に吹く風を思わせる春菊のフレーバー。
美しい。
外観だけでなく嗅覚的にさえ、すでに美しい。
それらがアミューズ──お楽しみの名の通りごくわずか、ひと口分だけ饗される。
口中に、この小さな宝石たちを放り込んだときのことを想像するだけで、アシュレは込み上げてくる生つばを止められなくなっていた。
エクストラム法王庁の晩餐でも、これほど気の利いた品は出てこない。
あまりの衝撃に愕然となり、しばらく皿を凝視することしかできなくなってしまう。
視線を感じて顔を上げると、そこにはゴウルドベルドが試すような目つきで立っていた。
「どうした小僧。顔が青いぞ。それに……震えているな?」
「…………」
なにか言い返したかったが、悔しいことになにひとつ言葉が出てこない。
それほどに目の前の品は、すでに完成されていた。
「驚愕に震えるのはまだ早い……それらを、そうみんな合わせてひとつにして、ひとくちで喰らえ。そう、ヴァオラッ! そう素晴らしい、トレボン、トレボン!」
促されるままアシュレは震えるフォークとナイフを操り、三つの食材をひとつにまとめて口中へと放り込んだ。
その衝撃をなんと言い表せばいいのか。
気がつくと、意識が飛んだようになって呆然としていた。
皿はすでに卓上になく、アミューズに使ったカトラリーは下げられ、手にはみごとに琥珀色に染まった食前酒だけが残されている。
口中に残る磯の薫り、肉の獣性、さわやかな若葉の香気──それらが渾然一体となった残響でたしかにいま自分は料理を一品、体験したのだとわかるのだ。
そうそれは食事というより未知の体験であった。
感動の残滓がまだビリビリと肉体のさまざまな場所を震わせている。
そこまで考えて、アシュレはとてつもない恐怖に襲われた。
これは、この味は──アテルイのそれと同じか……いや上回っている。
アテルイのそれがまったき善に属しているのだとすれば、このゴウルドベルドの料理はヒトを奈落へと引きずり込む魔性のものだ。
美味という歓喜に震えながら、暴食の地獄へと落ちる恐怖。
このときアシュレが感じていたものをあえて言葉にすれば、そうなる。
こんなものとボクは戦うのか。
闘えるのか。
震えながら口にした食前酒に、アシュレはまたものけ反るほどの衝撃を受けた。
うまい、うますぎる。
酒というよりこれはすでになにか次元の違う飲み物だ。
天上の飲み物というのがあれば、たぶんこういう味なのだろう。
酒精は強いのに、トゲトゲしさなどまったくない。
口当たりは最上級のオリーブオイル。
のどごしは、白桃のピューレのよう。
ただただ、あまやかで爽やかな極上の飲み物。
恐ろしいことに、ひとくち含むと、先ほど喉を通り過ぎたはずのアミューズの記憶が呼び覚まされ、また陶然とする。
そして──食物を胃に入れたはずなのに、なぜか猛烈な空腹感を覚えてしまう。
「まずい、まずいぞ、コレは」
左右を見渡すとキルシュとエステルのふたりは涙を流しながら、椅子の背もたれに身を預け目を閉じている。
荒い呼吸。
その肌は、すでに汗みずくになっている。
「キルシュ?! エステル?! ふたりともしっかりするんだ!」
「騎士、さま。ダメ、これダメです。蕩ける、とろけてしまう」
「こんなの、こんなの食べたら……おかしくなる。ううん、もうおかしくなっちゃってる」
ああ、と未熟な唇から漏れ出る吐息は艶めかしく濡れている。
「頭が、ヘンになっちゃう……」
「ッ?! ふたりとももうそれ以上、食べるんじゃないッ!」
「ほおおう? もういいのか? コースはたったいま始まったばかりだぞ?」
気がつけば二本目の酒が、細長い瀟洒なグラスに注がれていた。
金色のそれは絶え間なく泡の列を立ち昇らせている。
ぱちぱちと、まるで星がさんざめくようにその小さな泡たちが弾け、ささやく。
見たことも聞いたこともない種類のワインだ。
それが抗いがたい芳香を漂わせてアシュレたちを誘惑する。
そして、それに合わせるように差し出された前菜もまた、驚愕の品だった。




