■第四〇夜:背徳の大扉
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「作戦を変えよう」
アシュレはそう切り出した。
両脇ではぴったりと身を寄せてくる妹ふたりが、真剣な眼差しで、いましがた初めてのくちづけを捧げた騎士の顔を見上げていた。
ものすごくやりにくい、とアシュレは思う。
油断していたとはいえ、まさかこんなことになろうとは。
脇が甘い、とシオンに怒られるに違いない。
そう考えると、変な汗が出てきてしまうアシュレだ。
「トイレと下水施設の探索は一旦、置いておく。厨房と食料庫、こちらの探索を優先にしよう。酒精貯蔵庫やチーズ、サラミなんかの保存施設があるといいんだけど」
アシュレの決定は、ふたりの妹からは歓声を持って迎えられた。
「やった! 騎士さま、ありがとう! わたしサラミもチーズも大好きですわ! 人間の作る保存食、大好き!」
「あ、コラ、エステルずるい! 抱きつくなあ!」
「わたしってば、こう見えて心根が素直なんです。嬉しくってつい」
「ま、負けるかッ!」
なんだかどんどんまずい方向に話が転がっている気がするが、アシュレはじゃれついてくる子犬のような妹たちをなんとか捌きながら、パレス内部を進んだ。
「でも、厨房ってどこにあるのかしら」
「定石なら一階、大広間に向かって待合室を兼ねる大きな回廊を挟んで、その先にあると思う。このパレスの広さを考えるとすくなくても百名から数百人の食事を、一日に最低でも二、三食は作ってただろうから、かなり面積がある建物のはずだ。かまどの数も十や二十では利かないんじゃないかな」
「すごい! 騎士さま、博学!」
「むかし宮仕えしてたことがあるだけだよ」
「宮廷に?! どちらの、ですか?」
「エクストラム……知ってるかな? ボクは聖騎士だったんだ」
聖騎士という単語を言葉にするとき、アシュレは口中に苦いものが広がるのを禁じえない。
だが、真騎士の少女たちには別の響き方をしたようだ。
「騎士のなかの騎士……聖騎士」
「やっぱり……わたしの勇者さま……」
ともすれば夢見がち路線にカッ飛んで行きそうになる妹ふたりに、一抹の不安を覚えつつも、アシュレは探索を続けた。
「中庭があって……と。うん、たぶんあすこに見えてる建物の奥側じゃないかな。方角的にもロケーションとしてもまさに宮殿の舞台裏って感じだ」
テラスから見えた風景を頼りに三人は宮殿内部を歩いた。
アシュレの言葉の通り、中庭を貫いて伸びた回廊のその終点にそれらしい建物が見えてきた。
施錠されていた扉を借り受けた土蜘蛛の道具でなんとか開けることに成功し、アシュレたちは渡り廊下というには、あまりに巨大で長大な回廊に侵入した。
厨房へと続く回廊の内部には、その両サイドに固定型の長椅子と長テーブルがいくつも設置されており、まさに待合室を兼ねる作りになっていた。
ここに出番を待つ料理と給仕たちが、列を為していたに違いない。
そこをアシュレたちは用心深く進んで行く。
常識的に考えれば宮殿内に罠の類いがあるとは考えにくいのだが、相手はかなり倒錯的な趣味を持っていたらしい竜王だ。
上水道施設の事件もある。
鬼が出るか蛇が出るか。
イズマがいてくれたら話が早いのに、とアシュレは思うがそれは後の祭りというものだ。
とにかくアカデミーで習った潜入捜査の基礎と聖騎士時代の経験、それからエレやエルマに仕込まれた知識と技術を駆使して、慎重に探りながら行くしかなかった。
「しかし、ここ料理人と給仕たちが使っていた場所のはずなんだけど……すごいな装飾や調度が天井画まで抜かりない」
「でも……さっきから思うんですけど……このパレスの天井画や壁画・調度も……ちょっと刺激的過ぎますよね」
切り出したのはキルシュだった。
たしかに少女たちに見せるには刺激的と言わざるを得ない彫刻や絵画が、パレスにはあちこちに配されていた。
