■第三十九夜:メルヘンは口移しで
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さて、いっぽう、長椅子の設置された柱廊まで戻ってきたアシュレは呆然としていた。
なんということだろうか。
イズマを寝かしつけていた長椅子には、もはや失意の土蜘蛛王の姿はなかった。
置き手紙とか、書き置きに類するものもない。
異能を駆使した伝言なども一切なし。
「ど、どこへ行ったんだ……あのヒトわ」
アシュレは目の前が暗くなるのを感じた。
思わず言葉遣いも、おかしくなろうというものだ。
「単独先行するなって……勝手なことするなって言われたんじゃないのか! というか、そう注意してくれたのアナタの奥さんでしたよねッ?! エレ、ボクじゃなくて、アイツに言ってください。あのヒトですよ、ホントに厳重注意しなくちゃあいけないのは!」
「クモおじさん、どこかにいってしまった……のですか?」
「ああ、ええ、そうみたいだね。うん、ええ。こういう大人にはキルシュもエステルも、ならないでね」
キルシュのつぶやきに、アシュレはやや捨て鉢に、しかし深い感慨を込めて言った。
「参ったな……さてどうしようか」
もうほかに、コメントのしようがない。
天を見上げて息をつく。
「クモおじさんも探さないといけなくなりましたね」
淡々とエステルが言う。
そうですね。
またまた頭痛がしてきたアシュレである。
「わかった。とりあえずほかの厠を探しながら、イズマがいないかあちこち部屋を見て回ろう」
本来なら手分けしてしまいたいところだが、まだこのパレスにどんな秘密が隠されているのかわからない。
どんな脅威が潜んでいるのかも。
上水道を解放する際、飛び出てきてどこかに潜伏した小蜘蛛の群れも、いる。
ちゃんとコントロール下には置いたつもりだけど、あれがキルシュやエステルに害を為したら、アシュレは自分で自分を殴りつけるしかできなくなる。
そして戦隊が分断されたときどうなるのか。
これまでの戦いでもイヤというほどそれを経験してきたアシュレだ。
「ボクたちはバラバラになっちゃだめだ。うん、そう、それでいい。ちゃんとボクの服を掴んでいてくれ」
会敵したことを考えると密集しての移動はまったく良策ではないのだが、いきなり行方不明になるクモおじさんよりは、こちらのほうがだいぶマシだとアシュレは思った。
少女たちの手を取って、自分の服の端に導く。
と、どこかから可愛らしい音がしたのはそのときだった。
くうう、きゅるるるんるるるるるる。
なにかに気がついたように顔を赤らめたキルシュが、慌てて自分のお腹を押さえた。
「ち、ちがっ、こっ、これはっ」
「あらあらキルシュ、ちょっと食べ盛りが過ぎるんじゃなくて? いま戦隊は困窮のさなかにあるのですから、淑女はもっと慎みを持って……」
お腹が鳴るのは不随意なのだから仕方がないのだが、恥じ入るキルシュにエステルが追い討ちをかける。
なんとかかんとか理由を見つけては自分の優位性を示そうとするのは人間の子供でも変わりはないのが──まあ、これくらいなら可愛いほうだろう。
だが、マウントを完成し切らぬうちにこんどはエステルのお腹が、同じく可愛らしい音を立てた。
くううううう、きゅるるるん、るるん。
はああああああああああ、と普段は冷静さで売っているエステルが狼狽した。
頼りない照明の下でも丸分かりなほど真っ赤になって、両手で頬を押さえて座り込む。
あはは、とアシュレは思わず笑ってしまった。
手近な長椅子に腰掛ける。
なるほどこういうとき、この長椅子は便利だ。
パレスというだけあって、この宮殿は無駄に広いのだ。
「うん、ちょっと休憩しようか。朝食からこっち、まだなにも口に入れていなかったし。ふたりもお腹空いたよね」
長椅子の真ん中に座したアシュレは、両サイドの空きスペースをぽんぽんと叩いた。
ふたりの妹たちはおずおずと、まだ顔を赤らめたまま席についた。
「さて、なにかあったかな?」
努めて軽い口調で言うと、アシュレはベルトポーチをまさぐった。
出てきたのは干しぶどうやナッツが練り込まれたビスケットだった。
たぶん、ベーコンの脂身の部分も流用したのだろう。
ちょっと燻製香がする。
あらゆるものを無駄にしないアテルイの始末の利いた技だ。
アシュレの人さし指より一回り大きいサイズのそれが、ふたつ。
清潔な布に包まれて入っていた。
これが今日、携帯を許された食料のすべてだ。
キルシュとエステルの視線が、そこに集中するのをアシュレは感じた。
「さあ、食べよう」
「でも……」
「ええ、こんなの……いいのかしら」
ふたりはあきらかに困惑した様子でアシュレを見上げ、それからまたビスケットに視線を落とした。
アシュレは違和感を覚えた。
「ん? どうしたんだい? きみたちの分も出したら……って、まさかないの?」
「あー、それは」
「その、ですね」
歯切れ悪く、ふたりは事実を認めた。
聞けば当初、空中庭園を上空から偵察する予定であった真騎士の乙女たちには、この携帯食料は配られなかったというのだ。
アシュレは心底、驚いた。
「食料の分配は公平じゃないのかい?」
「あー、今日は食べられる木の実や果物を現地調達しながら、という任務だったので」
「自分たちで賄え、と。そういうことか」
