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■第四十一夜:饗宴の穴(フィースト・ピット)


「なんだ、ここは……」


 キルシュとエステルのふたりを追い大扉を潜り抜けたアシュレは、眼前に現れた壮絶な光景に絶句した。


 それをなんと言い表そう。


 扉の奥に続いていた通路を抜けると、そこはまるで円形闘技場がごとき施設となっていたのだ。

 アシュレたちは、ちょうどその中段あたりに出てきたことになる。


 見ればキルシュとエステルのふたりも、階下へと続く長い階段の途中で足を止め、呆然とその光景を眺めていた。


 天上にはいくつも太いはりが渡され、そこから鋼鉄製の滑車と鎖、そしてフックが、まるで解体された獣の腸を思わせていくつも吊り下げられている。

 いや、そのうちいくつかには実際に加工された肉類や腸詰めなどの束、巨大な干し魚までもが吊るされているではないか。


 それは見事に処理され保存された、輝かしいばかりの品質を持つ食材たち。


 だがもちろん、それはあの装置の本来の用途ではあるまいとアシュレには知れた。

 この巨大なフックの本当の使い道は、犠牲者を食料に・・・・・・・加工するためにある・・・・・・・・・

 

 アシュレはこの施設に続く長い廊下や、天井に刻まれていた背徳的な裸婦像たちの意味するところを、正しく理解した。


「ふたりとも、離れちゃダメだ」


 とてつもない光景に圧倒されながらも、少女たちの手を握りしめ確保する。


 だが、真騎士の少女たちはアシュレに手を取られたことさえ気がつかない様子で、夢見がちにゆっくりとまぶたを閉じたり開いたりしている。

 まるで猟犬が高鼻を使うように鼻腔を空に突き出して、この円形闘技場じみた世界に満ちる香気を嗅いでいる。


「キルシュ? エステル?」

「騎士さま……感じませんか。この香り……ダメ……頭が蕩けそう」

「良い匂い……痺れるみたいに感じる。頭の奥がぼうっとしちゃう」


 ふたりの口調にアシュレはただならぬものを感じた。

 短く息を吸いこみ、大気に満ちる香りの正体とやらを確かめる。


 たしかに、えもいわれぬ香気がある。

 花や女性が発する果実めいた甘い香りではない。

 これはもっと暴力的で、人間の古い場所に作用する匂いだ。


 つまり食欲、そして肉欲にも。


 肉と臓腑、脂肪とスパイスの生み出す──魔性の臭い。

 人間の獣性を刺激し、呼び起こすにおい・・・


 ふたりの少女を陶然とさせる香りが、アシュレには全身が総毛立つような臭気に感じられた。

 油断なく円形闘技場めいた施設の端々にまで注意を巡らせる。


 すると施設の対岸、そのやはり中段あたりに設けられた観覧席めいた場所に座していた巨大な影が身じろぎするのを、アシュレは見た。


「ほお、オレの肉汁の香りを嗅いでなお平然としているとは……こんどの客はなかなか面白そうではないか」


 天地を揺るがすような胴間声がした。

 いや実際、天井から吊り下げられた鎖やフックが揺らめいて音楽を奏でる。

 それはまるで軍楽のようだ。


「肉汁……? だれだ、オマエはッ?!」


 アシュレは声を張り上げ、対岸の存在に問いを投げ掛けた。

 ヒトの騎士からの誰何に、巨大な影はバフォフォフォフォフォ、とさもおかしげに嗤って答えた。


「まさか、オレの名を知らずにここまで来たのか。なんともはや酔狂なヤツらだ。バフォフォフォフォフォ。オレを、そうかオレを知らずにこの円形闘技場コロッセウムに踏み込んだか」


 バフォフォフォフォフォ、となにがおかしいのか、影は哄笑を繰り返した。

 そして、ひとしきり嗤うと口調を変えた。


「なに者だ、というのはオレのセリフよ小僧。オマエこそがまず、名乗れ」


 影からの言葉にアシュレは一瞬、躊躇した。


 名を教えることは相手にしゅを与えることですの、とは土蜘蛛の姫巫女:エルマがくれた教えだった。


 充分に注意されてくださいまし、いきなり相手に本名を渡したりしないように。

 エルマはそうアシュレに注意した。


 魔の氏族のなかには、それを触媒にした呪術系異能による攻撃を得意とする者たちが数多あまたいるからだ。

 

 しかしいま対岸にいる存在から感じ取れる圧は、そういう種類のものではなかった。

 もっと暴力的で、圧倒的で、物理的な……まるで王者に相対しているかのような種類の重圧が肌に突き立つほどの鮮やかさで感じられる。


 こういう相手には気力で呑まれてはいけない。

 アシュレは背筋を正すと先ほどまでよりもさらに透る声で、本名を告げた。


「我が名はアシュレ。アシュレダウ・バラージェッ! オマエはだれだッ?!」


 アシュレの声は円形闘技場のあちこちに反響し、長く残った。

 対岸の影はその残響の最後のひとかけらが消えうせるまで、じっとその余韻に耳を澄ませているかのようだった。


 そして、声の残滓がすっかり消えうせたとき、またあの雷轟らいごうを思わせる嗤い声がした。


「バフォフォフォフォフォ。いいぞ、小僧、その豪胆さが気に入った。本来ならば貴様らごとき存在は、我が聖域たるこの食の殿堂──饗宴の穴フィースト・ピットに足を踏み入れることさえ許されぬのだが、今日は特別だ」