たとえば匂い立つような裸婦画や裸婦像といったものだ。
もちろん作品としての質は芸術品としてとても高く、配置そのものも露骨ではなく吟味されていたので下品というわけではないのだが、あきらかにこのパレスがハレム的属性を帯びていたのは間違いない。
淫靡で退廃的な空気を醸し出す品々。
禁欲的生活を送る修道士たちが見たら、激怒まったなしの類いだ。
さらに、この待合室にあふれる空気はそれにも増して肉感的というか、肉欲的で……直接的かつ倒錯的な趣味のものだった。
裸婦像に関して言うなら、女神や娘たちが男神から略奪や戒めを受けているような種類ものだ。
「目隠しされてたり、縛られてたり、鎖を打たれていたり……なんていうかすごく背徳的だったり猟奇的な……」
たしかに、とアシュレはキルシュの評を分析しながら思った。
もしかしたら、とも考える。
おそらくは厨房へと繋がるこの廊下に満ちているのは、食欲と肉欲の類似点を指摘し、両方を刺激する暗喩なのではないか、と。
排泄欲と食欲に近似の部分があるように、肉欲と食欲の類似点は認めなくてはならない。
食事に肉欲的な快楽を見出すのは、夜魔や蛇の巫女たちだけの特性では決して、ない。
たとえば調理過程はある意味で、他者を組み伏せ解体し、征服する行為である。
であれば食事とは自他の境を超えて他者を味わい、ひとつとなる営みと同義とも言える。
さらに誤解を恐れず言うのであれば──美食学の究極とは捕食行為の神格化である。
だからこそ、宗教家や修道士たちは行き過ぎた美味・美食を戒めるのだろうともアシュレには思える。
だが、アシュレはそのような哲学的問いかけとは別の、もっとハッキリとした気配を感じ取りはじめていた。
あえてそれを魔の気配、と断言しよう。
「キルシュ、エステル。悪いんだけど、ちょっと離れてくれるかい。それとふたりとも、武器は使えるね?」
「はい、騎士さま」
アシュレはこの時点で危険を察知した。
真騎士の乙女たちに警戒態勢を取るよう促す。
「じゃあ構えて。もし戦闘になったら、敵はできる限りボクが引き受ける。きみたちは自分自身を護ることだけを考えるんだ。間違っても加勢しようとしちゃあいけない。実戦では振りかぶった味方の剣で怪我をしたり、運が悪いと死ぬことだってある。同士打ちにだけは、気をつけて」
「「了解!」」
アシュレは手短に指示を飛ばした。
元気のよい声が返ってくる。
真騎士の乙女たちは幼少期から武芸を叩き込まれる。
それはレーヴの戦闘能力の高さを見れば一目瞭然だ。
今日のふたりもちゃんと武装している。
キルシュは長さ一メテルほどの手槍、エステルはスモールソード、それに加えてふたりとも小型で扱いやすいラウンドシールドを携える。
全身はあの女性の魅力を損なわないように配慮された甲冑のソフトレザー版。
胸当や肩、肘や腕の部分だけがハードレザーで強化されている。
その備えの的確さ、堂に入った構えだけで、すでにふたりが並の従士などより、よほど確かな戦闘訓練を受けてきたことが理解できた。
が、訓練と実戦は違う。
逸る気持ちのまま突出するのではなく、まず自分の身とポジションをキチンと守れることのほうがずっと大事だ。
アシュレ自身も剣を抜く。
いざというときのために聖盾:ブランヴェルは携えてきたが、竜槍は置いてきた。
下水道にせよ厨房にせよ、狭い閉鎖空間でシヴニールを放つ可能性は低いと判断したのだ。
いくら折りたたんで携行できるとは言っても、長い探索行にシヴニールは重過ぎる。
そのかわり、今日のアシュレはかさばらないスモールソードを二本、真騎士たちから借り受け、自前のハンドアクスを一丁とダガーを二本、これは自前のものを帯びていた。
土蜘蛛たちの戦法ではないが、いざというときは武器を使い捨てにしながら戦う覚悟だ。
「気をつけよう……この先なにか……いる」
言いながら身構えるアシュレに、ふたりの真騎士の少女は神妙に頷いた。