「今日だけが特別なのじゃなくて。これまでも、わたしたちはできるかぎりそうしてきたし。木の実や果物を見つけたら、まず自分たちのお腹を満たしてください。持ち帰るのはそのあとって言ってくれたから。それはアテルイもわたしたちの当然の権利だと言ってくれたから。だから……」
いまのやりとりであきらかになったが、アシュレが不在の間、アテルイとレーヴは協議して互いの食料の分配方法を決めていたらしい。
空が飛べる真騎士の乙女たちは、食料を手に入れる機会が地面を這うしかない人類に比べてあきらかに多い。
高所に生えた植物の実を採取したり、鳥の卵、さらにうまくすれば鳥そのものを捕獲することができるからだ。
その彼女たちに採取や狩猟の獲物の優先権を与えることで、備蓄をコントロールしようとアテルイは考えたのだ。
それは払底していく食料を出来る限り長持ちさせながら、人種間で生じる摩擦を可能な限り軽減しようとする方策のひとつだった。
自らが迫害を受けてきた異能者の一族であるアテルイは、人種や種族間で起きる摩擦がどれほど非効率的で戦隊を疲弊させるものなのかを、身を持って知っている。
だからこそ、それぞれの種族特性に合わせて食料の分配方式を変えていたのだ。
それはここまで戦隊の台所を一手に担ってきた彼女の仕事から、あきらかだった。
集団生活でもっとも軋轢が生まれやすいのは、食事と寝床と排泄の話だ。
そのうち、アテルイは食事ともしかしたら寝床に関する部分までを司ってきた。
もし彼女に差別意識などあったら、すでに戦隊内での諍いが起きていたはずなのだ。
そこに筋の通った理屈があり、説明があり、実際にそれが公平だったからこそ、信教も種族も異なるアシュレたちはまとまってこれたのである。
だが、だとしたら。
食料の分配傾斜が適切であるにも関わらず、目の前の少女たちが飢えているなら、戦隊の食糧事情はほんとうに逼迫していると考えなければならなかった。
彼女たちが果実や木の実、鳥の卵などをかき集めても、現在捜索できる範囲では戦隊全体を充足させるには食料そのものがあきらかに足りないということだ。
「携帯食用の虫ならある、とか言われても……やっぱり無理なものは無理だし」
「芋虫とか食べられない……もんね」
しょげ返るふたりに、アシュレは内心の心配を表に出さず、静かに微笑みを投げ掛けることしかできなかった。
「よし、それじゃあ、これを分けよう。きみたちで食べるといい。アテルイが工夫してくれた食べ物だ、きっとすごく美味しいよ」
アシュレがそう言うと、ふたりは凄い勢いで顔を上げた。
「ほんとに?」
「これさっきからすごく良い薫りがするの。ケーキみたい」
ケーキというのはさすがに言い過ぎだろうが、それが逆に彼女たちの空腹の度合いを示していた。
「いいの、ですか?」
「頂いても?」
もちろん、とアシュレは頷いた。
「でも、騎士さまは?」
「ボクはおと……いや朝ご飯をちゃんと食べたし、一食くらい抜いても問題ないよ」
ここで大人と言ってしまったら、早く一人前の真騎士として認められたい一心で、少女たちは無理をするだろう。
アシュレは言い直して、ふたりを安心させた。
笑顔を広げる。
アシュレの微笑みに安心したのか、ふたりの真騎士の少女は息をついた。
おそるおそる、という感じでふたつのちいさな手がビスケットに伸ばされる。
そっと掴んだそれをひとくち、ほとんど同時に齧る。
「ほんとだ、おいし!」
「わ、これ、好き!」
口々に感想して頬張りはじめたふたりの笑顔に、アシュレはなんだか報われたような気持ちになった。
作り笑いが本物の笑顔になる。
そのとき、またどこかで音がした。
さきほどのふたりのものより、低くて大きい音。
「あれ?」
アシュレは自分の腹を押さえた。
そういえば、今朝は出がけに薄い塩味のスープと干しぶどうとナッツを数粒摘んだだけだ。
それを見た真騎士の乙女たちの顔色が変わった。
ふたりともいましがた、最後のひとかけを口に放り込んだところだった。
「ああ、気にしないで、ボクは大人だから、」
大丈夫、とアシュレは言おうとして失敗した。
大人という禁句を口走ってしまった。
言葉に詰まる。
だが、最後までセリフを言い切れなかったのは、そのせいだけではなかった。
なぜって、その唇を──妹たちが奪ったからだ。
まずはエステルだった。
合わされた唇から、咀嚼されたビスケットが彼女の唾液とともに流し込まれる。
「ンンンッ?!」
慌てたアシュレの眼前で、先を越されたキルシュの瞳がこぼれ落ちそうなほど大きく見開かれた。
エステルの行動に、度肝を抜かれたのだ。
驚愕に見開かれていた瞳が、瞬く間に羨望と嫉妬に染まる。
雛鳥に親鳥がそうするように、口中のものを受け渡したエステルが唇を離した瞬間、アシュレはふたりめの妹にもくちづけされた。
「んんんんんん?!」
ふたりが口移しにしてくれた量はそれほどではなかったが、アシュレは飲み込むのに苦労した。
事態を把握できず混乱した。
「なんっ」
なんてことを、という叱責のほうも、アシュレは最後まで言葉にできなかった。
目の前で、騎士に初めてを捧げた少女ふたりが頬を赤らめていたからだ。
「美味しかったです?」
「ちゃんとできていたなら、うれしいんだけど」
アシュレはふたりを直視できなくなって、天を仰いだ。
そうしないと、ビスケットが喉を通らなかったのだ。