 暇つぶしくらいにはなるだろう。

 嗤いながら尊大に言い、影はパチンと指を鳴らした。

 するとどうしたことか。

 劇場の緞帳どんちょうを思わせて視線を遮っていた鎖とフックの群れが、キュラキュラと音を立てて左右に退いていくではないか。


 それで世界が開ける。


 円形闘技場の空気は、おそらく真騎士の少女たちを魅了したあの妖しげな臭気であろうもや・・に煙ってはいたが、視界を疎外するほどではなかった。

 アシュレは視線の先に巨大な玉座があり、そこに横座りで居座る強大な存在の姿をいるのを確認した。


 それをなんと表現すべきなのか。


 おそらくその体躯は優に二メテル、いや三メテルに迫るであろう。

 赤銅色の肌。

 鍛え上げられた肉体を、分厚い脂肪の層が覆っていた。

 その顔は伝説にある魔猪がごとく。

 長くつき出した鼻と口吻。

 その根元からは偃月刀えんげつとうの穂先のごとく湾曲した長く太い牙が二対、計四本、杭のように突き出している。


 肉体のあちこちに、まるで宝飾品のように鎖を止めている。

 それらは肉を穿ち、直接、その身体に縫い止めるカタチで保持されている。


 なにより恐ろしいことは、頭に頂いた恐ろしく残酷な形状をした冠がカトラリーを集めて作られていることでも、その下の落ちくぼんだ眼窩には目やにに汚れた黄色い瞳が、爛々と尽きぬ欲望を滾らせていることでもなく────。


豚鬼オーク……君主ロード? いやちがう、オマエは……」


 アシュレの呻きに、またソイツは嗤った。


「バフォフォフォフォフォ。豚鬼オーク? 豚鬼オークと言ったか。懐かしい名を聞いたぞ。そうよ、たしかにオレは豚鬼オークをやっていた時代もある」


 だがな、と異形異貌の男は口角を歪めて見せた。

 あれは不敵な微笑み、の表現なのか。


 アシュレは流れ落ちる冷たい汗を噴くことも忘れて、ふたりの少女の手を握りしめた。

 なぜって……どういうわけかふたりはアシュレの制止を振り払って、あの危険極まりない重圧を放つ存在の方へ駆け出そうとしていたからだ。


豚鬼オークをやっていたこともある? 種族というのはやったり、やめたり、できるものなのか」


 問いかけながら、アシュレはいままさに自分で答えを口走ったことに戦慄していた。

 バフォフォフォフォフォ、と異貌の男は哄笑で答えた。


「できる、できんはソイツの度量と執念によるだろうな。だが、オレは到達した。ついに成り果てたのだ……美味という概念そのものと融合し……美食の権化として生まれ変わった」

「美味という概念? 生まれ変わった……だと」

「いかにも」


 自信たっぷりに答える異貌の男に対し、アシュレはついに確信を得るに至った。


「まさかオマエは……《閉鎖回廊》の主:オーバーロード」


 そうだというのか。

 呻きにも似たアシュレの言葉に、尊大な格好で玉座に横座りした男は天を見上げるほど喉を反らして笑い、頷いた。


「いかにも、いかにもそうだ、アシュレダウ」

「貴様ッ!」


 反射的にアシュレは抜刀しようとした。

 だが、その手が空を切る。

 そうだった、スモールソードはおろか聖盾:ブランヴェルも扉を潜るために置いてきたのだ。

 慌ててハンドアクスとダガーを引き抜き、両手に構える。


「ほうほう? まさかこのオレと一戦交えようというのではあるまいな? ふふん、なんと野蛮な。さすが人間、闘争の概念が幼稚で野蛮だ。しかし、挑んでくるというのであれば拒まん。オレはそういう男なのだ」


 アシュレの決意に目を細め、それからその装備を見てまた男は嗤った。


「しかし──ここまで来たからには、いずれ名のある《フォーカス》で武装しているものとばかり思ったが、なんだその貧相な武器は。やめておけやめておけ、そのような刃ではオレの肉までは刃が届くまい。この美しく白き脂肪の層に阻まれて、それで終いよ」


 やってみなければわからない、といつもならアシュレは叫び返しただろう。

 けれどもいまは事情が違った。

 キルシュとエステル、ふたりの少女をなんとしても無事に帰還させなければならなかったのだ。


「ゴウルドベルド・シュヴァインシュタイン」

「な、に?」 

「ゴウルドベルド・シュヴァインシュタイン──我が名だ」


 身構えたままのアシュレに、突然、異貌の男は鷹揚な調子で自らの名を与えた。


「ゴウルドベルド」

「親しいものはゴウルドと、しかしこの饗宴の穴フィースト・ピットにあっては巨匠マエストロと呼ぶのが礼儀だ」


 わかったか、小僧。

 まだ戦闘態勢を解かぬアシュレに対し一方的に言い放ち、巨匠マエストロを自称する男は、またまた笑い声を上げた。


「なにが……おかしい」

「おかしくて笑っているのではない。それがわからんのか?」


 問い質すアシュレに、ようやく向き直って男は言った。


「オレはいま喜びに震えているのだ。オレに哄笑させるもの、それはただひとつの感情。すなわち──歓喜よッ!」


 バフォオオオオオオオオオオオ、と大気を揺るがしてゴウルドベルドは宣言した。


 玉座の手すりを砕かんばかりの怪力で握りしめると、ゆっくりと立ち上がる。

 その手には指揮杖じみて、巨大なフックが握られている。

 幾多の勲章によって装飾された前垂れめいた甲冑のごときものはまさか……エプロンなのか?!


「ようこそ、お客さま。あるいは挑戦者か? いずれにしてもオマエたちはここから出ることはない。オレに完全なる美食を示すか、あるいは自分自身が美食という概念と合一するか、いずれかの条件を満たさぬ限りなッ」

「なん、だとッ?!」


 予想の右斜め上をカッ飛んで行く宣言に、アシュレは身を震わせることしかできなかった。



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[一言] 詰みじゃん。。。
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