進むにつれ立ち並ぶ猟奇的背徳趣味に彩られた裸婦像の密度が、あきらかに増えてきた。
鎖を打たれ目隠しをされた女性を、馬や鹿、猪にキジといった野獣・野禽の頭を持つ怪物たちが四つんばいにして、責め立てている。
大人の自分が見ても、躊躇を覚えるような表現だ。
これ以上の刺激を少女たちに与えていいものか、アシュレは悩む。
かといっていまさら、帰れとも言えない。
像の陰からの不意打ちがないか、潜んでいる敵がいないか、注意しながら進み、ついに巨大な門の前にまで辿り着いた。
そこには特徴的な書体で文言が刻まれていた。
「なにかしら……この文字。アガンティリスの言葉に似てる? 美しい? 神殿? 捧げ……よ?」
「難しい。古代文字:エフタルみたいだけど、違う言語だわ、これ」
「これなるは偉大なる美味の殿堂なり。この門を潜るものは至高至善の一切を捧げよ──しからば我、汝に至福を与えん」
キルシュとエステルは文言を前に眉根を寄せた。
ただひとり、アシュレだけが正しく意味を読み解く。
「読めるの、ですか?」
「古代文字は古代文字でもこれは古いほうのエフタル=古エフタルだね。むかしちょっと齧ったのと、独学でこういうのを読み解いてきたヒトから教えてもらったから」
アシュレは胸元に常に入れている夜魔の騎士:ユガディールの手記を、胸当の上から叩いてみせた。
「すごいんだ、騎士さま。人間なのに……これがちゃんと読めるんだ」
「教養のある男性ってステキだと思います。エステルの好み……です」
ふたりの感想が面映ゆく感じられて、アシュレはちいさく苦笑した。
だが、目の前にある文言は笑って良い内容ではない。
威圧的な書体と文言からは、看過しがたい魔の気配が圧力を持って感じられる。
古きエフタルには、読んだ相手にその文意を直接的に理解させる超常的な《ちから》が備わっているとも言われている。
「至高至善の一切を捧げよとは、不遜な」
至高至善とは、聖イクスに捧げられる敬いの言葉だ。
それを捧げとは。
アシュレにはその文言は、己の善性のすべてを、そして己が愛するものをすべて投じよ、と居丈高にも命じているように感じられた。
そんな言葉が、恐らくは厨房に続くであろう大扉に刻まれている。
イヤな予感がした。
「これ、開けない方がいいんじゃないかな」
「でも、騎士さま……なにかしらすごくよい匂いがしませんか」
「ほんと、なにこれ……美味しそう。でも、知らない香りだわ」
文言を前に立ち尽くし、門扉を睨んだままのアシュレの両脇を真騎士の少女たちが擦り抜けたのは、そのときだ。
「まて、ふたりとも。その扉に触るな!」
アシュレは武具を放り出し、ふたりを捉まえようとした。
だが、遅かった。
ふたりの小さな掌が扉に触れると、そこから光の筋が走り、どこかでかんぬきの抜けるような音がした。
ごごごん、ごうん。
アシュレにはわかる。
これは古代アガンティリスの技術だ。
その直感の正しさを証明するように、行く手を閉ざしていた大扉が巨大な唸りを上げ、わずかに開く。
想像を絶する厚み。
その巨大な門扉が相手を吟味するように、大人の男が身体を横にしたら、なんとか通れるくらいの隙間を開く。
そして──耐えがたい誘惑に満ちた芳香が、瀑布を幻視させながら流れ出してきた。
「まて、キルシュ、エステル! 行くんじゃない!」
なんとしたことだろう。
その香りに操られるように、キルシュとエステルのふたりが扉の向こうへと滑り込んでいってしまったではないか。
制止しようと延ばした手が空を切る。
「くそっ」
アシュレが悪態を吐く間にもふたりを飲み込んだ扉は、用は済んだとばかりに無慈悲にも閉じ始める。
「ええい──ままよッ!」
アシュレは放り出した武具もそのままに、閉じ行く隙間に身を踊らせた。
なんとか擦り抜ける。
間一髪、その試みは成功した。
その背後で、こんどは完全に扉が閉じた。




